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 秋田の道の昔


 今日、私たちが日常利用している「国道」や「県道」には、どんな起源があったのでしょう?


 走ることにばかり夢中で、無学なままだった私ですが、次第に強く沸き起こる「知りたい」という欲求に負け、分野の偉大な先人達の知識を借りながらも、理解を深めつつあります。
しかし、もともと勉強嫌いな私です。
一人では、途中で挫折しかねません。
そこで、どうか皆様のお力をお貸しください。
このサイトを訪問していただける皆様と一緒に、秋田の道の昔を、解き明かして行きたいと思います。

 繰り返しになりますが、まだまだ分からないことが多く、そのために誤った記述をしてしまうことがあると思います。
もし、誤りに気が付かれましたならば、ぜひとも、ご指摘ください。
そうして、少しずつ、理解を深めていきましょう。



古代〜奈良時代まで


 約2万年前(旧石器時代)から、今の秋田の土地には人が住んでいたといいます。
当時はまだ国という概念は無く、道といっても、狩場や集落間の行き来に利用されるくらいだったのでしょう。
しかし、土地は豊潤であり、秋田は文化の先端を行っていたようです。

歴史に初めて「アキタ」の名が現われたのは飛鳥時代のことで、西暦658年の「日本書紀」の中に記された「アギタ」がそれと考えられています。

奈良時代〜江戸時代まで


 西暦701年(大宝元年)の、大宝令(大宝律令)の発令によって、京都を中心にした七街道が設けられました。
これらはさらに大路、中路、小路に大別されていました。
しかしまだこの時、今の秋田県の大部分は「蝦夷」と呼ばれ、中央にとってはまだ、異国のような場所でした。

西暦712年には、今の秋田県と山形県の県土の大部分を含む広大な「出羽国」が置かれました。
その頃には蝦夷はほぼ平定され、次第に同化してゆきます。
この国名は、幾多の内乱を経つつも、1868年(明治元年)まで、永く使われます。

江戸時代 「街道の時代」


 1603年江戸幕府が開設され、江戸時代となると、かの有名な五街道(東海道や奥州街道など)脇往還といった、江戸を中心とした一大交通網が築かれます。

この当時の秋田県内では、東北では奥州街道に次いで大きな街道であった羽州街道が中心的な道路でした。
ちなみに、この経路は、今日の国道13号線(福島〜秋田)と国道7号線(秋田〜青森)に近いものでした。
このほかにも、県内の各地を繋ぐ街道や宿場が整備されてゆきました。
長い江戸時代の後期には、今日の県内の主要な道路の殆どが、既に街道として利用されていました。
今でも県内の主要な国道に残る「○×街道」の名の多くは、この時代に付けられたものです。

 この時代までは主に、自然発生的に道が誕生する時代でした。
そして、この後の時代は、国によって道が定められ、そこに道が拓かれてゆく時代です。
1967年の「明治維新」をもって、長かった江戸時代が終焉すると共に、近代日本の幕開けを見ます。


明治時代 「国道の誕生」

 明治元年、出羽国はそれぞれ今の秋田県と山形県にほぼ相当する「羽後国」と「羽前国」に分けられました。
しかし、明治2年の版籍奉還を経て、明治4年の廃藩置県では、ついに地域の支配主体としての藩が消滅します。
これにより、僅か4年足らずで羽後国という名は消えると共に、藩を改め、初めて「県」という呼び名が登場しました。
初め5県に分かれていた県土ですが、その数ヵ月後の第1次府県統合によって、現在の県土と寸分違わぬ秋田県が誕生したのでした。

 明治9年、初めて全国の道路が統一的に制度化されました。
このときより道は、お馴染みの国道県道里道(集落道のようなもの)を加えた3つに分類されました。
これらはさらに、一等二等三等に細分化されていました。
明治18年に、それまでの等級は廃止され、国道には今日のように通し番号が振られるようになりました。
この時の国道は、1〜44号まであり、殆ど全てが東京(日本橋)を起点とし、各県庁所在地や重要な港湾や陸軍施設を終点とするものでした。
よって、東京〜函館港を結んだ「六號」など、非常に長い路線が多数存在していましたが、それらの延長の多くは他の国道と重用していました。

 秋田県内に、この時敷かれた国道は「四十號」と「四十一號」であり、それぞれ、『東京ヨリ秋田縣ニ達スル路線』『東京ヨリ森縣ニ達スル別路線』と定められていました。
この二路線と、東京〜福島〜山形を結んでいた「三十九號」の、それぞれ他の国道と重複していない区間を結ぶと、ほぼそのまま「羽州街道」の道筋にあたり、現在の国道13号線や7号線の前身ともいえます。

 明治19年には道路の構造も法令で厳格に定められるようになり、結果的に短かった馬車交通時代に対応した道造りがなされていました。
その後、明治36年には初めて日本に自動車が輸入されると、明治38年には広島市で初めての乗り合いバスが運行されました。
道路の構造も、来るべき自動車交通時代を踏まえ、変更されて行きました。

 明治44年までに、この“明治国道”は60路線に改正されています。
しかしこの時代まだ、自家用車は一般的でなかった上、地方はおろか、都市部でも未舗装の凸凹道が大半であり、さらには国の鉄道優遇政策などのため、それほど利用されてはおりませんでした。

なお、明治時代に制定された「県道」や「里道」については、県内の資料に乏しく、まだ殆ど何も分かっていません。


大正時代 「県内道路網の整備」

 大正9年には、(旧)道路法が公布されました。
この道路法は、戦後の昭和27年まで効果を有していました。
これにより道路は新たに、国道・府県道・郡道・市道・町村道に分けられました。

 一新された国道でしたが、その性格は明治国道と余り変化がありませんでした。
つまり、全ての路線が東京を起点とし、各地の県庁所在地や軍事的に重要な地を終点としていたのです。
その後、大正11年には郡制が廃止されると共に「郡道」が削除されています。
 当初38路線が認定された国道ですが、廃止直前の昭和27年には計41路線になっておりました。
また、通常の国道に加えて、特に軍事の目的を有する路線として、計26路線が任意の2地点を結ぶ形で指定されました、それらは路線名の前に“特”を付け、「特二号」などのように表記されました。
この“軍事国道”も、昭和20年時点では33路線に増えていました。

 大正14年には、秋田市に初めて乗合自動車(バスのようなものでしょうか)が営業を開始しました。

 2・26事件で幕を開け、破滅的な戦争へとひた走る昭和11年。
その当時の秋田県内の主要な道路を、地図にしてみました。
下の図をクリックすると、原寸大で表示します。


 当時の府県道の殆どが、現在は国道に昇格しています。
隣県である山形県との接点の少なさは特筆ものですが、それは現在でも変わっていませんね。


昭和〜平成 現行の体制


 いよいよ、昭和27年に現行法である「道路法」が公布されました。
道路の種類としては、一級国道と二級国道、都道府県道、市町村道の4つに分類され、その路線も一新されました。
はじめ国道は、一級国道40路線、二級国道144路線の合わせて188路線が存在しました。
昭和32年には、先ほどの分類に高速自動車国道が加えられました。
昭和39年の道路法改正によって、一級二級の区分は廃止・統合され、一般国道と定められました。
 その後も、数年に一度の路線の改廃が行われており、最も新しい平成5年の改廃によって、全国の一般国道は、1〜507号となりました。
このうち、59号〜100号、109号〜111号、214号〜216号の48路線は欠番の為、路線数は459となっています。

 都道府県道についても、同様に改廃が続けられており、秋田県については平成12年度で、1〜57(主要地方道)、100〜403(一般県道)の路線があり、多くの欠番を含む為、合計179路線となっています。



 現行の秋田県内の国道県道のリストは、こちらをご覧ください。


将来の県交通

 平成15年度は、「あきた21総合計画」(平成12〜22年)の後半の始まりの年になります。
この計画を見ると、近い将来の秋田県の交通網を予測できます。

 それを踏まえたうえで、私の期待・希望を含めた(ただし、現時点でまったく実現性のない…計画のないモノは除く)2030年ごろの秋田県土を予想してみました。





 以上の内容は、今後も折を見て加筆修正してゆきます。
内容の誤りのご指摘や、意見などがありましたら、ぜひ、当サイトの掲示板か、作者までメールをください。


2003.3.23