橋梁レポート 上小阿仁村南沢の廃水路橋 第3回

所在地 秋田県北秋田郡上小阿仁村
探索日 2011.12.02
公開日 2011.12.17


灰内沢での水路橋発見から3週間後、今度は独り自転車で、小阿仁川上流の谷間に来ていた。

ここは小阿仁川沿いでは最上流の集落となる八木沢で、灰内沢出合から本流を約3kmさかのぼった所にある。
ご覧の通り、山中としては願ってもない平地に開けた美しい集落だが、この日は本格的な冬を前にした1週間ぶりの晴天とあって、各家の軒先には冬囲の準備をする住民たちの姿を見る事が出来、普段以上の活気を感じる事が出来た。

私がお話しをお伺いしたご老人もそんな住人の一人で、今は秋田市内に住んでいるが、今日は戻って作業をしているとのことであった。

この日私がここを訪れた元よりの理由は、3週間前の水路橋の再調査などではなく、全く別件だった。
水路橋については前回満足していて、それ以上をことさら期待することもせず、次第に忘却の世界に傾きつつあったのだ。
しかし、私の聞きたかった廃道の話し、そしてかつてここを通じていた林鉄の話しと気分良く話し込んでいるうちに、最後に思い出して、「そういえば、水路が…」と切り出したのが発端だった。


結果、分かった。

水路全体のアウトライン。




なんでもこの水路、建設されたのは戦時中とのことで、目的は予想通り発電用。

小阿仁川の水を八木沢集落のすぐ下流で分水し、左岸の地下にほぼ水平の水路を掘ってこれを導水。約4.5km下流の大錠(おおじょう)地区で再び小阿仁川に水を落すが、このときの落差(推定50m)で発電所のタービンをまわして発電を行っていたというから、これは典型的な水路式発電所だったようだ。

実際、稼動していた当時、八木沢集落の人々もこの保全に携わったとのことで、秋場など大量の落葉が導水路に入り込んで水の流れが悪くなると、一時的に水門を閉めて水を止め、カンテラを持って隧道に潜っては、つまりの除去を行うような事もあったという。(あれだけ巨大な水路が落葉で詰まるというのもにわかには信じがたいが、長野県の別の発電水路では、ミズゴケの除去のために導水隧道の清掃をかつて定期的に行っていたという話しを聞いたことがある。或いはそういうこともあったかも知れない)
そしてしばらく水を止めていると、発電所の方から電話が掛かってきて、「水を流してくれ」と催促されるような事もあったと言うから、この通りならば些かのどかな風景を連想する。

しかし、少なくとも戦時中の建設当時は、苛烈な統制下の突貫工事が行われたそうで、朝鮮の人たちが大勢働いていたと仰っていた。当時の秋田県は全国有数の鉱産県であり、山をひとつ挟んだ所に阿仁銅山、また県北部には有名な尾去沢や花岡、小坂といった鉱山もあった。おそらくはこうした鉱山への電力供給を目処とした発電所だったのだろう。しかし、事業者が誰であったかは覚えていないという。

建設の当初には集落の盛衰にも多少の関わりを持ったであろう発電所であり発電水路であったが、その終焉は以外に早く訪れ、県営第一号となる萩形ダムが上流に完成した昭和41年に廃止された。これは同ダムが小阿仁川の水の大半を別の河川に導水するものであったため、流下する水量が極端に減少した事が原因だった。(現在も小阿仁川は川幅の割に水量が少なく、洪水時にのみ大河の様相を呈するが、この人工的な河川争奪の影響があるといわれる)

…こんな風に古老の証言は、件の水路橋にまつわる謎を、ほぼ全て解き明かしてくれた。

私は大いに満足したが、もうひとつ伺うことを忘れはしなかった。


おじいさん。水路の橋は灰内沢の1箇所だけだったスか?

  「にゃ。2本あったナ。」


それは、どのくらいの大きさだったスベか?

  「ハイナイのと同じくらいだったと思うナ。」

どこにあったんだスベ?

  「コンブカサワダナ。」



地図を照らしてみると、なるほど灰内沢の2.5kmほど下流に、小阿仁川の左岸に注ぐ「小深沢」なる沢がある。
そこにも灰内沢にあるものと同程度の規模の水路橋があったという。
そして、そこへの行き方も教わることが出来た。
かつて大錠という集落があった所から沢に入れば、すぐだという。

私は丁重に礼を述べ、八木沢のムラを発った。
目指すは、小深沢の水路橋だ!




八木沢 取水口跡


2011/12/2 14:12 《現在地》

八木沢から500mほど下った「番鳥橋」の所が取水口の跡地だと言われたので、通りすがりに寄ってみた。

この写真の右の所がそれらしいが、道路からだとただ空き地があるくらいにしか見えない。
それで私も今までここを素通りしていたのだが、今回初めて川べりに近付いてみたところ…。





なかなかイイ!

そこにあったのは、小阿仁川の全幅を塞ぐ越流タイプの堰堤で、落差は5mに満たないくらいだが、堰堤の下流側に緩やかにカーブした水たたきは亀の甲状に石材を配置した石畳であって、戦前によく見られるタイプ(モノによっては産業遺産となっている)の作りである。

今までは1本の水路橋というほとんど“点”に近かったものが、明確な情報により全体像の輪郭付けをされ、さらにその一方の末端に存在する遺構を確認したことで、いよいよ山河に横たわる一連の巨大発電施設群の存在感は活き活きと増大して、私の興味を引き始めたのである。




堰堤によって一定の水位に仕立てられた河水は、その左岸側に併設されていた数門の水門によって適量取水され、県道をくぐるようにしつらえられた水路へ導かれていた。

ここから始まる隧道(1号隧道)は、前回見た灰内沢水路橋の右岸坑口へ伸びており、その推定長は約1.5kmにも及ぶのであるが、例によって内部は未詳であるし、今後も明らかにされることはないであろう。






大錠集落跡からのアプローチ


14:41 《現在地》

取水口から県道を4.5kmほど下ると、小深沢橋の手前にご覧の分岐がある。

今まで敢えて立ち入ったことはなかったし、ここに集落があったことも今日まで知らなかったが、大錠集落跡の入口である。

2本目の水路橋へのアプローチは、ここから始まる。




短い坂を登ると、眼前には意外に開放的な景色が現れた。
ここは小阿仁川と小深沢に挟まれた5〜6町くらいの平坦地で、集落跡というのも納得出来る広さだ。

しかし、まだ午後3時前だというのに、あたりは西日すら届かぬ黄昏ムードに包まれていた。
秋の日は釣瓶落しというが、北国の山峡にあってはなおのこと。
最後までここで暮らした人々に日々寂寥の情を与え、或いは明るい都邑への憧れを募らせたかも知れない。




14:44 《現在地》

集落跡では現在も通いによる耕作が続けられているようで、道に沿って数棟の農具小屋が維持されていた。
しかし浅雪の廃村に人影は見あたらない。

そして道は、その西端にある2階建ての廃屋の前で行き止まりになっていた。
傍らには迷路状の区分けがなされたコンクリートの水槽があり、手元の道路地図には「淡水魚養殖場」という注記があるから、集落が無くなった後も、かなり最近まで営まれていたようだ。




周囲は雑草が生い茂っていたが、雪のおかげで視界が利き、少し離れた小深沢の入口に結ばれた赤テープを見つけさせてくれた。

そこへ行ってみると、斜面に付けられた踏み跡と、そこに乗せられた数本のビニールパイプを発見。
どうやらここは養殖場の導水路のようだ。

集落跡から小深沢沿いを“少し”歩けば、水路橋が現れるという話し。
“灰内沢と同程度の規模”と言う事は、ちゃちなものでは無さそうだし、ここは期待したいところである。




植林された杉林の中を歩いて行くと100mほどで、土砂崩れのために進路を塞がれた。

これを乗り越えて進むために土砂の山へよじ登ると、本来の道を歩いているより高い視点となるわけだが、そこが図らずも“出会いの場面”となった。


橋が見えた瞬間に思ったこと。


…おじいさん、嘘はイケナイ…。




スポンサーリンク
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。


灰内沢で私が見たものとは、
明らかに規模が違うだろ。


しかも、シルエットが明らかにアーチだし…。


やっべ。 やっべえ。

胸がドックンドックンいってる。
これ、まだ遠いけど、メッチャでかいぞ。
めちゃデカ廃橋だぞ。



ドキドキしながらカーブを曲がると、果してその全貌が明らかとなったのだが、

本当の驚くべき景観は、この瞬間に初めて私の前に現れたのだった。





え? これは……





しばし、呆然。






橋が折れて…水路が落ちてた。

水は切断された断面から、バッシャバッシャ滝となって落ちていた。

これを見た最初は、あまりに意外で予想外の光景のため、
人工的に崩したのかとも思ったのだが、前後の壊れ方を見ると、
「さもありなん」というくらい傷みは進んでいるので、自重で勝手に崩壊したのだろう。

トンデモナイ廃橋を、見つけてしまった!




欠損部分が一番最初に目に入った時の眺めがこれ。

逆光がきつく、“ありえないシルエット”の正体を理解するのに、数瞬を要した。

震える私を我に返したのは、激しい水の落ちる音だった。




欠損墜落していたのは、だいたい右岸側から10〜20mの範囲である。

ここがアーチ橋全体の中で、いったいどのような部位であるかの考察は、後ほど試みようと思うが、

とにかく滅多なことでは落橋せず、未だ全国各地に昭和初年代のアーチ橋が現存し活躍を続ける中にあって、

本コンクリートアーチ橋の老朽と、その結末としての落橋ぶりは、私にとって初めて見る景色であり、

…コンクリートアーチも落橋するんだ…

という、新鮮すぎる驚きを与えたのである。


でも、よく見りゃ…



そりゃ落橋もするでしょーよ!


未だかつて、ここまで腐った鉄筋コンクリート橋脚を見た覚えはない。

当たり前といえばそうなのだが、ちょっとした欠損を補修しないでずっと放置すると、
鉄筋を仕込んだコンクリートでさえ、こんなになってしまうのである。

確認するが、この写真の柱は、

この場所を支えている。


繰りかえしになるが、

そりゃ落橋もするでしょーよ!




興奮のため、はかはかてくなったまま(標:息を切らせつつ)、橋下をくぐって反対側へ。

目の前の柱は今にも折れてしまいそうだが、
落橋箇所の向こう側に見える柱などは、鉄筋だけを残して既に消失しており、
その上の函桁は、まるで空中に浮いたような形になっているのである。

そして少し離れた所から、ようやく逆光に邪魔されないで、全体像を眺めることが出来た。




やっべえ、マジかっけえ…。


俺ん中の“廃の殿堂”入り、確定。





お読みいただきありがとうございます。
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口

このレポートの最終回ないし最新回の
「この位置」に、レポートへの採点とコメント入力が出来る欄を用意しています。
あなたの評価、感想、体験談などを、ぜひ教えてください。



【トップページに戻る】