ミニレポ第115回 (主)喜多方会津坂下線 旧 会青橋

所在地 福島県河沼郡会津坂下町 
探索日 2007.1.4
公開日 2007.1.8

十六連の廃橋


 主要地方道に指定されている福島県道21号(喜多方会津坂下線)は、その名の通り喜多方市と会津坂下(あいづばんげ)町を結ぶ、全長21km余りの幹線道路である。
会津盆地を南北に縦断する国道121号と東西に走る49号を短絡する性格も持ち、朝夕の通行量はかなり多い。

 会津地方の生活と深く結びついてきた「命の川」阿賀川を跨ぐのは、その道中の中間地点から少し南下したあたりだ。
川はちょうど喜多方市と会津坂下町の境界線ともなっている。
そこには、真新しい橋と、役割を終えた橋とが並んで架かっている光景を見る。





 南へ向かうため車を走らせる私が、夕暮れ時の会青(かいせい)橋に差し掛かる。
架かっているのは真新しい橋だった。
そのとき右側に、いかにもといった風体のコンクリート橋が並んで架かっているのを見た。
ちょうど橋の前後も真新しいバイパス道になっていたので、旧橋の存在が疑われたところだった。
はじめ寄り道する気は無かったのだが、旧橋の長さが尋常以上に見えたので、橋を渡ってすぐの交差点を右折し、バリケードで半分塞がれた旧道へと車を向けた。



 300mほど一本道を進むと、行く手を遮る丘のような河川敷に上り付け、その天辺で二度目のバリケードが現れた。
今度は全閉しており、バリケードの先が封鎖された旧橋そのものであることがすぐに分かった。
新しい橋は平成18年3月に完成したばかりで、まだ廃止から1年も経っていない旧道(橋)であるが、わずか一夏の放置で路肩の雑草は繁茂に任され、すでに廃道の雰囲気を醸成しつつある。
バリケードの前で河川敷の上を通る河川管理道路と直交しており、現在の旧道の用途は管理道路へのアクセスに絞られる。



 2重のバリケードで見事に塞がれた旧橋。
その向こうには雪を載せた路面が、一直線に続いている。
そして、視線は自然に背景の山々へと誘導される。
それは山形県境の山脈地帯で、右手には一際高く磐梯吾妻の火山群が張り出している。



 親柱は、どっしりとした立方体に近い形状で、この長大な橋に似つかわしい。
肝心の銘板が何処かへと取り去られているため、実際の竣功年を知ることは出来なかった。
また、向かって左手の親柱はよほどの衝撃力を受けたのか、全体に亀裂が走っていて無惨だ。
橋の名前については、道路地図帳などから会青橋であると知った。現橋も同じ名だ。



 私が車を停めた橋の袂は、まだ県道時代の遺物がそのまま残っている。
速度制限や駐車禁止の標識や、まだ新しそうに見えるヘキサに混ざって、一本だけそっぽを向いた白看が。
橋を渡ってこちら側が会津坂下町である。



 簡易なバリケードを越えると、川風が吹き付ける橋上へ。
少雪にて進行中の今冬につき、豪雪地として知られる会津盆地でさえ積雪は僅かだが、四方を雪山に取り囲まれた盆地を吹く風は凍える冷たさだ。
歩道もなく2車線ギリギリの路面は、不思議と中央で冠雪の境界線となっていた。
路面の水はけの為に、中央部を高めて山型の縦断傾斜を設けている事の表れだろう。
しかし、こういう機会でもなければ、それを目視で確認することは難しい、そのくらい微妙な傾斜である。



 下流方向。
まだ河口までは100km以上もあるが、そうとは思えぬ川幅である。
明治まで、阿賀川の舟運は会津地方の命脈そのものであった。
だが、この下流には難所と呼ばれる箇所が多く、為政者や大商人たちが繰り返し普請を行ってきた。そして、ますます舟運は栄えたのであった。
しかし、鉄道の開業を機に舟運は衰退。
さらに昭和に入ると、それまでは技術的に架橋が困難だった場所にもコンクリートの永久橋が次々と架けられ、各地の渡船も消滅していった。
この大河に浮かぶ舟は、いまや一部の観光用のものだけになってしまったのである。



 上流方向。
隣を渡る現橋は、流石にスマートな印象だ。
遠く茜色に見えるのは磐梯山だ。

 旧橋は、その長さにおいて現橋に匹敵する。
地図読みであるが、350mを越える。
これは阿賀川の大河ぶりを示す数字であると同時に、旧橋建設当時の技術力にとって、この架橋は大挙だったろうと想像される。

 はたして、どのような技術を用いてこの大河を攻略したのか。
それを知るためには、橋の上にいるよりも現橋から見渡した方が良い。




 勤勉で、繰り返しの仕事にも音を上げず黙々と打ち込む。
そんな、いかにも日本人的な気質が、この旧橋の設計思想からは感じられる。
川幅と河川敷を合わせ350m超級の長大橋を、ただひたすらに等間隔の橋脚と橋桁の連続で跨いでいる。
よく見ると、桁は長短が交互に組み合わされており、ゲルバー桁と呼ばれる工法だ。
橋脚の数は、橋から数えていくと、なんと16もあった。
17連の単純桁橋として、先代の会青橋は生を受けたのであった。

 一方の現橋は、同じ桁橋とはいえ流石に洗練されている。
ほぼ同じ長さに要した橋脚は、わずか7つに過ぎない。



 銀山峠に沈む会津盆地の夕日。
こんな景色が本当に似合うのは、もう見ることのできない阿賀川舟運だったかも知れない。
しかし、素朴な魅力に溢れた旧橋もまた、この光景における役者として十分だ。
真新しい橋ではこうはいかぬ。
おそらくこの旧橋は近いうちに取り壊されるだろうが、寂しいことだ。

 そうすれば、この景色は二度と帰らない。



 廃止後、たった一夏。

にもかかわらず、旧橋の路面上には、したたかな生を全うしたセイタカアワダチソウの亡骸が。
彼らが落とした種子は、おそらく殆どがコンクリートの路面に阻まれたであろう。
だが、彼らの侵攻はやがてこの路面にも青々とした草むらを生み出さしめるだろう。
もっとも…、橋自体がその前に消えてしまう公算が大きい。



 橋を渡って喜多方側も、同じようなバリケードで塞がれていた。
親柱は片方だけが現存しており、銘板は無い。
橋を渡るといきなり90度の直角カーブとなっており、これは目に余る悪線形だ。
そのため、下り車線は橋の終わりに近付くにつれ、減速を促す山型の道路ペイントが幾つも描かれていた。



 此方岸は喜多方市会知(えち)、対岸は会津坂下町青木である。
ここを渡る橋の名は、「会青橋」と書いて、「かいせいはし」と読む。
珍しい音読みの理由は、単純な地名合成によるものだったのだ。



 現道とは、写真奧で合流している。
そこまでの100mほどの短い旧道部分も、現役当時のままだ。
そしてやはり、いまは河川管理道路の一部分として利用されている。



 不思議と夕暮れに映える、旧橋の光景。

 それも、斜陽なる存在ゆえか。







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