ミニレポ第131回  鶉橋遺構

所在地 栃木県栃木市尻内町 
探索日 2008.4.22
公開日 2008.5. 3

奇妙な親柱の語ること



 先日、私ははじめて栃木県栃木市の土を踏んだ。
もちろん山チャリ目当てだったのだが、その道すがら奇妙な橋に出会う。
場所はこの辺りだ。⇒【所在地】



 まず目に付いたのがこの親柱。

 御影石製の立派なものである。
すり切れるように角の欠けた姿には、足尾山地が吹き下ろす砂塵混じりの季節風に耐え抜いてきた、そんな風格を感じる。

 古色を示すように堂々と達筆に刻まれた橋名は…

うずら

 恥ずかしながら、現地では読めなかった…。





 道を挟んで対になる親柱も健在。

 こちらも古い字体の気難しげな文字が、4文字刻まれている。

元縣廳堀

 明治っぽい臭いがプンプンするが、こっちは読めた。
「元県庁堀」…つまり、この鶉橋が架けられている川の名前である。

 現存する親柱はこの2本のみである。
だが、橋自体も現存存在している。






 うわっ… これはひどい…。

 いろいろとツッコミどころ満載な感じなのだが、親柱の存在感に対して添え物にさえなっていない、まるで紙ヒコーキのような橋桁や欄干がまず異様。

 しかも、古いはずの親柱もなんだか居心地が悪そうな、どこか根付いていない感じがする。
明らかに左右の高さが揃っていないうえに、最初は「季節風に削られて」と好意的に解釈した右親柱の欠けも、本来は車道なり道路側に面していて衝撃によって破壊されたものではないかと見えるのだ。


 それに…



 これって、本当に 元縣廳堀??

 違うよね。絶対。





 奥に見えるのが栃木市と足尾銅山を結ぶ山岳ルートとして由緒のある県道32号「栃木粕尾線」の旧道だ。
親柱は県道の側に顔を向けている。
そして、Iビーム鋼で補強されたコンクリート単板桁が、鉄パイプ欄干を携えて農業用水路を渡っている。
こちら側の道は尻内集落の生活道路である。
すぐそばで水路は暗渠化しており、車道もそこを通っている。
橋は、明らかにおまけのような存在である。

 この2本の親柱は、どこか別の場所から連れてこられたものと見て間違いなさそうだ。

 では、それは一体どこから??







 と言っておきながら、実際の探索はこれ以上踏み込むことはなかったのだけど…。
帰宅後に、机上による追跡思考を行ったので、その成果と言うほどでもない成果を聞いて欲しい。





 まず、「鶉橋」という名前はかなりかわっているからググれば一発かと思ったのだが、出て来たのは人の名前ばかりだった。(「鶉橋」をググる


 となるとやはりもう一つのヒントに頼るしかあるまい。

  「元県庁堀」

 この名前も多くの示唆を含んでいる。


 栃木県庁があるのは即ち栃木県の県庁所在地。
言わずと知れた餃子の街、人口約50万、北関東唯一の中核市、宇都宮だ。

 しかし、調べてみると宇都宮の栃木県庁の周りにお堀はない。
もちろん、鶉橋が架かっていた記録も見つからない。


 そうだった!

 栃木県は明治時代に県庁所在地が替わったという話を聞いたことがある。
宇都宮に県庁が移る前は…その名も「栃木町」にあったという一種のトリビアだ。
栃木町は現在の栃木市の中心部。

 あくまでもモノは「県庁堀」である。
これはアヤシイゾ!




 うは─w

めっちゃお濠が囲んでるやん。
栃木市役所(元県庁)を。

 しかも、県道32号もあるし…。

 【県庁堀】(栃木県サイトより)

 まず明治4年の廃藩置県によって、現在の栃木県域にまず栃木県と宇都宮県の二つの県が立てられた。
それぞれの県庁は栃木町と宇都宮町に置かれたが、この時栃木県の初代県令鍋島貞幹は、県庁の敷地を囲む堀をめぐらせた。
堀は近くを流れる利根川水系巴波(うずま)川に繋がっており、舟が直接県庁に着ける造りになっていた。この初代:栃木県庁の完成は明治5年である。
後に堀は「県庁堀」と呼ばれるようになった。






 堀と繋げられていたという川の名前が、巴波川。
これでなぜか「うずまがわ」と読む。

 う ず ま ?

 う ず ら ??


 ププッ。
流石にこれは飛躍しすぎかと思ったが、さらに調べてみると…(ネットで調べただけだけどね)

 巴波川圏域河川整備計画(PDF)

「巴波川の名前の由来は、川の西方が「うづらケ丘」と呼ばれ、うづらがたくさん生息していたことにより「鶉妻川」と呼ばれていたものが転訛した…(以下略)」


 うはーーw。
鶉出て来たよ。うずら。




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 栃木市周辺はいまも“うずら卵”の産地であり、橋の名としては奇妙に思われる鶉橋も、町を象徴する風格に満ちたものであったに違いない。

 残念ながら今回の調査では、鶉橋が本当に県庁堀に架かっていた証拠は掴めなかったし、その本来の姿も分からない。
でも状況証拠的には十分である。
かつて堀での役目を終え、親柱だけがここに移設されてきたのだと思う。
約10kmを、県道32号に運ばれて。


 ちなみに、栃木町が県庁所在地の座を降りるのは明治17年の事である。
明治6年に宇都宮県が栃木県に統合されたときには栃木町が引き続き県庁を有したのであるが、その11年後、新たに赴任した県令は議会の承認を待たず、半ば強引に県庁を宇都宮へ移した。

 以後、栃木は交通体系の整備から取り残される形となり、長い斜陽の時期を迎えることとなるのであった。




 「元縣廳堀」

親柱に敢えて「元」の文字が入っている真意はどこにあるのだろう。


 橋が明治17年よりも後に架けられたことを示す証拠だが、この堀の固有名称は昔も今も「県庁堀」であったはず。
それを敢えて「元」と付けた真意。

 それは、悔しさ  か。


 当時、赴任一年目の県令による専横的な県庁移転劇には、人心の穏やかならぬものがあったと聞く。
宇都宮の新県庁を竣工式に爆破し、県令共々に葬ろうという、日本では珍しいテロ未遂事件まで発生している。

 ちなみに、この悪辣な県令というのは…





三島通庸肖像

三島通庸です(笑)。


 新県庁爆破テロは直前で発覚し、犯人の16名の青年たちは茨城県の加波山に立て籠もるも全員が捕縛。(加波山事件)
うち7名が死刑、残りは無期懲役となった。

 無事に竣工した壮麗無比なる新県庁も、その年のうちに火災に遭い全焼したという。



 …なんか、重くなっちゃったね……。

    う、  うずらピヨピヨ。










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