東京に引っ越して2年、房総半島の東半分には立ち入ったことが無かった私だが、今回初めて東海岸に属する夷隅(いすみ)郡のなかでは西寄りの大多喜(おおたき)町に行ってみた。
もちろん何のあてもなく行ったわけではなく、廃なるものの呼び声に導かれたのである。
「でもミニレポ?」
夷隅在住のあなた、そう残念がらないで欲しい。
行ったのはここだけではない。
だが、ここが最初である。
2009年3月18日から20日にかけて行われた「房総東部探索」は、この探索によって幕を開けた。
場所は右図の通り。
大多喜町の中心部から北西に2kmほど行った横山地区。
国道からは1km弱西に入った沢沿いである。
この地図上には沢に沿って1本の行き止まりの道と小さな溜め池が描かれているだけだが、現地にはここにないものが…。
朝6時前、まだ明けきらない空の下、私の初めての夷隅郡での探索が始まった。
初めての土地というのは、緊張する。
1日いっぱい汗をかけば馴染みに変わるが、今はまだよその土地。
地図を見ながら、恐る恐るといった感じで沢沿いの道を進んでいく。
住宅地との境は曖昧で、なんとなく車を停めて自転車に乗り換えるタイミングを逃したまま来てしまった。
しかし、少し前に路面の簡易鋪装も途絶え、砂利道に変わっていた。
白む空をバックに、普段以上の立体感をもって現れた1本の橋。
さほど道幅は広く無さそうだが、作りは立派でしかも無個性。
ダム湖にありそうな橋だと言うのが、いくらかの先入観を含んだうえでの私の第一印象。
はっきり言って何の変哲もない橋なのだが…
これが表題にある、「謎の橋」なのである。
橋の下の道は広場のようになっているが、しかし橋上にある道に繋がる分岐があるわけではない。
なんとなく、ただ広いのである。
何が、「謎」なのか…。
まだ多くの読者様には分からないと思う。
私だって、ただこの景色を見せられたとしても何の不思議も感じないだろう。
これは、全くただの橋。
完成した橋である。
しかし、この橋が「謎の橋」である確信を「あるもの」によって得ている私は、迷わず車をここに停め、橋の上へのアプローチを試みた。
先ほども書いたように、近場に橋上へのアプローチはないようであるから、冬枯れを良いことに強引に橋下の斜面をよじ登ったのであった。
斜面には、軽自動車ほどもある巨大な岩がゴロゴロしていたが、それは明らかに自然の地形ではなかった。
火山岩のらしき堅く巨大な岩が、まるで出来の悪いピラミッドのように乱れ積みされて斜面を覆っているのは不自然で、また異様な雰囲気であった。
強引に登っていくと、やがて橋台の脇に着いた。
そして、橋の履歴書とでも言うべき橋梁銘板が見えた。
これで素性が分かる。
名前は「神田橋」といい、1996年3月に竣功したらしい。
管理者は日栄総業(株)という会社のようだ。
県道でも市町村道でもないらしい。
謎は解けた。
橋は、未成であったのだ。
正確に言えば、橋は完成しているが、取り付ける道は完成していなかった。
そもそもが、何故この橋を「謎の橋」として知ることが出来たかと言えば、『埼玉発 大人の小探険』の管理人であるたからった氏が「地形図に変な橋がある」と教えてくれたからだった。
最新版2万5千分の1地形図にはこのように描かれている「神田橋」。
うん。
確かにこれは謎の橋だ(笑)。
谷を一跨ぎにする大きな橋の前後には、あるべき道が描かれていない。
そこには、橋しかないのである。
そしてこれが実際の現地の風景。
ジャンプよじ登り(ジャンプ中Aボタン連打)で辿り着いた橋上より眺める、右岸取り付け方向の景色である。
猛烈な薄の藪が廃スキー場のゲレンデのように続いているが、それもどれほどの奥行きがあるのかは分からない。
自身の性格上、このススキ原もやがて探索しなければならなくなることは分かっていた。
それだけに、冷たい風が吹き抜ける橋上での時間は限られた幸福であり、どこか悲壮感を漂わせたものとなった。
銘板によれば、築13年目の春を迎えている神田橋。
だが、そこには確固たる橋と道というカタチがあるだけで、用に供すべき人も車もいないのであった。
路肩の水が溜まりやすい部分に、僅かだが苔の育ち始め、そこに土が出来つつあるのが侘びしかった。
100年後にも橋がこのまま墜落していなければ、きっと立派な森になっていることだろう。
ちょうど下に道がある橋の中央付近までは、欄干のうえにさらに転落防止用の柵が設置されていた。
写真はそれがない左岸側残り半分の景色だ。
下から見たときの印象以上に橋は狭く、軽自動車同士でもすれ違いは出来ない幅であった。
しかしそのせいもあって長さは大きく感じられ、実際に100m以上はあると思う。
そして辿り着いた左岸の橋端。
案の定というべきか…、こちら側にも道はなかった。
それどころか、橋と陸との間には右岸以上の高い隔たりがあった。
ロープなどの道具がなければ下りることは出来ないし、もし下りてしまえば戻っては来られなくなる。
まあ、降りたくなる要素は全くないので、引き返すことにした。
橋上、行き先なき左岸付近より眺める下流方向。
川というか葦原の湿原のようになった谷と、ここへ来るのに使った砂利道が見える。
遠くで朝靄に霞んで見えるのは、盆地になった大多喜の一帯である。
工事車両の轍さえ見あたらないこの橋は、一体何のための橋であり、またどうして放置されているのだろうか。
実は、先ほど見た銘板にこそ最大のヒントが隠されていたのだが、それは「ぐぐる」という行為を経て初めてヒントたり得るのだった。
今はまだ…、
見えない答えを求めて藪へ突撃するより手はなかった。
橋から降り、一面の枯れススキに覆われた道跡らしき平場へ進む。
冬でも雪が積もるという事がほとんどないだけに、ススキは生前の姿とほとんど変わらぬ背丈を持って私の進路を阻害した。
乾ききった枯れススキは時として弾けるように折れて、私の顔面に襲いかかってきた。
しかも、よく見ると藪はススキだけではなく、棘のある植物も多く混ざっていた。
あっという間に、じっとりした汗が染み出してきた。
廃止後、ただの一度も人が入り込んでいない。
ここはそんな匂いの強い、獅子猛るような草藪だった。
橋があった以上、道はどこかへ通じているはずだという私の予想であり願望も虚しく、10分弱登ったところで遂にその痕跡は途絶えた。
というか、この大部手前からもう、車道跡だとは言い切れない状況だった。
道は斜面に対して直線的に急坂で、ブルドーザーは通れても橋の部材を運搬する大型車や生コン車が通れる可能性は皆無だった。
つまり、この行き止まりの道跡は、橋を造るための工事用道路でもなければ、橋に繋がるべき未成の道路でも無さそうだった。
徒労感だけが募る、ひどい藪漕ぎだった。
やはり10分近くかかって激藪を戻った。
私の前に再度現れた神田橋は、その能面のような表情を最後まで崩すことはなかった。
未成道路にしても、普通はその“意図”は分かるものだ。
だからこそ、果たせぬ理想との対照のもとに独特の悲哀を感じるのであろう。
だが、この橋は分からない。
橋だけが、ポツンとここにあるのだった。
ここは下に湖水でもない限り、これほど大きな橋でなければ渡れないほど深い谷ではないし、対岸やこちら岸に橋の目標になりそうな集落や施設があるのでもない。
結局、銘板の他には橋の素性に繋がるような情報は何も得られないまま、“先へ”進むことにした。
先へ… まだ終わりではないのだ。
写真は、神田橋の少し上流にある溜め池。
鏡のような水面上では、まるまると太ったカモたちが羽を休めていた。
神田橋を振り返って見たのではない。
もう一本、橋が現れたのである。
神田橋と瓜二つの、長くて大きな橋が。
そして、この橋もまた…
何のためにそこにあるのかが全く分からない、謎の橋だったのである。
溜め池を挟み込むようにして、ほぼ同じ高さに架かる2本の橋。
そっくりなのは外見だけではなく、作りっぱなしのまま未供用で放置されているのも共通していた。
ちなみに、地形図上では溜め池の右岸にかなり大きな建物が描かれているが、その存在に現地では気付かなかったし、橋とも繋がってはいなかった。
なぜこの何の変哲もない谷間に、理不尽な橋が2本もあるのか。
2本あると言うことは、もっとあるのではないか。
そんな気持ちから、2本目の橋の下を素通りして、先に行き止まりまで行ってみることにした。
だが、地形図にも描かれている2本の橋が全てだった。
あとは、なぜか入口が封鎖されているだだっ広い寺院(←)と、無人の浄水施設(→)があるだけだった。
冬枯れの景色ゆえか、虚無の空気は私の周りにまとわりついたまま、動かなかった。
そして2本目の橋の下へ戻ってきた。
一目見て神田橋よりも長いと分かる橋だった。
5連の鋼箱桁橋で、全長は150mくらいか。
そして、地形図が示しているとおり、この橋もまた孤立した存在であるようだ。
例によって、藪を掻き分け手近な左岸の橋台へ向かう。
藪の中に入り込んで気がついたのだが、今度は一応道があった。
橋の下の道から左岸の橋台にまで続く、枯れススキに覆われた幅3mほどのスロープが。
ただし、例によって一般の道が廃止された様子ではない。
その勾配は、部分的にキャタピラを必須とする。
やがて辿り着いた場所は、橋を見下ろす高台だった。
橋の高さを通り越して、もっと高いところへ着いたのだった。
そこには、かなり大規模な土木工事の痕跡があった。
山を削り、平に均した跡である。
これは単純に道路を通すための敷地ではないようだ。
橋に較べて余りに広いし、またこの敷地自体は他のどこへも通じていない行き止まりのようであった。
特撮モノの撮影にでも使えそうな荒れ地を背に、いよいよ問題の橋へと向かう。
神田橋とは違い、一応は道形が橋の前後に通じている。
今は無理だが、過去にはいくらかの車もこの上を往来したに違いない。
だが、それでも正式な供用に至っていないことは、誰が見ても明らかだった。
橋だけがポツンと架かっている。
その印象は、神田橋と全く同じものだった。
神田橋もそうだったが、この橋にも親柱はなかった。
親柱だけ後から作るつもりだったとは考えにくい。
あらゆる意味で、個性を廃した無機質的な橋であった。
やや退屈な橋上では、150mくらいの長さがもっと長いものに感じられた。
あたりは、これ以上ないほどに静まりかえっていた。
そして辿り着いた右岸のたもと。
こちら側にも一応は道形があり、車も通った痕跡があった。
そして、橋台を支える築堤は、やはり大きな岩を積み上げたものであった。
普通、何の意味もなくわざわざ遠くから石を運んできて築堤に使うことはない。
当然それは、何か見栄えを考えてのものであろうと思われる。
そこに通常の公道ではない、もっと私的なものを感じた。
橋梁銘板を求め、築堤の途中まで降りてみた。
で、適当なところから望遠で撮影したのが、この写真。
曰く、橋の名前は「川田橋」。
その他は神田橋と同じで、1996年3月竣功、日栄総業(株)が工事主であった。
やはり、2本の橋は兄弟であった。
神田、川田の兄弟…。
まるで人の名前のようだが、実際にそうなのかも知れない。
左岸側には、さらに広い空き地が広がっていた。
本当に広い。
向こうの丘も、さらにその向こうの丘までも…、
尾根が空に切れるところまで、ススキ色の造成地が続いている。
きっと道もまた続いているであろうが、わざわざ歩いて行ってまでそれを確かめる気持ちにはならなかった。
少しずつ位置を変え、造成地の向こう側にあるものを見届けようと足掻いたところ、見えた。
尾根の上に建つ、クラブハウスが。
そして地図は教えてくれた。
あれは尾根の反対側に広がる「南千葉ゴルフクラブ」であると。
ここでようやく真実に目覚めた。
第一印象であった“ダム関連の橋”だというのは、この近くにある未成のダム「大多喜ダム」の印象を引きずったブラフであって、実はゴルフ場。
これらの橋は、きっと途中で頓挫したゴルフ場の増設、ないしは拡張の名残なのだろうと、そう理解した。
谷を跨ぐ道が谷中の道と素直に繋がっていなかったのは、そこにダムが出来るからではなかった。
プレーヤー以外が出入りしては困るからだ。
帰宅後、「日栄総業」をググってみた。
「南千葉ゴルフクラブ」の前身、「南千葉ゴルフ&リゾート」の経営者だった。
平成17年に倒産しているらしかった。
平成6年頃には、大多喜町内のどこかで、「ザ ビンテージクラブ ジャパン」というリゾート施設の工事を進めていたらしかった。
今回は、親柱のない橋に刻まれた1枚ずつのプレートが、その素性を教えてくれたケース。
谷を私物のように縦横とした巨人は、明日を夢みたまま死んでしまったらしい。
忘れ形見の廃橋たちがまだ腐らず使える内に、何かしら有意義な利活用を期待したいところだ。