ミニレポ第168回 国道136号旧道 旧妻良隧道

所在地 静岡県南伊豆町
探索日 2010.1.15
公開日 2011.9.11

“伊豆半島の法則”に則る、失われた隧道


お馴染み『道路トンネル大鑑』に記載のある隧道。
名前は妻良隧道。妻良はやや難読だが、これで「めら」と読む地名である。

妻良隧道 
 路線名 主要地方道下田石廊松崎線 箇所名 南伊豆町妻良
 延長99m 幅員5m 高さ4.5m 竣工明治34年 一部素堀、路面未舗装

『道路トンネル大鑑』より転載

そこには、はっきりと隧道のステータス…「明治生まれ」であることが記されている。


これまでの調査で、伊豆半島内には全部で16本の明治生まれの隧道が確認されており(現存しないものも含む)、そのうち半島南端に位置する南伊豆町(みなみいずちょう)には、3本の明治隧道がある。
明治25年生まれの青市隧道(仮称)、同31年生まれの一条隧道(仮称)、そして同34年生まれの妻良隧道である。
また、16本の明治隧道中、最も南に位置しているのもこの妻良隧道だ。


妻良隧道の所在地は、ここにある→

【周辺図(マピオン)】

『道路トンネル大鑑』が執筆された昭和40年代初頭には、妻良隧道がある道路は国道にはなっていなかった。
当時の国道136号は、破線で示したような内陸を通っていたが、昭和47年に海岸沿いに妻良から松崎へ至る南伊豆有料道路(マーガレットライン)が開通した事を受け、同52年に国道のルートも同路線をなぞる形へ変更されたのである。

妻良隧道の位置をこうして地図で見ていると、半島のかなり西海岸寄りにあるという印象を受けると思うが、実は天城山から石廊崎へ至る半島の中央分水嶺を貫くものである。
【分水嶺を表示】

こんな具合に、伊豆半島南端部の分水嶺は、ものすごーく西に寄っている。
そのせいで、西海岸は非常な急傾斜であり、様々な海岸観光地を形成しているのであるが、それは妻良隧道周辺の風景にも良く現れている。





これが妻良隧道周辺の地図。

左上が妻良漁港で、海岸線にあるので標高はほぼ0メートル。
妻良隧道(現在は妻良トンネル)があるのは標高140m附近であり、国道は約1.5kmの間で、これだけの高低差を平らげる。
すなわち、かなりの急坂の連続ということになる。

対して、トンネルの東側はゆるやかな谷地形にあり、約10km流れて海へ注ぐ二条川(下流は青野川)の源流部である。

実際に東から西に向けて走行すると、峠を登っているという印象は全くないまま、ふと小さな尾根をトンネルで越えた途端に、今度は驚くほどの勢いで海に下って行くという、やや不思議な体験をすることが出来る。
逆ならばおそらく、「こんなに苦労して峠を登ったのに、越えてもロクに下りやがらん…」と不平不満を感じるかも知れない。

ちなみに、以前紹介した一色隧道(昭和12年生まれ)は、この地図の東側に隣接した位置に存在する。




もうひとつ、妻良隧道ついでに、伊豆半島の明治隧道についての面白いお話しを。

ぶっちゃけ、いまの妻良隧道自体ははそんなに面白くない(ショボン)ので、この辺の話しでボリュームをね…。

この図は、以前「廃道をゆく2」で「地域オブローディングのすすめ」という記事を書いたときに使った地図だが、これが言わんとしているところは何か。

この地図には、半島内の明治生まれの隧道と、当時の主要な港、そして明治時代に車道化を果した主な道(赤線)を示している。

これを見て分かるのは、現在でこそ伊豆半島の海岸沿いをぐるっと国道が循環しており、幹線道路になっているが、明治期においてはそうではなく、天城峠(天城山隧道)を越える下田街道を背骨として、そこから肋骨状に分岐する支線のみが車道となっていて、多くの明治隧道がこれらの車道上にあると言うことである。(これを「伊豆半島の法則」と呼んでいる)

当時の半島内における交通の主役は、あくまでも海上の船舶であり、陸路は極めて不十分な状況だった事が伺えるが、そんな中で妻良隧道が掘られていたということは、ここが半島内でも枢要の地であったことを思わせるのである。
現在、妻良は小さな漁港に過ぎないのだが…。


このようなことを想いながら、妻良隧道の現状を見てみよう。






2010/1/15 8:53 《現在地》

南伊豆町役場がある下賀茂地区から西へ約6km。
伊豆南端の分水嶺に位置する、立岩集落に着いた。

国道の補助標識からも分かるとおり、この集落は既に大字妻良の範疇にある。
明治22年まで立岩集落は賀茂郡妻良村の端村だったのであり、このことからも、ここにある峠(妻良隧道が掘られた峠だがその本来の名前は不明である)が、妻良漁港と一体の存在であったことが分かるのである。

この写真は、来た道を振り返っている。
河川の源流部とは思えないくらいに谷は明るく広く、そしてなだらかだ。




対してこれが、妻良隧道(新・旧)。

少しレンズをズームにして見ると分かり易いが、現在の国道上のサミットは、トンネルではなくその直前。
目の前の路上が分水界になっている。

そして、明治34年以来の旧妻良隧道は右にある。

…ひと目見て明らかなとおり、

そこは

である…。(ショボン)




これには流石にガックリである。

まあ、埋め戻しよりはいくぶんマシで、そこに隧道があったという空間の広がりや、それに至るまでの路面は良く残っているのだが…。

肝心の坑口が、坑門のほとんど全てと一緒にコンクリートウォールに覆われて、塞がれてしまっているのだ。



『南伊豆町誌』(平成7年刊行)より転載。


《現在地》

そしてこの写真は、私が知る限りでは、旧妻良隧道の姿を撮らえた唯一の写真である。

『南伊豆町誌』によれば、それまでの妻良トンネルは、明治34年建設で長さ99.7m、幅5m、高さ3.7mと狭く、大型車の相互通行ができなかった。このため県は、緊急狭隘トンネル整備事業として新線を南側に建設した。昭和63年度着工。平成6年12月1日供用開始とある。

なお、この写真からは、旧坑口がやや歪なアーチ形をしているように見えるが、いったいどのような坑門だったのだろうか。
少なくとも、明治時代に建設されたままの姿だった…と言うことは無さそうだ。




とりつく島もないとはまさにこのこと。

やや傾斜が付けられたコンクリートの壁が、坑口を完全に塞いでいる。
その上の平らな所にハニーボックスが二つ置かれているが、そこまで行く気にもならない…。

その前にひっくり返ったボートが一艘置かれているのは、なんのまじないか?




現状からは、とうてい明治隧道の面影を感じる事は出来ない妻良隧道。
町村史にも記録が少なく、もし往時の姿をご存じの方がいたら、ぜひ教えて欲しい。

そんな隧道の移り変わりを見てきたに違いない、旧道の路傍に鎮座する二体の地蔵。
何となく大陸系のお姿というか…地元で見るとは違った意匠に見えるのは、私の経験値不足のせいだろうか。

彼らから情報を聞き出す(石のメモリーを読み出す)術があるならば、どんなにオブローディングは実りの大きなものになるだろうかといつも思う。(ゲームの「桃太郎伝説」が羨ましい)




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現道はご覧のような、“ざんねんさん”。

まあ、普通に使う分には、こういうのが喜ばれるんだろうが、明治隧道に対する敬意のようなものを表しなさいと押しつける俺は、うざいと我ながら思う。
黙って通り抜けるなり。

ちなみに、坑門に描かれているサルには意味があって、南伊豆町の観光名所のひとつである波勝(はがち)崎には沢山の野猿がいて、天然記念物に指定されていることにちなむ。




やる気の無さが全面に出たのか、洞内で撮影したたった1枚の写真は激しい手ぶれ。

全長177mの妻良トンネルは、全体がバナナのようにカーブしていた。

そして、明るいトンネルを抜けると、そこは“西海岸”だった。




8:55 《現在地》

“事前に予習”したとおり、トンネルの西側は強烈な下り坂。

もちろん、酷道だとか言うほどではなく、幹線道路としてちゃんと整備はされているけど、1.5kmで140mダウンは伊達じゃない。
トンネルを出た途端にデカデカと視界に入ってくる、「この先急カーブ走行注意」の標識と、嫌になるくらいの「視線誘導板」(デリニエータ)の列が、そんな変化を物語っている。
標識のカーブと実際のカーブがものすごく、相似してるのも目を引く!

峠の両側で勾配とか高低差なんかが極端に違うものを片峠と呼ぶが、この妻良の峠もその典型例であった。




だが、ここで勢いに任せて下ってしまえば、それで探索は終わってしまう。
どうせダメだとは思うが、一応旧隧道の“反対側”をチェックさねばと振り返る。

そこには、サルではなく、灯台を身に付けた坑門が。
『南伊豆町誌』はこのモチーフを単に「灯台」とだけ記しているが、石廊崎か波勝崎か、実在の灯台なのだろうか。

そんなことよりも気になるのは、右側のカーブした擁壁だ。

これって、現道には必要のないスペースではないか?
実際、壁際までは活用されていないし。




で、旧道があるのはその反対の左側。

車1台分だけの狭いスロープが現道と直角に交わっており、その奥に目を向けると、何とも良い雰囲気の舗装路面が。

赤白複合のセンターラインが、古き良き峠道の香りを纏って私を誘っていた。

もちろん、行く。




最初のスロープ部を登っていくと、気になる平場を発見した。

それは右の矢印を付した部分で、ここにもアスファルトで舗装された路盤があるのである。
ちょうどその路盤の一部を掘り下げて、スロープは作られていた。

明らかにそれは旧道の痕跡だと思うが、より明確で言い逃れしようのない“センターライン付の旧道”が目の前にもある。




とりあえず、この景色が見れただけでも、良しとしようか。
そう思わせてくれる、なかなかにオイシイ風景だった。

この場所には、少なくとも2世代の道の変遷(現道を合わせれば3世代)があったようである。
最初はおそらく緑で着色した部分が道だったのだ。
現道の向こう側のカーブした擁壁は、この旧道の外周をなぞっていたように思われる。

そしてセンターラインが鮮明に残るオレンジに塗った所が、次の世代の道。
これは現道の建設にともなって用意された、仮設道路だったのではないだろうか。
最初の道は現在の妻良トンネルの坑口に支障しており、工事中はどこか別の所を通す必要があったはずだ。




旧道に入る。

するとすぐに、舗装路面に不連続の箇所が見つかった。
おそらくここから手前は、現道の工事に伴って小規模の付替が行われた区間である。
そしてその奥は、明治以来の道と言うことに。

三重のセンターラインが敷かれたカーブは、いかにも窮屈そうである。
そして、その先にあったという、さらに窮屈なトンネルは…

どうなっている?





8:58 《現在地》

こうなっている!



ぐぬぬぬぬ…。




完全封鎖完了。


せっかくの明治隧道なのに…

これでは「ミニレポ」も、やむを得ないよね……。

本当に、惜しい!





でもでも、東口にはなかった収穫があった。

この西口には、扁額が存在していたのである。

或いは東口にもあったが、閉鎖壁により隠されているのかも知れないが。

ともかく、西口には扁額が存在する。

これはもしや、明治の扁額か?!




だ〜が、扁額に刻まれている年号は、
“昭和●●四年三月竣工”というもので、
全然明治じゃない!

ハニーボックスによって扁額の一部が読み取れないが、「昭和」の2文字は揺るがないのである。

明治の隧道は、明治34年から平成6年まで、93年の永きを現役で生き長らえる過程として、当然、生まれたままの姿ではいられなかった。

そしてこの最初の姿については全く記録が無く、伊豆半島隧道史上の大きな謎として残っている。




坑門脇の山に少しよじ登って、なんとかハニーボックスの裏側を確認しようとした。

そして、刻まれている竣工年が判明した。

「昭和三十四年三月竣工」である。


昭和34年…すなわち誕生から58年目のこの年、隧道は大きく生まれ変わったようである。
その誇らしさと喜びが、巨大な扁額には込められているように思う。

ちなみに、扁額の周囲のコンクリートには、これと言った意匠は見られなかったが、その代わりを素朴なコケやツタが演じていた。




坑門の上まで行ってみた。

万が一、明治の隧道がそこら辺に口を開けていたりしないかと思ったのだが、そういうものは見あたらなかった。


それにしても、ハニーボックスを設置した人は、なかなかオブ的なセンスを持った人物だ。
よくあんな場所まで、大きなハニーボックスやら清酒箱やらを持ったまま歩いていったものだ。

私は、遠慮しておいた。




全長99mの完全に孤立した“闇”へ叶わぬ想いを馳せつつ、伊豆最南端の明治隧道跡を後にする。

せっかくなので、妻良まで行ってみよう。





現道に戻り、下る。

その途中、一箇所だけ見晴らしの良い場所があった。

湾の手前が妻良、奥が子浦という港村で、
遠くのひときわ目立つ岬が、波勝崎である。

中世の文書にも妻良や子浦の名前は出ており、
帆船時代には東西航路の重要な風待港であったと考えられている。



駆け下れば、海と沢と山との窮屈な隙間に広がる妻良の集落。

まさしく人家連担区間というやつで、いくら大型の観光バスが通ろうとも、
拡幅する余地はないし、バイパス化もかなり困難だろう。

なお、変わった名である妻良だが、古くは「妻浦」と書き、
村内鎮守である三島神社が女神を祀る故の名であるという。




明治に生きた人々は、この伊豆南端の小港を、
来るべき陸上交通の時代により大きく発展させるべく、
背後に立ちふさがる“分水嶺”へと、鑿やツルハシを手に挑んだ。

その結果、村はどんな変化を遂げ、今の姿に至ったのか。
途中には、まだまだ私が知らない場面が沢山あるのだろう。

だが、明治生まれの隧道が、小さからぬ役割を果し得たことは、
それが姿を変えて今も “生き続けている” 事実が証明していた。




【おわり】




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