その19奥羽本線 旧 船岡隧道  2003.4撮影
 秋田県仙北郡協和町


 このコーナーで奥羽本線の廃隧道を紹介するのはこれで3回目ですが、今回は河辺郡河辺町と仙北郡協和町の境にあるトンネルを紹介します。

 明治35年、遂に青森から伸びてきた奥羽北線の鉄路が県都にたどり着きました。秋田駅の開業です。
このとき、まだ福島から延びてきていた奥羽南線は、未だ秋田県内にたどり着いていません。
しかし、北線はさらに明治36年には河辺郡に入り和田駅を開業させ、一足早く県南へ足を踏み入れました。
さらに、翌年の明治37年8月には境、刈和野、神宮寺と一挙3駅が開業。
これは、初めて県南の端院内に南線が到達する2ヶ月前のことでした。
 いよいよ、奥羽本線の全通が現実味を帯びてきたこの時に竣工したのが、今回紹介する 船岡隧道 であり、また、以前紹介した 峯ノ山隧道 です。
その後、この2本の隧道とも、昭和50年に複線化と電化に伴い、新隧道に付け替えがなされました。

 この船岡隧道、秋田市を発し広大な秋田平野を雄物川に沿って東進してきた鉄路が、ついにその平野の終端にたどり着く場所。 北の急峻な太平山地と南の広大な出羽丘陵とが接する、穏やかな山林地帯にあります。
実際、この部分の電車に揺られてみれば、この船岡隧道と峰ノ山隧道の2回、小さな峠越えをしていることが良く分かります。
 






 今回、雪が消えたのを見計らって協和町の羽後境駅からアプローチ。
現地は、集落や農地からそう離れていませんが、地図上では繋がっている道もなく、手探りでの探索となりました。
結局、来るときに車窓から見えた旧隧道の坑門が決め手となり、多少迷いはしたものの、現地にたどり着きました。
そこは、小黒沢林道という砂利道から支線を500mほど西に入った、正に現隧道のすぐとなりでした。

 二つ並んだ隧道の色の違い、大きさの違い、お分かりいただけますね。





 私の中ではすっかり御馴染みになった、奥羽本線旧線の隧道らしい坑門である。
しかし、保存状況はかなり良く、目立った破損はない。
端正なレンガの坑門は、何度見ても、カッコイイ。

 しかし、そこから覗く内部は本当に真っ暗で、372m先にあるはずの出口は全く見えない。
多少利用されている形跡があり、閉塞しているとは考えにくいが、一体どうなっているのか?
懐中電灯を点灯させ、いざ、出発進行!



 進入から50m、早くも恐怖感を感じた。
なんせ、異常に暗いのだ。
どういうわけか、いつも以上に暗いような気がする。
こう、闇が肌にまとわり付いてくるって言うか…なんとなく、嫌な落ち着かない空気だ。

 原因を探ってみたが、まずは、入るまで気が付かなかったのだが、隧道は大きな左カーブを描いている。道理で出口が見えないわけだ。
そしてそれは、50mほど進んだ今も同じだった。



 そして、足元の悪さ。これも不快感に繋がっている。
車が通っている轍があり、自転車に乗ったまま進んできたが、バラストが残ったままであって大変に漕ぎにくい。
ふらふらとなかなか進まず、それどころか、壁に接触しそうになり、イライラと恐怖感がつのる。
片手が大きな懐中電灯に支配されているのもいたい。

 立ち止まることなく暫く進むと、ついに、前後が完全な闇に包まれてしまった。
これは、今までの鉄道隧道では遭遇したことのないほどの激しいカーブではないか。
やや電池が少なくなってきた弱々しい懐中電灯の灯りは、煤けたレンガの凹凸に合わせ、ちろちろと怪しい影を映し出す。


 …うーーむ、毎度毎度廃隧道は不気味だが、ここは想像以上に、来てるなー…。




 本当に不安な気持ちが増してきた頃、やっと出口が見えてきた。
最後までずっと右カーブは続いている。
僅か372mと思っていたが、速度も出せず、明かりも弱い状態では、十分に長く感じていた。
そして、実際通行には6分間も要していた。



 出口付近には、大変な地下水帯があるようで、はげしい出水が続いていた。
砂利道(というかバラスト道)も半ば水没していたが、強引に自転車で乗り越えた。
もし徒歩なら長靴が必要な深さだ。

 出口の明かりが次第に大きくなってくると、やっと気持ちに余裕が出てきた。
ちょっと、この隧道を甘く見てしまっていた。
結構、怖い。ココ。



 出口側(和田駅側である)には、20mほどスノーシェードの残骸が残っていた。
ちょうど朝日が背後の山から昇ってきたところだ。
このスノーシェードは、一駅離れた場所にある旧峯ノ山隧道の南口にあった物とよく似ている。




 その先はすぐ現在の線路に呑み込まれる。
この写真だけ見ると、2本の隧道は両方とも左にカーブしているように見えるが、内部はずっと右カーブである。
この場所には、現役と思われる小さな保線用の倉庫があり、他にアクセスのない場所だけに旧隧道も保線作業の往来に利用されているのだろうか?




 そのさき更に比較的新しいような砂利道が500mほど線路に沿って伸びていて、もしや私の知らないルートで大張野や和田方面に抜けられるのかもと、一瞬期待した。
しかし、この写真の場所の背後で、行き止まりになっていた。
そこは真新しい伐採地&法面施工地であり、工事のため隧道は利用されたので結構車通りがあるように見えたのだろう。
実際は農地に通じているわけでもなく、もしやこの工事以前は廃道だったのかもしれないが、分からない。

 ちょうど、撮影中にも奥羽本線下り普通列車が高校生らを満載して通りすぎて行ったが、あの中に私のいる場所に興味ある者は居るだろうか?
わたしも、この路線は輪行などで頻繁に利用していたが、この旧線跡と廃隧道は、今回TILL氏に教わって、初めて知った。
しかし、気をつけてさえいれば、こちら側の坑門は車窓からも良く見える。

 多分、これが県都に最も近い廃隧道だろう。
しかし、殆ど“そういう”趣味の人に知られている形跡がない。
隧道は良く当時の雰囲気を残しており、もっと省みられてもよさそうなモノだが…。

 最後に、個人的に、この隧道は不気味に感じた。
肝試しに利用すると、相当に盛り上がるか、異様に盛り下がるかのどちらかだと思う。
お試しあれ?!




   旧 船岡隧道

 竣工年度 1904年  廃止年度 1975年  
 延長 372.16m   幅員   目測2.5m    高さ  目測3.0m

 車道として利用されており、通行が可能である。

※この隧道名や廃止年度、延長などは、書籍『奥羽鐡道建設概要』内の表記を、 『NICHT EILEN 「ニヒト・アイレン」』 の管理人 TILLさま よりご紹介いただきました。
ありがとうございました!



2003.4.26作成
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