その75男鹿森林軌道2004.12.9撮影
秋田県男鹿市 



 男鹿森林鉄道は、『秋田営林局 八十年の回顧』によれば、明治42年に竣工した総延長8936mの森林軌道である。
起点は「男鹿山」と記されており、このような地名は地図上に見つけることは出来ないものの、おそらくは男鹿半島の屋根である男鹿三山の中ほどであろう。
また、終点は「日詰」とあり、これは現在のJR男鹿線羽立駅のある辺りの地名である。
その経路については、昭和初期の地形図に描かれていることもあり、おおよそ判明している。
地図上で予想された沿線風景としては、終点間際の開地区に至るまでは、小さな峰越が一度あるのみで、ほぼ平坦。
開地区より先は滝沢に沿って、男鹿国有林内に分け入っていたと思われる。
正確な終点の位置が、どの程度山上にあるのかは、現時点ではまだ調査不足で判明していない。

今回は、男鹿森林軌道の初めての踏査として、駆け足ではあるが終点に近い開地区から起点羽立駅へ向けてレポートする。
その足は、毎度お馴染みチャリである。



 

 男鹿三山は、太古は現在のような半島ではなく、日本海に浮かぶ島だったとされる男鹿半島内の、独峰である。
三つの山頂が南北に近接し山容を形成しているが、その西側はおおよそ700mの海抜を一気に日本海に沈めている。
風光明媚と名高い男鹿半島で、最も険しい山容をなす“海のアルプス”大桟橋海岸である。
一方で、本軌道線が開設された東側は、高度を下げるほどに緩やかになる典型的な裾野地形を見せており、山頂群から7kmほどで半島のもう一つの山である寒風山との間に海抜60mほどの鞍部を設けている。
この緩やかな山稜の奥深くまで、細々と農地が切り拓かれており、軌道もこの沢筋を渡りながら、男鹿山を目指していたようである。

写真は、開地区から下流方向の寒風山を見渡す。





 開地区の集落は段丘上にあり、農地は急な段丘崖の下に細長く続いている。
この谷を刻んでいるのは滝川という。
林鉄があるこの場所へは、写真の通り轍が続いており、車での来訪も可能だが、通常は農家の軽トラオンリーの道で、非常に厳しいカーブや欄干もない橋などが途中にあるので、適当なところから歩いた方が無難だ。(集落からは500mも歩かない)

なお、この築堤は、林鉄跡である!

私も、一瞬我が目を疑った。
余りにも鋭角的で鮮明な築堤が、目の前を縦断しているのだから。
まして、男鹿林鉄には期待していなかっただけに、嬉しい誤算だった。



 心躍らせながら築堤に駆け上がると、そこはまさに築堤だった。
写真は下流方向で、緩やかなカーブを描きながら、車道に沿って森の中へと消えている。

まずは、上流側へ行ってみることにする。
そこは、早速にして築堤が途切れている。



 築堤は短い距離で二度途切れているが、手前側はただ単に車道を建設する際に開削されてしまったに過ぎないと思われる。
(遠望した写真…二つ上の写真…も、そう言っている気がする。)
写真には、まるで一里塚のような岡が写っているが、これが車道による切り取りと、滝川を渡る橋梁跡との間に残った築堤である。
肝心なのは、この岡の向こう側の、滝川を渡る部分なのであるが、残念ながら橋梁は残存していない。



 代わりに、質素な木橋が築堤の底に架かっていた。
農業用のものだろう。

滝川は、この僅か1kmほど上流で新設された滝川ダムという灌漑用のダムになっている。
一帯の河道は、ダム以前の施工と思われるが、コンクリの擁壁で囲われており、写真の木橋の右側の河道擁壁の形状の変化している部分が、林鉄橋梁に関連するものであるかは分からない。




 木橋を渡って、対岸の築堤に登り直す。
農地のある谷底からは、約5mの高度差がある。
これほどの大きな築堤は、期待しない大きな収穫であった。

なお、農地に面した地区では、徹底的に下草が刈られ、レールを敷けばすぐにでも復活できそうでさえある。
これは、雑草が繁茂すると害虫の発生が助長されるからで、農民の情熱が死に絶えた林鉄にいくらかの化粧を施した状態となっている。

そして、その農民達の努力のすばらしさを、この30m先で、私は嫌と言うほど体感する。




 築堤は農地を過ぎると絶望的な激藪となって、私の気力を一気に奪った。
冬枯れのため、辛うじて進路を確認しながら地道に藪を掻き分けて進むことが出来るものの、1分間で10m程度の極めて遅いペースだ。
こんな場所が続くなら、流石に撤退せねばならないと、真剣に考え始めたところで、前方の景色に変化が現れた。
地図上にも記載されてはいたが、大きな溜め池が現れたのである。
林鉄の築堤など高度上昇策は、この築堤のフォローのためにあったようだ。
その証拠に、水没するでもなく湖面に沿って林鉄跡は続く。




 いかにも溜め池らしいムードの溜め池。
かなり古い時代のものらしく、大正時代の地形図にも記載されている。
林鉄跡は、ここで再び歩きやすい鮮明な草地となって、右岸を蛇行しつつ続いている。
鯉ぐらいは棲んでいそうだが、湖面は静かである。

思えば、これまでに遭遇したことがない林鉄背景だな。
すごくのんびりしたムードを感じさせる男鹿林鉄跡の、象徴的な景色だと私は思っている。
なんというか、他の主だった林鉄のような、切迫感が感じられないのだ。
この山を越えていがねば!!」というような 焦り が、感じられないのである。

だが、非常に残念なことに、私には焦りがあった。
この時、時刻はまだ午前6時45分頃だったのだが、私は実はこの日仕事(会議)なのだ。
11時から。
自宅からはそう遠くない男鹿とはいえ、近いわけでもなく、電車時間を考えたら、もうこれ以上ここに留まる時間がないのである。

皆さんは思うだろう。
ヨッキのヤツは何しに行ったのかと。
まだ探索開始15分で、なぜタイムアップなのかと。

…いやー。
別に何をしたかったというわけでもなく、ただぶらめきたかっただけなのですな。
ついでに、サラッと男鹿林鉄でも見ていこうかと… 侮りすぎ!



 だが私も、することはしているぞ。

湖畔の路傍に見つけた、僅かだが木製の桟橋の残骸である。
やはりこのような桟橋を路肩に架けて、大重量のガソリンカーがここを往来していたのである。
いまでこそ、男鹿は余り林業の盛んな地ではないが、当時は男鹿の天然杉もまた有名だった。
縦横に林鉄が張り巡らされたような、県内の主要な林業地と比較して、どうしても見劣りするだろうと勝手に決めつけていたが、この短時間であれだけの築堤と、木製桟橋の残骸が発見されたのである。
明治42年竣工という、素性の良さを感じさせる部分もあることだし、今後の男鹿林鉄探索は、少し変わってくるかも知れない。



 溜め池は、さらに細くなり谷の奥へと続いている。
林鉄跡もまた、笹藪に覆い隠されそうになりながら、上流へと続いているようだが、残念ながらここで引き返す。
残りの距離だが、地図上での推定は、1km〜2km。
目立った遺構は、無さそうだが… 何とも言えない。


う〜ん、 我ながら、目茶苦茶中途半端にやり残しちゃったなー。(後悔)



 ひきかえしつつ、滝川上流側から遠望した築堤の図。
築堤は、写真中央から左側へと伸びている。
何度見ても立派な築堤である。

なお、この足元の砂利道は、滝川沿いを遡り滝川ダム脇を通り増川林道に繋がっているが、一部荒れており自動車は通行不可能である。
こちらも、森林軌道跡である可能性が捨てきれないが、確証的な発見はない。



 さて、残り時間は多くはないが、ここからは軌道跡を終点の羽立駅までチャリに乗ったまま進めるだろうと踏んでいる。
それを見越して、この地点から探索を開始したのであるが。
とにかく、築堤下流方向へ、いざ終点目指し下山開始。
残りの距離は、おおよそ7kmほどだ。

築堤と砂利の畦道が重なり、良いムード。
順調な始まりである。



 いくらも進まないうちに、軌道跡の現畦道は、植林されただろう里山へ突入していく。
中は鬱蒼とし過ぎていて、不気味だ。

森の中、緩く下り坂。
幾つかのカーブを経ながら、徐々にマッディーかつ薄くなっていく轍に、一抹の不安を感じていた私だったが、決定的な光景が出現したのは、僅か1分後だった。



 めっちゃマッディーな広場に、無数の転回タイヤ痕。
前方には、一面の笹藪と、恐らくは沢地なのだろうが、深い切れ込み。
道がない。

終点である。

だが、林鉄跡はどうなった?!
笹藪の奥に目を凝らしてみる。

すると・・・。



 コココココココ コンクリート橋だ。

ごめん。

無理に驚いてみました(テヘ)

何故に、林鉄跡を探索していて、こんな何の面白みもない農道みたいな廃橋に遭遇するのか。
やはり、男鹿林鉄は、今までの常識が通用しない場所である。
しかも、橋が落ちているわけではないのに、酷い藪だ。
この笹の密集度は、チャリを通せない。
もう既に諦めムードだが…迂回路はどこだ。
迂回路が遠いと、マジで遅刻の恐れが出てくるし、こんな中途半端な状態で探索打ち切りという線も出てくる。

ウムム。
とりあえず、橋の様子を確認してみるか。



 脇に降りて見てみると、なんとショボイ農道橋は、実はガーダー橋の再利用だった。
赤茶けた小柄のガーター橋に、コンクリの板を乗せただけの、非常に簡易な車道改築である。
そう言えば、コンクリの板にも路面側に、ちょうど軽トラのタイヤ幅程度の轍が二本、人工的に削られていた。
欄干代わりの、転落防止策なのだろうか。

余りにもブッシュが酷く、橋台や橋下に接近できなかったのは残念だが、チョロチョロと清水を流す小川を渡る、林鉄遺構であった。
この発見に、少しテンションは回復したものの、チャリを通せる見通しはなく、困った。
笹藪は安易に立ち入れば、数時間を要することもある。
やはり、ここは迂回しかないが…。



 とりあえず、5分だけ、徒歩で進入してみることにした。
すると、藪が酷いのは最初の100mほどで、そのさきは枯れ草と泥地が続く、平坦な廃道だった。
微かに車の轍が残っており、林鉄時代の遺構と思われるものは、何も見つけられない。

杉の林に入っていく。
足早に、先を急ぐ。



 歩きならば進むのは容易である。
もちろん、夏場は相当に苦労するだろうが。
また、チャリも引き摺って進めないこともないだろうが、序盤の笹藪と、どこまで続くか分からない廃道、路面状況の悪さなどを勘案して、やはり迂回路を選択することとした。

軌道跡が、ちょうど滝沢右岸の斜面の一段高い位置にあり、対岸の河床部分に広がる田圃が見渡せた。
そして、そこには畦道が存在しており、轍もあった。
どうやら、迂回路はすぐ傍にありそうである。
おおよそ当たりを付け、すぐに引き返した。

結果的に、この迂回による未踏査区間は、僅か100m以内に留まることとなった。



 と、こんな感じにマッタリな遺構を、足早に踏破していく、いつもとは違うスタイルとなった男鹿林鉄の探索は、次回で終点羽立までお伝えします。
男鹿にも、結構ちゃんとした林鉄があったんでねぇ。




つづく

2004.12.16作成
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