ミニレポ第215回 御坊市北塩屋の旧昭和橋

所在地 和歌山県御坊市
探索日 2015.7.27
公開日 2016.1.16

小さい熊野川の奇妙な古橋


先日、和歌山県御坊(ごぼう)市の中心部に近い日高川の河口付近を自転車で走っている時、偶然、少しばかり変わった橋に出会ったので紹介しよう。

名は「昭和橋」というのだが、すぐ近くの国道42号にも同名の橋が存在していることから、これらは新旧橋の関係にあるものと推定したうえで、便宜上「旧昭和橋」の名前で採り上げたい。

なお、これらの新旧昭和橋が架かっている川は、熊野川という。
この御坊市が立地する紀伊半島で熊野川といえば、半島最大の河川の名として多くの方がご存知だろうと思うが、この熊野川は同字異訓の全く別の河川である。
熊野に「いや」の音をあてて「いやかわ」というのが、正しい河川名となる。熊野川の昭和橋だなどいっても、恐らく御坊市にあるとは思われないだろうが、今回は小さな熊野川の小さな橋の話である。
とはいえ、ここも熊野地方であることに違いは無く、熊野古道もこの地を通っていたのであるから、小さくとも由緒ある熊野川に違いは無い。

それでは早速、旧昭和橋の“少し変わった”姿をご覧頂くとしよう。





2015/7/27 12:30 《現在地》

この橋へ国道42号からアプローチするのは難しくない。
ただ路地を一本入るだけである。
とはいえ、普通は通りすがりで立ち入るような場所ではないし、国道の歩道からは見える橋も、車道からは見えにくいので、町中にある割にはマイナーな存在だと思う。事実、探索中誰とも出会わなかった。

この写真にしれっと写っているのが今回の主役、旧昭和橋である。
第一印象としては、「古そうな橋」だと思った。
そう感じた理由は説明不要だと思うが、ひとことで言えば、高欄やら親柱の作りの古風さである。




そして、この橋が単なる「古そうな橋」という以上に私の目を惹いたのは、橋上の奇妙な有り様である。

見ての通り、橋はそのちょうど中間でもって、その幅が半分くらいまで一気に縮小している。
こちら側半分は2車線くらいあるが、向こう側半分は完全に1車線分である。

なお、このように途中で幅が変わる橋で一番多いのは、橋の袂に交差点があって、橋上に右折車線を設けるためというパターンであるが、この立地はそういう場所ではないし、しかもその場合は大抵が橋の片方の車線側にだけ拡がっている。だが本橋は道路の中心線を変化させず、左右対称狭まって、或いは拡がっているのである。



橋の素性に対する興味を急激に増幅させた私は、まずはセオリー通り、親柱という最も堅実な情報提供者に頼ることにした。

最初に目に付いたのは向かって左、左岸下流側の親柱である。
コンクリートを適当な作りの木枠に流し込んで固めたような、まるで化粧っ気のない作りは“少々”という以上に雑なものに思えたが、セメントにヘラで描かれた河川名については、時代の古さを予感させる達筆さに彩られていた。その文字は「熊埜(=野)川」とあるようだ。

なお、この銘板の達筆さと、親柱そのものの造りの稚拙さとの間には、精神の乖離が感じられる。
このことにもし理由があるとしたら、長年の風化によって欠けたりひび割れたりした親柱の表面が、幾度もセメントで補修されたためだと考える。


続いては、向かいの右側にある親柱であるが(→)、

これがなかなか曲者だった。

確かに存在はするのだが、肝心の銘板がある面が、猛烈な笹藪にめり込んでいるのである。

そもそも、何でこんな事になっているかといえば、橋の袂にある道が橋の幅より狭いという、折角の橋幅を活かす気が全くない状況になっているからなのだが、こんな事で探求を断念する訳にもいかない。
なにせこのような“小橋”について何をか知ろうとするならば、基本的に帰宅後の机上調査は期待薄である。現場で得られる情報の相対的重要度は、大型物件以上に大きい。




で、けっこう無理な姿勢から、どうにか頭を突っ込んで見た。
しかし、見ただけでは読み取れず、次に撮影を試みた。
そして、ようやく書かれている内容が判読出来た。

「志ようわはし」

すなわち、「しょうわはし(昭和橋)」という橋名は、この銘板から初めて判明した。



さて、銘板捜索は一端終了し、次は渡橋のターンである。

とはいえ、渡る事にはいくらも時間は掛からない。
途中で橋幅が半減するという変態性をもってしても、この交通量では特に障害を感じることはない。
ただ、「奇妙だ。なぜだ。」と問う心が刺激されるばかりである。

また、本橋の向きは河川に対して直交しておらず、60度くらいの角度で横断しているのだが、橋台および中央に1本ある橋脚の向きは河川と平行である。
いわゆる斜橋というものなのだが、そんな斜橋が橋脚の上で幅員を変化させた結果、これまた非常にレアなケースだと思うが、橋上の路面に鋭角や鈍角の隅が生じている。

右の写真は、下流側の幅員変化地点の橋脚と高欄の処理を撮影したもので、高欄が橋脚の中心線に沿って屈折している。
そのため、この部分の路面には鈍角の隅が生じている。
反対の上流側には、同様に鋭角の隅が生じている。



12:31 《現在地》

2径間の橋は、全長30mほどである。
あっという間に渡り終え、右岸橋頭に達したのだが、こちら側にあった2基の親柱は、明らかに左岸で見た2基よりもサイズが小さかった。
さらには銘板が存在しない。

高欄そのものの作りについては、広い桁と狭い桁で違いを見出せないが、この親柱の違いを目にしたことで、私の中で“ある仮説”が有力になった。

その仮説とは、この道が旧道となった後に、現在狭くなっている桁が何らかの理由で損傷(恐らく落橋)し、修復されることになったが、既に旧道のため見込まれる交通量が少ないことから、節減のために一回り狭い橋桁を架け直したのではないか―というものだ。




左岸上流側の空き地から橋の側面を撮影した。

こうして見ると、両岸の橋台と河中の橋脚は全て、広い桁に合わせたものになっている事が分かる。
そして狭い桁と広い桁とでは、ただ幅が違うだけでなく、桁の形も違っている。
高い確率で、これらが同時に建造されたものでは無いと判断出来るだろう。

なお、旧道と見込まれるこの道は、橋を渡ってから200mほど狭いままで続き、
日高川を渡る天田橋の袂で現国道に合流して終わっている。
この間は写真がないので、気になる方は、こちらをご覧下さい。





現地での探索では、個人的に有力と思える仮説には至ったが、旧昭和橋には竣工年を記す銘板が存在しない事もあり、現国道にある昭和橋との新旧関係を含めて仮説の域を出ない推測で終わった。
そこで簡単にではあるが、帰宅後の机上調査でフォローしたい。

結論から言うと、前述した仮説は正しいものであると考えている。
現地を撮した昭和22(1947)年と昭和51(1976)年の航空写真を比較してみたが、昭和22年においては、今回紹介した旧昭和橋を渡った道が、そのまま現在の天田橋より少し上流にあった旧天田橋へと向かっていた。しかも、当時の旧昭和橋には、不自然な幅員の変化は見られない。前後の道路共に広い幅を有していたように見えるのだ。なお、この当時の路線名は、旧道路法下における国道四十一号(いわゆる大正国道)である。

対して、昭和51(1976)年の航空写真では、天田橋が両岸河川敷の大々的整備と合わせて架け替えられ、それに合わせて国道42号のルートが旧昭和橋を棄て、現在の昭和橋に移っている。
そして旧昭和橋のシルエットは、明らかに今と同じ幅員変化を覗かせているのである。明らかに、旧道化した後において、幅員変化を伴う桁の架け替えが行われている。

紀伊半島の大河川の例に漏れず、日高川でも度々大きな洪水が起きている。
旧昭和橋の桁が架け替えられた正確な時期や原因は明らかでないが、恐らくは洪水によるものだろう。
(津波という線も考えたが、この地で大きな被害が出た津波は昭和21(1946)年の「昭和南海地震」が最後である。)



なお、ここまで来て天田橋をスルーするのは忍びない。
昭和51年の航空写真に写っていたものと同じ現在の天田橋は、写真のような秀麗な長大トラス橋である。
全長304m、下路ポニートラス×3、下路カンチレバートラス×1(連続3径間)からなる6径間の橋は、昭和30(1955)年に完成した。



《現在地》

天田橋の4本の親柱は、昭和30年の作にしては異例なほど古色を帯びた、立派な擬宝珠と橋灯を備えたものとなっている。本橋完成の喜びが現れている。
そしておそらくこの橋が完成した昭和30(1955)年前後が、本編の旧昭和橋が旧道となった時期であると目されるのだ。


天田橋に増設された歩道橋を渡ると、50mばかり上流の河の中にポツンと残る、一基の立派な門型橋脚を見る事が出来る。
そしてこれこそ、昭和22年の航空写真に写っていた、旧天田橋の遺構である。
先代の天田橋は、昭和6(1931)年に架設された全長186mの木鉄混合の橋で、下路トラス、プレートガーダー、そして木桁橋から成っていたという。

これは推測だが、この先代天田橋が架けられた昭和6(1931)年前後に、本編の旧昭和橋も架設されたと考えている。
「昭和橋」という名前は、昭和という年号がまだ新鮮である時期にこそ、橋名に付けられる価値があると思うのだ。
この時期は、わが国の道路改築の第一次全盛期にあたっており、特に“永久橋の架設”は花形であった。



天田橋が提供する想い出での深さは、半端ではない。

なんと、昭和6年の先代の橋だけでなく、さらに古い橋の痕跡も残っている。
先代橋よりも現橋寄りの河中に、少なくとも2基のケーソン(河中に埋設された橋脚の基礎)が現存している。
見る限り上面の構造はコンクリートであるが、楕円形断面の外周には花びら状の亀裂が現れており、恐らく河中にある側面は石造であろう。
断面中央には木製橋脚を差し込んでいた孔がいくつも残っており、先々代の橋が木桁橋であったことを物語っている。

記録によると、天田橋が最初に架設された時期は、明治9(1876)年にまで遡るという。
それから微妙に位置の変化はあったかも知れないが、少なくとも6回は架け替えが行われた記録があり、すなわち7代目までが木橋であったということになる。
このケーソンは、昭和6年以前の橋梁遺構なのである。

最後は少し脱線したが、小さな橋にこそ侮れない歴史が刻まれているというのは、もはや定番の流れである。




完結。



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