万世大路工事用軌道 その2 

公開日 2006.01.15
探索日 2004.11.20



 たかが一本の工事用軌道が、なぜこれほどの大人数での合同調査を可能とするほど、多くの道路好きの心を掴んだのだろうか?

 私の考えでは、その理由は主に二つあると思う。
ひとつは、この工事用軌道が、東北道路界最大の文化財であろう万世大路に関する物件であるという、カリスマ性。

 そしてもうひとつは、この工事用軌道が、従前の道を利用するようなものではなく、全く一から設計されたルートによるものであり、かつ、廃止後には再び利用されることがなかったという、希少性である。

 無論、国道を造るためにわざわざ軌道を通したという、現代人の感覚からはかけ離れた当時の思想もまた、興味を惹く源泉になっているのは言うまでもない。


廃林道 その終点

 入山から40分を経過した時点で、我々は烏川左岸の廃林道の終点にいた。
廃林道は、旧国道(万世大路)から1kmほどの地点で、烏川に突っ込むようにして潰えていた。
そこで車道の痕跡は消えてしまう。

 我々は既にこの時、20分以上もの間、軌道跡を見失っている。
見失ったと言うよりも、この狭い谷筋で見失い続ける方が不自然であり、やはり存在自体が逸失してしまっているのだと考えられた。
ただし、普通の軌道跡探索であれば序盤戦での“見失い”は致命的なのだが、今回はそれほど心配していなかった。
なぜならば、目指すべき工事軌道中最大の工作物「新明通の切り通し」の位置は、ほぼ判明しているからだ。
何はさておき、とにかくそこを目指せばよいのである。


 そもそも、
なぜ我々は左図のような殆ど等高線以外には何も示されていない山間部の地形図から、70年前の切り通しの位置を、ほぼ特定できたのか?

 それは、僅か4年ほどしか利用されず、廃止から70年を経過した、殆ど幻と呼んで差し支えのない様な軌道跡が、ただひとつだけ、今も鮮明な痕跡を残しているからに他ならない。
それは今も、栗子山上空から見ることができる。

 無論、直接この目で上空に舞い上がって確認することは出来ない。
だが、いまは便利なサイトがあって、自由にほぼ全国の航空写真を見ることが出来るのだ。
国土情報ウェブマッピングシステム」という物が無料で利用できる。


国土情報ウェブマッピングシステムから引用の航空写真

 これは、昭和50年代に撮影された栗子山上空の航空写真である。

 図の中央を左下から右上に走る線が、烏川の谷筋である。
慣れないと、尾根と谷筋の見分けがつきにくいが、地形図とリンクして見て頂くと分かり易いだろう。

 注目すべき点は、図の左下。
烏川のまさしく源頭部なのだが、そこに、明らかに周囲の地形とは異質の、直線が見えはしまいか?

 これこそが、工事用軌道が開削し、新明通と命名した、巨大な切り通しの姿そのものである。
『栗子峠に見る道造りの歴史』には、この切通の規模についても、長さ100メートル 幅6メートルと記している。

 工事用軌道は、何と驚くべき事に、空から我々を導いたのである。


 廃林道が消えた後も、両岸共に軌道敷きの痕跡は依然出現せず、徐々に川幅も谷の幅も狭まってきた。
それでも水深は浅く、渡渉する限りは、殆ど歩く場所を選ぶ必要がない。
川岸を行くよりも、流れに逆らって河中を行く方が、遙かに楽である。

 林道は消えていたが、なぜか河原に一つの廃タイヤが落ちていた。
万世大路の苦闘…杭甲橋の袂で見た光景がフラッシュバックする。
林道は、以前は河床を使ってもっと先まで伸びていたのかも知れない。
その様なことが可能と思われるほど、沢は穏やかであった。

 少し行くと、以前に信夫山氏が橋台跡ではないかと指摘していた場所が現れた。

 たしかに、そこには写真の通り、流れの両岸に正対するようにして、角張った石が露出していた。

 しかし、即座に橋台跡と判断できるほど、鮮明でもない。
まず、余りにも河床から近いという不自然さだが、元々は存在していた上部が流出したり、或いは堆積で川が高くなった可能性もあるので、不自然さだけでは橋台説を否定できない。

 それでもなお、私はこれは人工的な地形ではなく、自然地形ではないかと考える。
一帯の河床では、頻繁に柱状の自然石を目撃できる。
これは、柱状節理の一部が川に流れ、角がやや取れた状態なのだろうと思う。
この奇妙な鋭角な石も、おそらくはその様な柱状節理の露頭ではないだろうか?



小さな滝を越えて

 なおも順調に進むと、はじめて滝が現れた。
落差は1mほどの、非常に小さな滝だが、一人前に深い滝壺を有しており、初めて歩く場所を慎重に選ばさせられた。

 この辺りから、足回りにネオプレーンの沢靴を着用している者達と、長靴で探索している者とで、歩きやすさに差が出たと思われる。

 さて、滝があるわけだが、このあたり、軌道はどこを通っていたのか?
はっきり言うと、ぜんぜん痕跡と言えるものを見いだすことは出来なかった。
これだけの距離を歩きながら、もうぜんぜん軌道痕跡が特定できていない。
常識的には、沢底ではなく、斜面にありそうなのだが、両岸の急斜面には、全くそれらしい平場が見あたらないのである。

 工事用軌道という、予め使用期間の短いことが定められている路線ゆえ、むしろ、通常の軌道の常識は、通用しないのかも知れない。
軌道敷きはズバリ、河床そのものだったのではないか?
大胆な仮説だが、水量によってはそれも不可能ではないだろう。


 幾らも行かぬうちに、滝と呼べるような規模の流れはないが、滝壺状のプールが現れた。
写真にも写っている通り、両岸は厳しい斜面に囲まれており、しかも支沢が多く流入している。
仮にここに軌道を敷くならば、必然的に桟橋や、支沢の迂回部分が長大化するだろう。
工期工費共に圧搾せねばらなない工事用軌道ならば、むしろ大水での大破するというを背負いつつも、河床部に盛り土で軌道敷きを設けたのではあるまいか?

 ちなみに、レールの軌間は僅か50cmであったと伝わっている。
また、峠である「新明通」よりも烏川側については、特に急峻な地形のためガソリン機関車は入れず、最後まで人力トロッコであったといわれる。
逆に言えば、人力トロッコ程度ならば、河床に盛り土という程度の施工でも、利用に耐えたのではないかと考えられる。
仮に河床部に軌道があったとすれば、長い年月にその全てが流出してしまっているとしても、不思議はない。


 切り立った左岸の、河床から2mほどの位置に、小さな穴を発見!

 もっ、もしや隧道跡か?!

 先頭を歩いていた私とくじ氏は、咄嗟に興奮した!

 我先と、斜面によじ登る。
まるで、獲物を見つけたハイエナのように。

 先に穴を覗き込んだのは、くじ氏だった!

 くじさん!!
  どうなってるーー?!


 報告します。

 烏川上流、左岸洞穴。

 奥行き、1m。
 形状、先細り。


 

 判定結果、自然地形です。(涙)


 左から、やや大きな支沢が流入してきた。
この合流地点は、久々に開けた凹地となっており、辺りの見通しも利く。
やはり、取り囲む斜面には軌道の痕跡は見つけられない。

 一方、軌道河床説を裏付けるように、微かだが、河床に人為的な平坦地があるようにも見える。
流れとの境界に、何らかの杭や、石垣でもあれば決まりなのだが、ぜんぜんそう言うものは見あたらない。
だが、進めども進めども、河床の半分ほどが歩き易い平坦地であるという展開が、頻繁に現れるのである。


 やはり、この川幅の半分だけが平坦地なのは、何らかの人為を思わせる。

 この頃、我々は長い隊列になっており、先頭にいた私は、後続を時折振り返って確認する程度であった。
私が主にこの辺りで声を交わしたのは、同じ先頭グループにいたくじ氏と樋口氏と古川氏くらいであったが、くじ氏以外の初対面の二人とも、徐々にうち解けてきた感じだった。
山を歩くというのは、仲間造りには最高であるといつも思う。



信夫山氏、冴えわたる読図術

 午前8時32分、入山から50分を経過したところで、おそらく切通までの距離の四分の三は歩いていた。

 それを裏付けるように、いよいよ烏川はか細くなり、地形図上では川の線が描かれない幅(1.5m)以下になってしまう。
南を葡萄沢山(海抜968m)、北を明通山(推定名。これを鎌沢山と呼ぶ資料もある。)に囲まれ、いよいよ奥羽山脈の真っ直中である。
いくつもの支沢が、次々と左右の山肌に小さな沢を穿ち、分け入ってくる。
本流を辿らねばならぬのだが、どれももう、見分けがつかないほどの小川である。

 そして我々は、道中で最大の迷い場所。
本流を含め三つの沢が一つ所に落ち合う場面に、逢着した。


烏川源流部の地形図(国土地理院発行1/25000地形図より引用)

 地形図上では、右図の緑色の円内が、現在地。

 穏やかな沢を辿ってきたわりに、地形図で見ると周囲はかなり入り組んだ険しい場所だ。

 いま、目の前に流れる三つの沢の内、新明通に至る正解は、一つだけ。
そういう場面である。


 図は、本流の右側に分け入ってくる、比較的深い支沢。
先頭グループは最も太いこの沢が正解だろうと判断し、そのまま真っ直ぐ進みかけていた。
だが、いまいち自信がなかったので、事前調査済みの信夫山氏の訪れを待つことにした。

 間もなく現れた信夫山氏達。
なんだか、全員が結構楽しそうだ。
これといった遺構は今のところ見つかっていないのだが、確かに見通しのよい秋の山は、照り込む朝日と朝露に輝いていて、とても気持ちいい。
私も、変な気負いはだんだん抜けてきて、気持ちよくなっていた。

 それはそうと、信夫山氏。
おもむろに手持ちの地図を開くと、正解はコチラだと、この私が素通りしようかと思っていた支沢を、示すではないか。


 上の写真では、とてもそうは見えないのだが、支沢に見えた沢が実は本流であり、ほんの10m進んだところで、再度左に折れ曲がる別の沢が合流していたのである。
つまりは、本流から見て、右、左と、2度沢を選んだ先が、正解であったのだ。
もはや、どれが本流と言うほどの差はない、小川の交わりである。
私一人では確実に間違った沢に入っていただろう。

 功労者の信夫山氏自身も、実は事前踏査ではここまで来ていなかったという。
それなのに、一発でこの分岐を見分けた彼の読図術は、本物だった。



 再び意味深な平場を含む、河床部を行く。

 そして、迷いの沢を抜けた先はもう、「新明通」の直下と言って良い場所であった。

 峠への登りは、気が付かぬうちに既に始まっていた。


谷から上がり、前方の鞍部を見上げるくじ氏。何か発見したのか!?

 くじ氏が河床を離れ、やや高い位置に。


 この辺りで急激に谷幅が狭まり、もはや幅50cmのレールを置くだけのスペースもおぼつかない。
しかも、音を立てて流れる早瀬が現れ、谷全体が蛇行さえ始めていた。

 これは、軌道ももう谷底を離れて、峠へと斜面に取りつき、登り始めているのだと考えるべきだろう。

 そんなわけで、くじ氏を先頭に谷底を離れた我々だったが…。

 そ  こ  で 、
 発 見した!


 くじ氏のさらに頭上の斜面には、一直線に続く、横のラインがあった。
パッと見で、確信じみた物を感じた私は、叫びを上げる前に走り出していた。
まるで野猿のように4つ足で斜面を駆け上り、ラインの上に立つ私。

 絶句。


 次の瞬間、
 ドンだ!

発見時の口癖を披露した私は、そのまま叫びを上げ、後方の仲間達に軌道発見の瞬間を知らせた。


 まもなく歓喜の声はそこへと続々と集まりだした。
風が吹いても落ちる物もない寒々としたブナの森の急斜面に、アツイ歓喜が巻き起こった。


 いよいよ、70年の沈黙を破る発見の、その入り口に立った瞬間だった。

 もう、二度と離すもんか、俺の軌道跡!