飯田線旧線 中部天竜〜大嵐 (最終回)

公開日 2011.1.26
探索日 2009.1.25

夏焼隧道 横穴探検


12:38 《現在地》

延々と続く登り坂の隧道の途中、壁に「235」のペイントがある地点に、小さな横坑が口を開けていた。
おそらくは北口から235m地点なのだろう。

こういった横坑は、鉄道用の古くて長めの隧道では結構見るので、存在自体にはそれほどの驚きはないが、いざ行く手に光の見えない狭い穴に入るのは、気重である。

ずっと押してきた自転車を壁に立て掛けて、少し身を屈めて進入する。
光だけでなく、風もないようだ。




うん。

洞窟だね。

普通に、洞窟。

完全に素堀だし、狭いし、前屈みになりながら歩かないと、天井に頭をぶつけるレベル。

しかも、少し進んでいくと…




足元がマッディになってきた。
私は長靴装備だったので気にならないが、普通のスニーカーでは浸水するレベルだ。

しかし、こんな怪しい横穴の中だというのに、どうしたことだこの靴跡の数は。
どこかに通じている感じもしないので、きっと同業者なのだろう…。
普段こういう事はほとんど無いので(笑)、妙にニヤついてしまった。




更に進むとマッディを通り越して水たまりになり、それが泉となって、洞床全体は水面下に沈んだ。

こうなると流石に立入を諦めた人も多いのか、足跡はほとんど見えなくなった気がする。
まあ、水の底の踏み跡など、あまり確かではない気もするが。

ともかく孤独を感じられるようになった私は、バシャバシャと水をはね飛ばす反響音と一体になって進んだ。




そういえば先ほどの泥の中にも一本沈んでいたが、今度は立っている木の柱を発見した。
壁際にあって天井と床の間に“噛まされている”事から、支保工と判断する。

この横穴は夏焼隧道建設当時の物だと思うのだが、その場合はこの支保工、70年以上も立っていることになる。
こうした環境での木材の耐用年数を遙かに超えている様に思うが…、冷静に考えると、これは“耐用”ではないな。

触れたら倒れてしまいそうなので注意しつつ、更に水たまりの奥へと進んだ。




12:41

横穴に入って3分弱経過したところで、

落盤のため閉塞していた。

もとより小さな人道サイズの隧道ゆえ、閉塞に要する土砂の量は少なく、それだけに唐突だった。
しかし、当初から予想されていた結果ではある。

急な斜面となって坑道を埋め尽くた瓦礫の中に、地上との距離を推し量れるようなもの(例えば枯葉)を探したが、見あたらなかった。
空気の流れのチェックや、消灯も試みたが、やはり完全に閉塞しているようだし、漏れる外光も無かった。




おそらく横坑は右図のような感じに地上へと通じていた物と考えられる。

そしてこの横坑の目的だが、奥へ行くほど水が溜まっているとおり、緩やかな下り勾配になっていることもあわせて考えると、工事中の水抜き坑だったのではないだろうか。

夏焼隧道は全線が北から南への下り片勾配であり、これを大嵐側から掘った場合、湧出する水は切羽に溜まってしまうことになる。
これを避けるために適当なところに水抜き坑を求めたと考えられる。
大嵐側からの掘進はここまでの235mだけで、残る1000mは夏焼側から掘ったのかも知れない。
工事記録を未見なので、そこまでは分からないが…。

ただ、疑問もある。
横坑を地上へ距離で到達せしめたければ、真西に掘れば良かった気もするのである。
敢えてそれを避けたのは、沢底の地質の問題だろうか。やはり。
沢底は分厚い帯水層になっていることも珍しくないから、その場合下手に掘り進むと、地上に出る前に隧道内へ大量の地下水が逆流してくることもあるだろう。




これ以上長居しても外へ出られる見込みもないので、戻る。

戻りは一部で【動画を撮影】してみた。

横坑の現存する部分は、全部で50m程度に過ぎない。




12:43

本坑に戻り、再び北上を開始。

長かった洞内探索(約25分間)の後の日光が、殊更まぶしく感じられた。

廃線跡をそのまま転用した事が、素直に頷ける風景だ。
夏焼隧道を出た先には、そのまま真っ直ぐ次の、そして“最後の”隧道が待ち受けている。




12:46 《現在地》

「ヒミツ」があった南口に対し、こちらは真っ当な飯田線時代からの坑門である。
夏焼隧道北口坑門。

道路の進行方向に対し坑門の面が傾いている(スキューしている)他は、特筆すべき事のない、これまで湖畔でいくつも見てきた物と同じタイプの坑門である。
完成から70年あまりを経過した“風格”が滲み出ているが、完全な廃隧道となっていた湖畔の隧道群よりも、“汚れている”感じさえる。
現役なのに化粧直しは許されなかったようである。流石に路盤だけは手直しされているが…。

傍らに「大型貨物自動車等」通行止め止めの標識があるが、これは南口には無かった。
つまりこの規制は夏焼隧道に限らず、佐久間ダムまでの18kmの(廃道)区間を含んだ規制が、ここから始まっているということだろう。
もはや、ほとんど意義を持たなくなった標識である。
それと、南口にもあった「増水で水没することがある」旨の木札がここにもあった。



あと、上の写真で矢印をつけたのが、これ(笑)。


おにぎりみたいな顔と、サイケデリックな目や口の色が印象に残った。

警告している内容は別に変ではなくて、「トンネル内 電線路注意」というものだ。
おそらくは夏焼集落への配電と、隧道内の照明に供される電線が側壁の高いところに這わせられており、これとの接触を警告する物だろう。
かなり年季の入った看板だが、車道転用開始とともに掲げられたのかも知れない。

ちなみに紹介はしなかったが、南口にも全く同じ看板があった。




夏焼隧道と次の栃ヶ岳隧道との間は100mも離れていないが、川側にかなり広い平坦地がある。
そこは資材小屋のような物が一棟建っている他は空き地で、何のための造成地か不思議だったが、鉄道時代ここに長さ53.8mの「栃ヶ沢橋梁」が存在したという記録があることから、車道化と同時期に谷を埋め立てたと考えられる。

そして、幅50mもの栃ヶ沢を完全に埋め立ててしまった土砂は、飯田線の付け替えで建設された「大原トンネル」(飯田線最長5063m)のズリだったと思われる。

そのひとつの根拠ともなるのが、広場の道路を挟んだ反対側(すなわち山側)にある。




 である。

かつて栃ヶ沢があったところに穿たれた、路盤より一段低く埋もれている穴。
内部には、レールを用いたセントル(支保工)が、支えるべき天井を失った状態で見えている。
一見すると廃坑道のようでもあるが(現地では電車時間が近付いていたことから、無理矢理自分そう言い聞かせて素通りした)、実はこれは大原隧道の建設時にズリだし等を行った、作業坑の跡である。

『飯田線中部天竜大嵐間線路付替工事誌』に詳細が記述されており、この洞内を電動トロッコが運転されていたのであるが、大原隧道完成と共に閉塞させられたと言うことである。
しかし少なくとも、出口はこうして地上に開口している。

これについては、可能ならば次回訪問時に改めて探索したい。




時間がないと今書いたが、残念ながらそうなのである。

時間がないのである。

あと15分くらいで、私をこの僻地から次の探索地へと運んでくれる、2時間に一度の電車が、大嵐駅を発ってしまう。

頼りの自転車がただのお荷物になっている今、この電車を逃すと私は今日、この大嵐と心中(大袈裟だが気持ち的にはそのレベル)する羽目になる。

だから、自転車を再び輪行袋に詰める時間などを考えると、この場所に滞在できるのはあと10分が限度である。




とっても“読者不在”な事情を抱えたまま、私は突如走り出す。

自転車を夏焼隧道前に捨て、枯れ草の原野を走り出す。

目指すはひとつ。ダッシュで見つけて帰るぞ〜!


ってな具合で広場を抜けて久々の湖畔に着くと、そこにはコンクリートの橋脚のような物が並んでいた。
あと、朽ちかけた小屋もあった。
前者はおそらく、大原隧道の建設工事に関係するプラントの跡と思われる。

杉の木立の向こうには、夏焼隧道前からは考えられないほど低いところに湖面が見えていた。
前述したとおり、夏焼隧道で30m近く高度を上げているから、それだけ湖面は遠くなっている。




湖畔…という表現はもうあたらない、山腹をゆく。
そこにはうっすらとだが道形があり、杉林の植林地を管理する歩道となっていた。

私は今、先ほど閉塞を目の当たりにした夏焼隧道の横坑の出口を探しているのである。
時間がないので駆け足だが、こうして山腹をトラバースしていれば、2〜300mでその場所にたどり着ける公算だった。

もちろん、スンナリいかないようなら、今回は諦めるしかない。
3分駆けて見つけられなければ、引き返すつもりだったが…。




うおっ!!

これは、なにやらありそうな雰囲気では?!


浅い堀割と、その向こうには…
謎の小屋が邪魔をしているが…
背後の斜面は凹んでいる感じが…しない?






12:53 《現在地》

うむ。 おそらく、ここだな。

あの閉塞していた横坑の出口は。

特に沢でもないところが、えぐれたような感じで崩れていた。
自然に崩壊したようだが、ここに横坑の坑口が埋もれていると私は思う。

これを見て満足したので、大急ぎで県道に戻った。




栃ヶ岳隧道、全長98.6m。

特筆すべき事の見あたらない平凡な隧道だが、佐久間ダムによって生じた全長17kmにおよぶ旧線の最後の一本だ。
夏焼隧道と共に県道化に際して新たな命名を受けており、今は「第一夏焼隧道」という。
なぜ固有名を捨て去ったのかは、明らかではない。

この隧道は、県道時代に大規模な修復を施されているようだ。
内壁は全面コンクリート吹き付けであるが、蛇腹のような凹凸があり、補強用の鋼製セントルをそのままコンクリートで埋め込んでいるっぽい。
そうしなければならないくらい老朽化していたのだろう。





栃ヶ岳隧道を抜けると、すぐに大嵐駅が見えてくる。

しばらく廃線レポ的にやってきたが、この場所こそ私を苦しめに苦し抜き、ついには歴戦の相棒を戦闘不能に陥れた静岡県道288号大嵐佐久間線の「起点」である。

なお、道路の右手に帯状の空き地が広がっているが、ここはかつて複線のレールが敷かれていた部分である。
実はすでに旧大嵐駅の構内に入っているのだ。
現在はこの複線分の空き地に何台もの廃車が野ざらしにされている。
夏焼集落でもそうだったが、なぜこの道沿いには廃車が多いんだろう…。

そして、黄色い矢印の所には…


旧大嵐駅のホームが、一部のみ(約10m)現存している!

このホームが使われたのは、昭和11年12月29日からだ。
この日に三信鉄道の天龍山室駅(現在は湖底にある)と当駅間が開業し、一時的にではあるが同線の終着駅となった。
そして翌年の8月20日に最後まで残っていた大嵐〜小和田駅間が開通し、後に飯田線となる辰野〜豊橋間は全通したのである。

そして飯田線となって12年目の昭和30年11月11日に中部天竜〜大嵐間の経路が現在の水窪経由に変更され、旧ホームは破棄する大規模な構内配線の変更を行っている。




なお、旧駅時代から栃ヶ岳隧道と大嵐隧道に挟まれた駅だったが、前者が大原隧道に代わったことで、地上区間の長さは半減した。
この際に大嵐隧道の坑口を改築して、坑口から少しの間も複線化されている。

現在の駅舎は平成9年に出来た新しいものだが、昨日の夜は気づかなかった駅前駐車場は駅の規模からすれば立派なもので、しかもかなり利用されている。
そして、ナンバープレートを見ると、全く見慣れぬ豊橋ナンバーが多い。
これは、現在の大嵐駅が静岡県側の旧水窪町に属していながら、実際には天竜川を挟んだ対岸の愛知県旧富山村一帯の窓口として利用されているせいだろう。
現在の行政区で言えば、愛知県北設楽郡豊根村である。
(この近くで水窪側の集落は、夏焼くらいしかない)

本州で最も人口の少ない村として知られていた富山村では、旧線時代には大嵐の他に、白神、天龍山室、豊根口という3つの駅を(天竜川を渡船連絡の上)利用できたが、これらは全て湖底に沈んでしまった。(ちなみに、旧富山村の人口減少の最大の理由は佐久間ダムの完成で、人工の1/3が一度に流出したという)




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時間はないけれど… 大嵐駅周辺探索ッ!(※廃線要素はありません)


12:59 《現在地》

県道288号大嵐佐久間線(全長17.9km)、走破完了!

チャリは輪行袋につっこんで待合室に置いてきた。
電車が来るまであと5分しかないが、ちょっとだけ足を伸ばしたい。
具体的には、ここから天竜川の対岸まで行って戻ってきたい。
なぜそんなことをしたいかと言えば、生まれて初めての愛知県土を踏んでみたいから。
それだけである。

思えば昨日の探索開始直後、佐久間ダムの天辺に立っていた私は、ほんの100m堤体路を走っていれば愛知県土を踏むことが出来たのだ。
しかし敢えてそれをせず、いままで初愛知を引き延ばしていた。
もうこれを逃すと、私の初愛知はいつになるか分からないことになる。

だから、寄り道だ!!


と思ったら、この2日前の夕暮れに佐久間ダム堤体下から【この写真】を撮影した時点で、実はほんの少しだけ愛知県土を踏んでいたことが判明した… アッハッハ…


大嵐佐久間線の終点は、大嵐駅前と言うことになっているらしい。
それならば、通例的には「大嵐停車場佐久間線」になりそうなものだが、なぜそうなっていないのかは不明。
どうでもいいか、そんな細かいこと(笑)。

大嵐駅を出ると、すぐにこの分岐がある。
左に行くのが県道で、正面は林道西山線といって、水窪の中心部に山越えをして通じている道。
でも、前にも書いたように18kmもあって、わずか5kmの大原隧道を迂回する山越え道としてはちょっときつすぎる。

で、左に行くのが「県道」と書いたが、これはもちろん「大嵐佐久間線」ではない。
これは「静岡県道287号津具大嵐停車場線」という。
こっちは「大嵐停車場」なんだねー。




分岐地点に立つ道路標識と道路情報板。
愛知県側から見るように作られている。

とりあえず注目したいのは道路情報板で、今では数が少なくなりつつあるシート式。
そして、当然のように通行止表示。
“だめ押し”じゃないが、「通行不能」とも書いている。
区間は「水窪町大嵐〜佐久間ダム」となっていて、まあ旧町名のままなのは案の定といったところ。

果たして、この道路情報板は一度でも表示内容を変えたことがあるのか という疑問が湧く。
そして、今後も二度と変更されることはないだろうと思う。
遊びでも良いから、「通行止め」以外の表示をちょっとだけ出してあげたい気持ちになった。
どんな表示が隠れているのかな…。

え? 「お わ り」 ?




そして県道は交差点を直角に折れ、そのまま巨大な吊り橋にさしかかる。

本橋は「鷹巣橋」といい、舗装や手摺りが新しいのであまりそうは見えないが、昭和31年完成という年季を積んだ橋である。
昭和31年といえば佐久間ダム完成年であり、ダムの完成によって従来の谷底を迂回していた大嵐駅連絡路が使えなくなり、新たに架橋されたと考えて良いだろう。

ところで、大嵐駅前を終点とする静岡県道287号「津具大嵐停車場線」であるが、この橋の中央で路線番号が変わる。
というのは、橋の中央が愛知県境だからだ。
愛知県側の県道津具大嵐停車場線は路線番号が異なっており、愛知県道426号となるのである。(だから、静岡県道としての287号は、100mくらいしかないことになる)

全国の県境を跨ぐ県道番号は、平成に入る頃までにはほとんど調整が行われ、県間で統一されるようになった。
例えば、今対岸に見えている静岡県道・愛知県道・長野県道1号「飯田富山佐久間線」がそうであるように。
その方が利用者にとって利便性があるからだが(道路地図帳で県を跨いで県道番号が違かったら、混乱すること請け合いだ)、どういう訳かこの県道「津具大嵐停車場線」は統一されずに残っているのだ。
統一しようと思えば、静岡県道の“426番”は空いているので、難しいことではないと思うのだが…。
ほとんど地元の人しか利用しないし、特に静岡側の距離は短くて、そこに標識を立てる必要もないからだろうか。



鷹巣橋が架けられる前の道…。

おそらくはそれと思われるものが、干上がった湖底に出現していた。

まるでラクダの瘤のような岩尾根に沿って、長い階段が…。

そして、その行き先を目で追っていくと、ちょうど大嵐駅の旧ホームのあった辺りにつながっていることが分かる。
反対の湖底側は泥に埋もれていて分からない。
また、対岸の愛知県側も未確認だ。

うううぅん!
時間がなかったことが悔やまれる。
この階段は、ぜひとも歩いてみたいものである。
きっと爽快な景色が見れると思う。 

ともかく、ダムが出来るまではあの階段の下に天竜川を渡る(橋/渡船場)があったのだ。

こうして見ると、大嵐駅の位置はまるで将来佐久間ダムが出来ることを見越していたかのように高いが、その理由は本編の「第3回」の3枚目の写真の所で述べたとおりである。



ダムからは10km以上も上流に来ているのに、湖はまだこんなに太い。
この探索時は水位が低いにもかかわらずだ。
さすが、満水時には30kmもの尾を引くだけのことはある。

写真は下流方向を撮影しており、左の山腹に見える直線の奥に夏焼隧道がある。
夏焼集落はあの高い山並みの裏側ということだ。




13:02 《現在地》

そして、橋を渡った先はそのまま県道1号にぶつかる。

色々な標識があって楽しいが、1枚の画像に欲張って全部まとめたら、分かりにくくなってしまった。

まあ、特に説明が必要なものもないのだが。

とりあえず、この渡橋完了を以て私は初めて愛知県の土を踏んだのである。
そして、電車の時刻が迫っていたので、数枚写真を撮っただけで即座に踵を返したのだった。





あっ、あっ!


電車がぁ…ッ!


実はこれは逆方向の電車で、ちゃんと私は間に合いました…ふふ。