小阿仁森林鉄道 南沢〜中茂口 第2回

秋田県北秋田郡上小阿仁村
探索日 2007.10.30
公開日 2007.11.6

 読者からの情報提供により発見された朦(もう)沢谷底の鉄橋および隧道。
今回はその踏査の模様をお伝えするが、その前にこれらの遺構を残した「小阿仁(こあに)森林鉄道」について、簡単に紹介しておこうと思う。



 右の図は小阿仁林鉄およびその主な支線を示したものである。
米代川の支流である阿仁川、更にその支流である小阿仁川に沿って南へ伸び、根状の支線網を各支沢に延ばしていた様子がお分かり頂けるだろう。
このうち、最初に林鉄として開通したのは小沢田〜朦沢間(13.6km)で、大正4年に秋田営林局合川営林署によって二級(森林軌道)の線路規格で開設されている。以後、これを本線として、南北両方向に延伸されていくのだが、このうち南沢で分岐して八木沢へと小阿仁川本流を遡る「上小阿仁線(大正11年竣工2級 9.5km)」は規模が大きく、また昭和期には盛んに延伸されて太平山地まで届く事となり、結果、当初の本線であった南沢〜中茂(朦沢)間を「中茂支線」へと蹴落とし本線としての扱いを受けるようになる。
昭和20年代の最盛期には、本線の延長が43kmに達して全国でも有数の規模を誇ったが、今回紹介する南沢〜中茂口間はこの本線延長には含まれないことになる。

 大正末以後、小阿仁林鉄・上小阿仁林鉄及びその主要な支線が一級線(森林鉄道)に格上げされ、路盤構造や線形全般の改良が行われた。
今回発見された鋼鉄のガーダー橋もまた、この改良時に架け替えられたものと考えられるだろう。

 まとめると、今回歩いた区間というのは大正4年に小阿仁森林軌道として開通した部分を元にしていて、昭和4年に小阿仁森林鉄道中茂支線となり、以後昭和42年の廃止まで利用された区間、と言うことになる。





林鉄のプレミアムコンボ!

狭き平均台の死闘


 2007/10/30 13:44

 私と細田氏は沢を渡り、水際の笹藪を掻き分けて橋の袂へ迫った。
典型的な形のプレートガーダー橋が、気持ちいいほど真っ直ぐに対岸の切り立った斜面へと伸びている。
橋に沿って視線を遠くに向ければ、やがて素堀らしい細長い坑口に呑み込まれ、さらには出口まで一直線に見通せた。
再び視線を足元へ戻すと、まだ数本の枕木が、苔色に覆われボロボロの朽ち木になりながらも、辛うじて橋の上に渡されている。
しかし、それもごく手前の数メートルだけであり、その向こうは黄色い落ち葉が点々と続くだけの、「細き平均台」の様相を呈している。

 この橋を渡らなくても、素直に沢を徒渉して、斜面をよじ登り坑口へ辿り着く事は出来そうである。
しかし私も細田氏も、このような廃鉄橋を渡るスリルが大好きである。渡ってみなければ気が済まないのである。



 この橋は、比較的挑戦しやすい構造になっている。
と言うのも、我々が渡り始めた下流側において谷は傾斜が緩やかで、最初の3mほどは地面との高低差が少ない。
故に、万一転落して負傷するリスクをあまり冒さず、言うなれば「試し渡り」が効くのである。
今まで出会った多くのプレートガーダーは大概はクリティカルな場所に架かっていて、そんな余裕は少なかった。
この余裕ないし猶予は、久々の「橋渡り」実戦である細田氏にとって特に、大きな意義を持っていた。

 左の写真を見て欲しい。
本橋の渡橋条件すなわち難易度は決して低い部類ではない。
なんと言っても、渡るべき桁の幅が足を載せる限界と思われるほどに狭いことだ。
まさにこれはストイックな平均台であり、バランス感覚のみを頼りに渡るより無い。



 さらにこの橋の攻略を難しくしているのは、桁正面に出っ張っているリベットの存在だ。
これらリベットは、プレートガーダー攻略において必ず敵する存在ではあるのだが、本橋においては元もとの幅が狭いのとリベット同士の間隔が狭いため、実際にはこのリベットの頭の上を歩く事にならざるを得ない。
当然これは足裏の接地面積が小さくなることだから、バランスも取りにくいし、滑りやすいという問題がある。

 これだけでも十二分に困難な橋だが、さらに桁上に散乱した落ち葉の存在と、雨に濡れているという状況が、本橋の難度を「至難」と言っても良いレベルに高めていた。

 しかし、このような分析をしながら挑戦することは、私と細田氏の楽しみのようにもなっている。
「この橋は、レベル5だな」とか言いながら、過去二人で挑戦した色々な橋と比較してみたりした。



 二人とも困難な橋であるという認識は共通したが、結局は挑戦していた。
下流側の梁に取り付いた私を先頭に、もう一本の梁に付いた細田氏が1.5mほど後ろに続く。

 1メートル、2メートル、3,4,5…  順調に距離を伸ばしていく。
ものはあくまで平均台であるから、普通の身体能力が有れば、誰だって渡れるはずである。
あとは恐怖で足が竦んだり、ふらついたり、油断して転倒でもしない限り、やがては対岸へたどり着けるのだ。
私は、いつもそう自分に言い聞かせながら渡っている。
絶対に人の体重などで橋が崩壊することはないから、その意味で、木橋を渡る時のような「何も保証がない恐怖」は無いのだ。
だが、今は自分一人ではない。

 私は数メートルおきにタイドプレートに足を載せて振り返ると、後方の細田氏を振り返り、彼の安否を確かめた。
我々にとっては最高のシチュエーションではあっても、世間的には「こんなにツマラナイ場所」で、妻子有る彼に負傷して貰うわけにはいかない。


 だが、彼のブランクの長さを不安視していた私の心配は杞憂に終わった。
単独で廃道歩きをすることは決して無い細田氏であるが、私が地元にいない間もときおり「点検」を怠らなかったと言うのだ。
彼の言う「点検」とは、このレポの末尾にある「増沢橋梁」を渡る事である。
彼は仕事で外回りの合間や、或いは深夜のドライブ時などに増沢橋梁に立ち寄っては、ひとり、渡橋力の減退を抑えてきたのだった。(この橋へ行けば細田氏に会えるというわけではないが、会える可能性はある。)

 そんな彼の足取りは安定しており、何よりも、恐怖によってその歩を乱すことが無かった。
このまま順調にいけば、二人揃って隧道へ辿り着けるだろう。


 渡り始めてから1分後、私と細田氏は相次いで中間地点である橋脚の上に達した。
華奢な橋脚ではあっても、我々の止まり木としての安定感は抜群である。
ここでひとまず周囲の状況を確かめると共に、緊張による身体の強張りを取った。

 ここまで細田氏の事ばかり述べてきたが、当初の予想通り、この橋は私にとっても大変恐ろしいものだった。
リベットの頭の上に落ち葉が載っていると恐ろしく滑りやすかったし、その梁自体の狭さは少しのバランスアウトも許さない強迫性があった。
また、途中で地上から伸びている立木の枝が干渉して、どうしても体勢を変えなければならない場面もあり、「渡橋は動作のパターン化がコツ」だということを旧柴崎橋で覚えた私にとって大きなストレスになった。

 …しかしここからの後半戦、
どうしてもパターン化出来ない場面が、待ち受けていた……。




 そう。
このフジのツタが絡まったエリアである。
たったそれだけのことだが、この突破は困難を極めたのである。

 草のツタならば千切って捨てる事も出来ただろうが、これは木であるから、そうも行かない。
しかし、茂る葉によって狭い梁が見通せなくなっているばかりか、躓きそうな状態になっており、とても歩けない。

 私はその直前に立ち尽くしたまま、困ってしまった。



 引き返すべきかとも考えたが、残りはもう10mを切っており、しかもツタが絡まっているのは3mほどに過ぎない。
どうにかして渡り果せたい私は、最後の手段として、四つん這いになった。

 しかし、これでも容易ではなかった。



 あくまでもツタはツタに過ぎないから、体重を載せようものなら忽ち千切れてしまうに違いない。
だから、注意深く手でツタを払いながら、梁および補剛桁(斜めに渡された細い鋼材)の位置を確かめ、そこに腕や膝の皿を載せながら、慎重に進んだのだ。


 転落の恐怖が、強く頭をよぎった。





 約2分を要し、3メートルばかりのツタ地帯を突破した。
残りは僅かとなったが、一度四つん這いになって重心を下げてしまったため、もう立ち上がれなくなってしまった。
そのため、残りは全て這い進むこととなった。
桁が狭すぎて、直立する瞬間に不可避の身体のバランスの崩れが怖かったのだ。

 ちょっと情けない姿にはなったが、ともかく私はこの全長25mほどの橋を渡り果せた。




 こうして、

私は隧道へと辿り着いたのである。




……細田氏はどうなった?

自分の渡橋に夢中になっていた私は、細田氏が付いてきていないことに気付かなかった。
まさか気付かぬうちに転落していたなんてことは…。

慌てて振り返る。




 い いねぇ!



 …ん?


 あ、いたいた。
フジの茂みがモソモソし、何か黄色いものがチラチラと見える。


 「てんちょ〜う!」(←細田氏は私のことを「店長」と呼ぶ)

 「沢渡って向かうスね。」

彼はフジの絡まりに前進を断念し、長い撤収の道を歩む決意をしたようだった。



 彼が沢を渡る間に私も一旦谷底へ降りて、この見事な橋を隅々まで観察することにした。

左右の写真は、何れも谷底から来た方向を撮影したもの。

撤収中の細田氏が写っている(左)。

また、橋脚の傷みが特に激しい(右)。
表面のコンクリートが帯状に剥がれ落ち、内部の鉄筋が露出していた。
鉄筋は表面の滑らかな円鋼であり、戦前の特徴を示している。

 それにしても、この橋脚…

曲がってないか?

そう思って、家に帰ってから写真に定規を当ててみたが、やっぱり曲がってた(笑)。

中央部分のちょうど剥離している辺りを頂点にして、下流側に膨らんでいる。
おそらく、洪水の度に上流側を漂流物に打たれ続けた結果だろう。今現在も、多数の倒木が上流側に引っかかっている。
次の世代にはもう継承できなさそうな遺構である。



 下流側から見た橋の全体像。

圧巻 である。

橋上にいる細田氏とのスケールの違いを味わって欲しい。

ここを古くは蒸気機関車、後期はディーゼル機関車が、何輌ものトロを曳いて行き来していたのである。
森の鉄道の勇姿を私も一目見たかったが、私が生まれたときにはもう県内に林鉄は残ってなかった。
昭和46年9月に当地のお隣、五城目営林所管内杉沢林鉄が廃止され、これが東北全体でも最後の林鉄だった。



 細田氏はしばらくして谷底へ降り立ち、長靴よりはいささか深い清流を渡ってきた。

 そして、沢を渡っても今度は隧道へと登らねばならない。
下ってくるときにも感じたことだが、土の斜面はとても滑りやすく、登り返すのも結構たいへんだった。




南沢隧道(仮称)


 13:56 

 これが、15年の眠りから醒めた「南沢のトンネル」である。
県内にもはや2本の他に未知の隧道が無いと考えていた私にとって、3本目の隧道となった。
そして、数分後には既知の隧道に変わっているに違いない。

 本隧道の名称は分からない。
私なら「南沢隧道」と名付けるだろうか。
これまで小阿仁林鉄沿いで発見された隧道としては3本目である。
(従来、増沢隧道麻生隧道が発見済。何れも仮称)

 橋を渡る前から、この隧道がちゃんと貫通していることは分かっていた。
向こう側の光がずっと見通せていたから。
それだけ隧道は短く、かつ、良く原形を留める。



 なんと、隧道内部は奇麗に枕木が残っていた!

その枕木を半ば以上埋めるように、バラストが敷かれている。
林鉄らしい、川砂利そのもののバラストだ。

隧道内は、レールが消えている他は、完全に半世紀前の姿を留めているようだった。
苦労して辿り着いた隧道だけに、この素晴らしい内部の状況を見たときの感動は大きく、またしても「しゅでー!」を連呼。
さらに、「ゲンゾン枕木だ!」などと叫んだりした。うふふ。




 だが、廃隧道の闇や、その非日常の空気を味わうには、いささか隧道は短い。

全長は、30mほどである。

あれよあれよという間に、向こうの明かりが近づいてくる。

Get!


 また橋だよ。

“橋→隧道”を “林鉄スペシャルコンボ”と名付けるなら、

“橋→隧道→橋”のコイツはさしずめ

“林鉄プレミアムコンボ”だ!!




再び平均台


 14:00

 短い隧道を挟んで、2本のガーダー橋が連続していた。
渡るのは、さっきと同じ朦沢である。

このように隧道と橋を連ねたルートは一般の鉄道にあってはよく見る景色だが、林鉄では珍しい。
隧道や橋などの「構造物」はそれ以外のヒラの部分に較べて工賃が多く掛かるから、旅客収益などが見込めず、しかも伐採し尽くすまでの一時的な鉄道である林鉄にあっては、余り多用されないのだ。
少しくらい地形が悪くても、一般の鉄道は敬遠する桟橋や急カーブなどで対処する事が多い。
だが、当地に限っては隧道を迂回する旧線の気配は見られないので、大正4年の最初の開通時からこのような路線だったようだ。
地形的に迂回が困難だったのかも知れないし、奥地で産出される天然秋田杉の価値は非常に高かったので、十分に元が取れると考えられたのかっも知れない。

いずれにしても、この一連の光景は感動的ですらある。




 隧道の西口から2本目の橋までは地上部と言える区間がまるでなく、坑口の路盤がそのまま“L字形”に掘られて橋台となっている。
しかも、その橋台には全くコンクリートが使われておらず、岩盤を整形したまんまである。

 そんな坑口であり橋の上でもある場所から下流を見下ろしたのが右の写真。
険しい崖になっており、とても登り降りは出来ない。これは上流側も一緒であり、この坑口から先へ進むには、嫌でも橋を渡るより無い。

 さあ、第二戦!!



 緊張のひととき。

橋の規模は前の橋と似ているが、今度は邪魔なツタも無く、マイペースで進める。

街にいては体験できない、一歩一歩にスリルを味わう、このゾクゾク!


 こ、こ

こわたのしぃ〜〜〜!



 神経を集中させて、一気にスタスタと渡ってしまうが吉。

橋の上で立ち止まれば立ち止まるほど神経が消耗し、危険が増すと私は考えている。

この橋は、対岸の近くに橋脚が一本だけあって、その先はコンクリートのIビーム橋となっている。
そこまで行けばあとは幅も広いし、邪魔なリベットも無いので楽勝である。

 もう少しだ。

細田氏も後方を静かに、そして着実に前進中であった。



 別に彼は遊んでいるのではなくて、干渉してくる邪魔な枝をかわそうとしているのだ。

だが、私はこの写真を見るとどうしても可笑しいと思ってしまう。
つうか、この体勢から枝を放して、よく無事だったな(笑)

ちなみに、彼の身体は橋の外側を向いており、進行方向に対し直角になっているが、これは「カニ歩き」なる渡橋方法によるものである。


 私と細田氏は、本当に廃橋を渡るのが好きである。
そして、渡るための術、すなわち「渡橋術」なるものを研究してきた。
その成果はいずれ体系立ててORJ辺りで報告したいが、ともかくガーダーを渡るときの足運びとしては、右の図の2通りの方法が非常に有効であることを見出した。


 最もスマートかつスピーディに渡れるのは、私が旧芝崎橋で編み出した「ハの字歩き」である。(オブ48手の第45技)
我々の中では、これが最も高等な渡り方として賞揚されている。別名は「スタスタ歩き」である。私は当地の2橋もこの方法で渡った。

 これに対して、細田氏が森吉五号橋梁で編み出したのが「カニ歩き」である。(オブ48手の第46技、左写真)
見た目には恐ろしいが、実はかなり安定した渡り方である。細田氏の得意技でもある。(万一バランスを崩しても、常に足が揃っているので素早くしゃがめる安心感もある)

 この他にもダサ技とされる「四つん這い歩き」や「尻ズリ歩き」、伝説の「梁渡り」など、橋の構造や難易度に合わせて多彩な渡橋術がある。



 ほぼ渡橋完了。

橋の先にも軌道跡は続いているようだが、その状況は非常に悪そうだ。
読者情報の確認は取れたことになるが、まだ何か遺構が残っている可能性もあるので、上流、及び下流方向の探索も時間の許す限り行うこととした。

当初は隧道一本がポロんと現れるだけの小ネタを覚悟していたのだが、いやはや、トンデモナイすごネタだった。


 なお、我々が隧道の中にいるとき、そして橋を渡っている最中ずっと、頭上の斜面から激しい金属打音が響いていた。

 ゴォーーン カァーーーン!

 そんな音である。
音の正体には心当たりがあって、我々が車を停めたスノーシェッドが解体されていく音に違いない。
橋上から音の発生源を見上げると、案の定、断崖に等しい斜面の紅葉した木々の向こうに動く重機のアームが見えた。
写真にも、水色の重機が斜面中腹に見えている。(形までは分からない)




 無事に二人とも橋を渡ったが、仕留めた獲物の全容を確かめるべく、またも川原に降りた。
そして、隅々まで観察する。

 まずは橋脚。
この橋脚もものすごく薄っぺらで、華奢である。
コンクリートを節約する目的なのか、或いは強度的に十分と考えられたのか、驚くほどに薄い。

 近づいて巻き尺で寸法を測ってみると、その厚みは僅かに48cm。幅は1mほどであった。




 林鉄プレミアムコンボ

ごっつぁんです!






 さらなる発見を求め、上流へと前進を再開する我々。

  待ち受けていたのは、困難な絶壁の軌道跡。

   紅葉に彩られた美しき秋田の風景。渓声の詩だった。