廃線レポート  
森吉林鉄 第W次探索 その5
2004.5.9


 5号隧道 排水工事
2004.5.4 10:17


 5号隧道である。
この、森吉ではよく見られるコンクリートの簡素な坑門。
見える範囲に崩壊はないが、足元はスッカリ水没している。
水面から出ているのは、坑門の向かって右側の一畳ほどの僅かなスペースだけだ。
この水没隧道だが、内部の様子はプレリサーチでも判明していない。 その原因は、この水没に他ならない。
この隧道さえ越えれば、そこには景勝小又峡を跨ぐ、森吉林鉄最大の橋梁である3号橋梁が待っているはずだ。
そして、それこそが今回の探索の最終目的地である。



 プレリサーチに参加した精鋭達が、ただ漫然とこの水没に手を拱いていたわけではない。
そこには、汗のほとばしりがあった。
彼らは、坑門を堰き止めていた大量の土砂を、人力で排除したのである。
その結果、本隧道の水位は、なんと30cmも下がったという。

たかが30cmと思うかもしれないが、長い隧道の水位30cmといえば、相当の容積である。
排水作業に参加したパタリン氏の話では、「もの凄い流れだった」そうである。
それもそのはずだ。

そして、今日の水位は、この雨にもかかわらず、坑門付近で20m程度に落ち着いている。
まさに、「プレ隊さまさま」である。




 で、この様に水位の安定を見ている5号隧道であるが、未だに内部は判明していない。
なぜ、プレ隊は折角の排水の成功にもかかわらず、内部へと進まなかったのか。

その答えは、実際に私が入洞してみて判明した。
坑門から、10m。
内壁が素堀に転じると同時に、水位は突如深くなる。

見たところ通行に支障は無さそうな様子なのだが、暗い水面の底は、ある地点から急激に深くなっていた。
ヘドロの海だった。
これでは、もう既に下半身水浸しの私はともかく、全員で突破することは難しい。
ボートを持ち込めればその限りではないが、2号橋梁をボートと共に越えることはさらに難しいだろう。


 1019
この坑門では、久々に人の生きた痕跡が発見されている。
それは、一本のドリンク剤の瓶。
お馴染み「オロナミンC」の瓶である。
しかし、よく見ると、どこかが違う。

この謎(?)を解き明かすには、オロCの歴史を紐解く必要がある。
オロCは大塚製薬株式会社が昭和40年に発売して以来、これまで栄養ドリンクのトップとして君臨し続けているバケモノ商品であるが、その値段が発売当初からわずか10円しか値上がりしていないのに比べ、キャップは大きく分けても二度変更されているのだ。
今、あなたが手にすることが出来るのは、引っ張って開けるタイプ(マキシキャップと言うそうだ)な筈だ。
このキャップは昭和60年頃から登場したもので、この以前は、グルグルッとまわして開けるタイプ(スクリューキャップ)だった。
ここまでは見覚えがあるという人も多いことだろう。
しかし、発売当初のキャップは、王冠だったのだ。
王冠キャップからスクリューキャップに代わったのは、昭和45年頃だそうである。(以上「大塚製薬サイトより」)

もう一度写真を見て欲しい。
このオロCのキャップ… 王冠だ。
軌道の廃止は昭和43年である。
その当時に、営林署の屈強なオヤジか、或いは軌道を歩いて小又峡を目指した猛者かは知らないが、何者かがここでオロCを落としたことになる。
飲んで捨てたのではない。
未開封なのだ、王冠の様子から言って、ほぼ間違いなく。

すごい。
林鉄跡は、古物博物館だ。



 我々は、さらに水位を下げる作業を開始した。

今回は、参加した全員がスコップやシャベルを持参している。
各々が、プレで掘削された排水路をさらに拡充し、深く掘る作業に徹した。
掘る度に水は濁り、ますます洞内から排水された。
掘っては流し掘っては流し。
また、ここは自衛官氏の本領発揮の場でもあった。
何十年間もかけて堆積した土砂の中には、おびただしい埋もれ木があり、掘削作業を困難な物としていたが、自衛官氏はその度に、埋もれ木を持ち上げ、或いは担ぎ上げ、ちぎっては投げちぎっては投げ、我々の前から退かしてくれた。
凄いパワーだ。

男5人も集まれば、かなりの作業量をこなす事が出来た。
もっと人助けにでも使ったらいいと思われるかもしれないが、我々はとにかくよく働いた。 と思う。

そして40分が経過した。

坑門付近の水深は、下がった。
下がったが、下がっても5cm。
もう、これ以上深く掘り下げることは難しく、岩盤のような堅い部分が方々で邪魔をし始めた。


しかも、掘っても掘っても、次々流れ来る水は洪積作用を止めない。 もう、きりがない。
掘れども掘れども、だ。


2号橋梁でボートを切り離し。
5号隧道でスコップを切り離し。

…持参した武器を全て放棄した我々は、遂にただの探索者達となった。

どうしよう。
山越えで隧道の反対を目指すか…。
しかし、未だ誰もなし得ていない山越えを、この大人数で、しかもこの雨。
無事では済まされないだろう。
言っておくが、この隧道は地形図上で推定される延長として、500mは堅いのだ。

どうしよう。


どうなる、森吉探険隊?!



付録1  プレリサーチ写真紹介

 いよいよ佳境を迎える本編だが、ちょっとブレイク。
今回の最大の立役者である、プレリサーチ隊の活躍を紹介せねば、バチが当たるというものだ。
ここで、彼らが撮影した写真の一部を紹介しよう。

これら写真の著作権はそれぞれ撮影者に帰属する。



 ←3月27日 くじ氏撮影

これは、今回のレポートでは触れていない3号隧道である。
ちょうど、4号隧道の背後にあるもので、内部に崩壊と浸水が進んでいるのは、4号隧道と似ている。
ただし、延長は100mほどだ。

それは良い。
問題は、くじ氏が3月から早くもこんな場所に挑んでいたという事実だ。
さすがにこの日は山越え4号隧道突破は断念したそうだが、こんな彼の人知れぬ努力が、後に「初めて2号橋梁及び5号隧道を発見した男」という称号を与えしめたのだ。
普通、こんな雪の中林鉄探索をしようと思うだろうか…。



 4月11日。
くじ氏が単独で4号隧道の山越え突破に成功。
遂にその先の2号橋梁を捕らえた。
これは、その記念すべき第1号写真である。

合同調査時には水没していた南清水淵沢も清流の姿をしており、そそり立つに2号橋梁の橋脚も撮影されている。
まだ、山肌にはかなりの残雪も認められる。
彼は、まだ梁渡りを会得していなかったので、歩渉して渡った。



 そして、彼はそのまま5号隧道を見た。
洞内は深い淀みとなっており、カエルの卵が浮かんでいたという。
現在では、坑門前の水路が切り開かれ、かなり様相が変わってしまった。
洞内の水流も復活しており、淀みという状況からはほど遠くなっている。

彼が覗き込んだ5号隧道は、この時まだ、内部の様子を晒すことを許さなかった。
しかし、我々はくじ氏の生還によって、一気に森吉探索がが進展したことを知った。
そして、続々と男達は彼の地に乗り込んでいった。


← 4月18日 くじ氏撮影

いよいよプレリサーチ隊入山。
彼らによる献身的な排水土木作業によって、5号隧道は水流を取り戻した。
こうして、現在の5号隧道の姿は形作られたのだ。
 



 
 ↑4月18日 HAMAMI氏撮影

2号橋梁、
水位の低い頃の最後の姿である。
今回の調査時には天候に恵まれず、この様な距離感のある撮影は不可能だった。
非常に貴重な写真である。

右は梁渡りに勤しむパタリン氏の後ろ姿だ。
その奥は4号隧道だと思われる。
なんか、楽しい景色に見えるが本人達は必死である。



 ←4月18日 HAMAMI氏撮影

今度は梁渡り中のHAMAMI氏が見た、歩渉をするくじ氏パタリン氏ふみやん氏の勇姿だ。
水位が低いと言うことは、それだけ高度感があると言うことで、意外にスリリングな高さかも。
しかし、失礼だけど…なんか気持ちよさそうだなー
…周りの雪を見よ、まだ水遊びの時期じゃない。




←4月18日 くじ氏撮影

今度は歩渉するくじ氏から、誰だろ?
梁と戯れるパタリン氏HAMAMI氏の姿。
いや、遊んでるんじゃなくて、これでも意外に恐いんだってば。
まあ、始祖であるHAMAMI氏ならもう、目を瞑っていても渡っちゃいそうだけど。

この時はまだ、橋上に枕木が二本あり、これを避けながらの梁渡りでした。


 比較写真である。
同じ場所でも、こんなに水位が変わるのだ。
これがダムの威力だ。
印象も全く変わってしまうし、攻略方法も梁渡りのみに制限されてしまった。
このあと、渇水期になればきっと、再び歩渉も可能となるだろうが。


 如何だっただろうか?
森吉探険隊を支える地道な努力を感じて頂けたなら幸いである。
私も、感謝の気持ちを新たにしたところである。







  ん?

 何が起きた?!






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