酒田臨港開発線  その1

公開日 2006.04.11
周辺地図

 最上川の河口に位置する酒田港は山形県庄内地方を代表する工業港で、日本海沿岸有数の規模を有する。
この近代的な港湾地帯への物資輸送のために敷設されたのが、JR貨物が所有する羽越本線貨物支線の酒田港線(酒田駅〜酒田港駅間 L=2.7km)である。
そして、これと接続して港湾内の相互輸送に利用されているのが、(株)酒田臨港開発が管理を行っている「酒田臨港開発線」である。

 その路線網は右の地図の通りだが、これは他の臨海工業地帯の鉄道網と比較してもかなり緻密と言えるもので、港湾内の全地域への輸送が可能となっている。

 このレポートでは、その“いま”をお伝えしよう。




酒田港ターミナル

 意外に思うかも知れないが、私は貨物列車が好きで、鉄ちゃんを自称するような豊富な知識量こそないものの、操車場のような場所でごまごまと働く貨物も、本線上の長大編成も、どちらも大好きである。
そんな私がこの酒田港線を訪れたのは、単純に「見てみたかった」からに過ぎず、別に山行がでレポートするような状況(その状況というのは、おそらく管理する側にとっては嬉しくない状況だろうけれど……)になっているとは、思ってもいなかった。

 前置きはこのくらいにして、まずはJR貨物の酒田港線と港湾開発線とが接続する酒田港駅付近を見ていただこう。
さすがにこの辺りには活気があるかと思いきや……。



 上野地図中では最も下のあたりのレールは、こんな様子である。
酒田港線の終点で、多数の貨物車輌が留置され出番を待っている。
側線の数は多いが、見ての通り草の生えた場所も多く、見通す限り動く車輌の姿はない。
 写真の左側のフレームの外は車道で、さらにその左は海なのだが、海と車道の間はちょっとした緑地公園として最近整備されており、そこでは2回行ったうち2回とも、子どもや若者たちがローラーブレードの練習に汗を流していた。
私が子どもの頃に見られたような、貨物のヤードを熱心に見つめる子どもの姿は、全く、ない。



 動いている機関車の姿こそ無かったが、駅の巨大な荷受け工場の周囲だけはレールもぴかぴかで、この施設と酒田駅との間は毎日何往復かの列車が設定されているとおり、現役を感じさせた。
しかしここでも、活発な人や物の動きというのは、感じられない。
時折ウミネコの甲高い声が響く他は、静かなものだ。



 見渡す限りコンテナが積み上げられた一角。
皆さんご存じの通り、今日の陸上貨物輸送の主役はトラックで、これだけたくさんのコンテナもなんだか、手持ちぶさたに見えてしまう。
慌ただしく動き回るフォークリフトの一台でも見えれば、まただいぶ印象は変わってくるのだが……。

 今度は陸側、酒田駅方面のレールを少し辿ってみた。



枝分かれの中心


 港の各地へと扇状に枝を伸ばす線路の要の部分に立って、酒田駅方面を見ている。
頭上を主要地方道酒田港線の終点の大浜陸橋が跨いでいる。
陸橋があるせいかまともな踏切はかなり酒田駅側に行かないと無いので、どうしてもレール上を跨いで移動したくなってしまう(というか、私はチャリごと進入しているのだが…)。
しかし、そんなことも許されてしまいそうな長閑さなのもまた、事実である。



 陸橋の下には独特の配色で塗られた酒田臨港開発社所有の機関車が一両、まるでそこがねぐらであるかのようにちょこんと佇んでいた。
近付いてエンブレムを見てみると、林鉄好きにはお馴染み、協三工業社製であることが判明。
酒田臨港開発社はこれと同様の機関車などを数両所有していて、JR貨物車との間で荷物のやり取りをしているようである。
幸いにして私はこの1時間ほど後、この地を去ろうとする直前になって彼らの仕事ぶりを見ることができた。



 扇の要の部分へは幾筋ものレールが合流してくるのだが、それにしても空き地が変に目立つ。
もともとはもう少したくさんのレールが敷かれていたのかも知れない。

 さらに酒田駅の方へと進んでみる。



 幾筋もの支線は最終的には二本の線路に集約され、何度かの渡り線による交渉を経た後、また二手に分かれていく。
右へ続くのはJR貨物の酒田港線で、緩やかな上りの先は2kmほどで酒田駅に通じている。
左へ続くのは酒田臨港開発線の大浜埠頭線(これは仮称だが)で、同線としては駅からもっとも遠い場所まで伸びている。
地図上を見る限りでは、その終着地はここから2km以上も離れた大浜埠頭の突端となっている。

 実は、かつては中央にももう一本のレールが敷かれており、遠くに見える緑の森の中へと進んでいた。
それは、国立食糧倉庫へと続いていたのだが、現在はレールも取り外され、飽食の時代ゆえか、倉庫も過去の物へなっている。



 日没迫る酒田港駅方面を振り返って撮影。

 向かって右の方には幾筋もの支線が分岐しているが、これからはそのそれぞれの行く手を紹介していこう。

 私はここで踵を返し、再び大浜陸橋をくぐって、海岸線に面した本港の埠頭へと戻った。



鉄路の果ては、列車が最期にたどり着く場所だった

 港へ向けて分かれていく線路のうちのある1本は、本線から分かれてすぐの場所で機関車が通せんぼしていた。
いまは眠りについた機関車の前には、レールを塞ぐ丸太が一本。
車止めにしては余りにも簡素だが、この先の線路は廃線なのだろうか……?

 訝しく思いながら、まだ微かに光沢を残すレールを辿りはじめた。



 大浜陸橋を端っこのスパンで辛くもくぐると、一路、線路は海へ突き進む。
潮風の影響か、レールの錆が目立つ。
バラストも殆ど敷かれておらず、まるで廃線だ。

 この埠頭はマリーナとして使われており、陸に揚げられたボートたちが整然と立ち並んでいる。
その隅っこを、なんだか片身も狭そうに続くレール。
その行く手は。



 遮断機さえない踏切を一つ跨ぎ、線路はいよいよ海へと近付く。
再びレールは二手に分かれようとするが、傍らの手動転轍機は油が切れているのか鈍くしか動かない。
バラストは遂に姿を消し、枕木さえ汚れた土に隠されてしまっている。
さらに、様々なゴミがレール上に散乱……。

 ガードレール一枚を挟んだ向こうには、美しいボートの群れ。
傍らの線路上には、終末の香り……。



 そこは、ただの終点ではなかった。

 役目を終えた車輌が最後に訪れる……
 その名も、通称、 解体線

 よく見れば、隣にあるスクラップ工場と線路の間を隔てているものは、輪切りにされて立てられたタンク車であったり、古めかしいコンテナ車であったりする。
私は息を呑んだ。



 貨物列車の長大編成。

 だがそれは、



 解体場と市井とを隔てる壁へと転身した、貨物列車の成れの果てだった。

 この日は、解体線の上に留置された列車の姿はなく、もしかしたら、このまま解体線自体も解体される日が近いのかも知れない。
だが、ほんの数年前までは、この解体線は間違いなく現役で使われていたことが複数の目撃証言から明らかである。

 人の手により生み出された鉄の函に過ぎぬ貨物列車たちではあるが、最期に、ただの一度だけ踏みしめる、解体線のレールが上げる軋みを想像するだけで、私は目頭が熱くなるのを押さえられなかった。



 ワキ 5391

“壁”の内の一輌には、
彼の名前を示すペンキ書きが、長年の風雪と、潮水の浸蝕にも耐え、いまだ消えずに残っていた。



 スクラップ工場とは全く関係の無さそうな無数の生活ゴミを躰の下に抱きかかえたその姿は、余りにも痛々しい。



 彼は、朽ち果てた結果か、鉄の壁の一部に内部へ通じる亀裂を生じさせていた。
不安定な足場と、触れるのも躊躇われるような錆の塊となった断面で怪我をしないように細心の注意を払いながら、私は生まれて初めて、貨物列車への進入を試みた。



 内部にまでゴミが散乱している事態を恐れたが、幸い、奥の方は綺麗だった。
向かって右側の壁は歪んでいるが、固い鋼鉄を拉げさせるほどの圧力の正体は、列車よりも遙かに高くまで積み上げられたスクラップの山に違いない。

 普通の壁では役に立たないような大仕事に、その骸の砕けるまで従事するこの貨物廃車体たちは、世界一の働き者かもしれない。 (つづく)