千頭森林鉄道 千頭堰堤〜大樽沢 (レポート編3-3) 

公開日 2010. 6.30
探索日 2010. 4.21

天地索道所


2010/4/21 7:53 《現在地》

これが、昭和26年当時には「東洋一」と賞された天地索道なのだろうか。

その割には、盤台と呼ばれる終点設備の規模は大きくなく、荷重の大半を一手に引き受ける主索の太さも、その主索が取り付けられたアンカーの(地上に見えている部分の)大きさも、特筆するほどとは思えない。
もっとも、特に簡易な索道施設では、これらの盤台を木製で済ませる事も多かったから、決して小規模という感じではないし、おそらく直前に見た、此岸と対岸の天地を結んでいた2系統の索道のどちらかである。だから、最低でも高低差250m、長さ800mはあると思う。

残念ながら、盤台に登るような足場が見あたらず、また芽吹き始めた緑のせいでこの主索の行き先を目で追うことも難しかった。





左写真は盤台に据え付けられたドラムおよび、主索を固定するコンクリートアンカーだ。
固定されている2本の主索に対し、ドラムの回転に合わせて可動するのが曳索だ。
今もドラムに巻かれたまま残っており、その曳索のブレを取るために、2つの滑車が取り付けられている。

右写真は曳策にぶら下がったままになっていた搬器で、主索から“脱線”して上下逆さまになっているが、写真に写る2つで一台の搬器を構成する。
本来は、輪っかの部分に荷掛けを行った状態で、車輪が主索に乗っかって荷重を負担し、曳策に曳かれるかたちで“走行”する。
また、曳策を可動させるドラムの動力部は、この下部盤台付近に見あたらず、上部にその施設があった可能性が高い。

ワンスパンで途中に支柱を持たないタイプの索道は、上記のように構造が単純であるが、風による揺動を原因にした脱線事故が起こりやすく、荷重制限のため搬器もあまり多数を同時に運用できないので、効率は良くなかったという。
そのため、昭和30年代以降は単径間で規模の大きな索道の新設は避けられるようになり、結果「天地索道」の記録が抜かれることはなかった。(一般に単径間の限界長は1000mといわれていたが、天地索道は1400m近かった)




或いはこちらが天地索道の跡かも知れない。

上の索道のすぐ隣には、さらに巨大なアンカーを地中に埋設させている気配のある、空の盤台があった。
天地索道は運用年数が不明であり、上西河内開発の末期まで使われていたか分からないのだ。
途中で切り替えられた可能性もある。

なお、この傍の路盤上には、小さな波トタンの資材置き場があって(前回最後の写真に写っている)、扉を開けて中を窺うことが出来たが、そこには索道の潤滑に使ったらしい多数の機械油のタンクや、小さな原動機、その原動機のためのガソリンタンクなどが置かれていた。
あと、クレオソート油もひと缶あったが、枕木の防腐に使っていたのだろうか。辺りはやや湿り気を帯びた湾状の地形なので、枕木の老朽は早かったろうと思う。




7:57

そこから50mも進まないうちに、再び索が掛かったままの盤台と関連施設が見えてきた。
こちらも索の行き先は確認できなかったが、方向的には先ほどと同じように対岸へと向けられていた。
こちらが天地索道の可能性もある。

最近私は、索道という空の道に魅せられつつあり、天地索道の上部にはいずれ本当に行ってみたいものだ。

そして、次の写真は空ではなく、地べたでの遭遇だ。
路盤より下の斜面に、何か金属製の大きな器械が落ちているのが見えたのだが、その正体は……。




自動車だった!

無残にひっくり返った…。


この場所にクルマがある事実は、重要な示唆を含んでいる。

それは、ここまで車道が通じていたという事だ。
林道ははるか200mも高いところを通っており、ここへ至る道は軌道跡の他にあり得ない。
林鉄廃止後に路盤が車道に転用されたのだ。それで枕木やレールが残されていなかったのも納得できる。
先ほどのあの狭い隧道も、クルマが通ったのだ。

そして、そんな冷静な観察を嘲るような、あまりに無残な車体の姿。
車種は分からないが、トラックタイプの乗用車、おそらくは日産サニートラックではないだろうか。
なぜか後部車輪は両方とも失われているが、無傷なパーツは取り外されたのかも知れない。
もっとも、辺りには索道施設があるわけで、これらを使えば回収も可能だったと思うが、それをしなかったのは廃車後の事故だったか。

大間川支線でサニートラックの廃車が多数あったので、サニートラックの可能性を示唆しましたが、読者さまの情報により、このフレームはおそらく「ダットサントラック1200 (ダットサン320)」ではないかとのことでした。その場合、サニートラックよりも一世代古く、1960年代前半のクルマとのこと。



一層濃い“廃”のムードを感じながら、森に埋もれた索道盤台を見上げる、崩れた小屋へたどり着いた。

そして、この小屋と思われていたものの正体を知ることになる。

それは壁のない単なる屋根掛けであり、そこに収納されていたのは…





集材機だ!

集材機は稼働するドラムと(本機はドラムが2つあるので二胴式)、それを変速や逆転させるギアボックス、動力となるモーター部およびバッテリー、そしてオペレータが操作する運転台によりなっており、ドラムに取り付けられたワイヤーは架空集材のほか、索道の運転にも使われた(ワイヤーが切断されているために、本機が索道と接続されていたかは不明)。

集材機は現在も各地で活躍しているが、林鉄が活躍していた時代、林鉄と集材機は切っても切り離せない相棒のような存在だった。
そういう目で見ると、何となく林鉄の車輌に似た風合いを感じられないだろうか。
隣に並んだら、本当に相棒のように見えると思う。
現在は集材機の代わりに、林道や林地内の作業道を通行出来るブルドーザー集材が主力である。




【原寸画像】

こういうのが好きな人もいると思うので、原寸大の画像をどうぞ。

実は私も好きで、意味は分からないところもあるが、見ているだけで鉄の匂いにクラクラする。

なお、「岩手富士産業株式会社」は集材機メーカーの雄であり、林鉄や鉱山鉄道の車輌も製作している。
その名の通り岩手由来のメーカーで、現在の奥州市、当時の水沢市に本社があった。現在のイワフジ工業であり、戦前は中島飛行機黒沢尻工場といった。




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これは謎のパーツ。

近くの地面に落ちていた。

なんだろう?
左右でワンセット、おそらくひとつのものが分解されてこうなったのだ。
見た感じブレーキ機構のようであるから、索道の制動機のパーツかな…。

この場にあるあらゆるものが、古い林業の遺構であった。
林鉄と林業が切り離せる訳もないが、いつも以上に濃密な関係を認めさせる一連の遺構群。探索の気分を盛り上げる背景として、これ以上のものは望みようがない。

どうやらこれはドラムブレーキのパーツらしい。索道の制動機か、クルマのものか?



前回の前説で述べたとおり、この天地索道所とでもいうべき一連の遺構は停留場としては機能していなかったのか、路線図にその名前はない。
しかし実態として、上西河内から伐り出された木材の全ては天地索道から林鉄に積み替えられて運ばれたわけで、大規模な施設があったに違いない。
現にこの写真の直前のところまで、200mくらいにわたって複線幅の路盤になっていた。


8:00 天地索道所、―通過。




…が、まだもう少し先まで天地絡みの遺構があった。

それは、地形図にも描かれている…




吊り橋発見!

いや、

  これ…


けっこう、でかいぞ…。


は、廃橋…?

やべぇ… 震える…!!





8:03 《現在地》

あわわ…


長げーー吊り橋…。


寸又川の広い氾濫原と川原と本流と、これらをまとめて一跨ぎにしている。
高さはちょうど氾濫原の木立と同じくらいで、5〜10mくらいの範囲。
特筆すべきはその長さで、集落もない山中に孤立して存在する橋としては、異例の長さといわねばならない。

それに、このシンプルな構造はなんだ。
手の届く位置にある主索は驚くほど華奢で、手摺りのワイヤーとそう違わない。
そして踏み板と、その踏み板を支える「そろばん板」、さらに手摺りを支える欄干と、全てが華奢。

人間が渡る事だけに特化した、最低限の吊り橋といった感じだ。

これが“廃橋”ならば、はっきり言って渡ることは躊躇われる。
そもそも、今回敢えて渡る必要のない橋なのだ。
だが、手摺りのワイヤーはまだ銀光りしており、見たところそれ以外の部材も破損しているところはない。

これは、大丈夫そうだ。




華奢でいかにも揺れそうな外見とは裏腹に、思っていたほどは揺れなかった。
(あくまでも外見の印象ほど揺れないというだけで、ゆら〜ゆら〜と揺れはする)

それは、この長さ自体が味方しているようだ。
吊り橋の揺れ方は、橋自体の重さ(=安定度)と荷重(=体重)の比率によって左右されるので、これだけ長さらに人が一人という状態は、まだまだ安全圈なのだろう。
また、橋の構造自体にも工、見過ごせない夫があるようだった。


いかにも恐ろしげに見える、肩幅よりも狭い踏み板。
しかも厚み2cmも無い一枚板で、踏み抜けば即座に墜落という印象がある。

だが、実際にはこの踏み板で必要十分なのだということに、渡りながら気付いた。

踏み板が狭いお陰で、迷わず確実に橋の中央を渡ることが出来るし、「そろばん板」と踏み板が交差している位置を、目視しながら渡ることが出来る。

さらに、狭い踏み板をフォローするように、踏み板の裏側を含めた全幅に針金線(番線)が仕込まれている。
そのため、仮に踏み抜きが発生したり、そろばん板が折損した場合も、墜落リスクは低い。
それに、横風で橋の捻れることも、これらの番線が防いでいるのだ。





機能美をカタチにしたような、シンプルイズベストな吊り橋。

後にこの橋が、「天地吊橋」ということを知った。

いまその終盤、高さ10mほどの空中で寸又川の清流を渡っている。

意識は次第に橋そのものから、対岸の地形へと注がれるわけだが、次第のその異様な状況が明らかになっていった。





美しすぎる

下流の風景。


オブロオダには、少々まぶしすぎる。

左の尾根を巻き取る辺りに索道所があり、右岸奥に注ぎ込む下西河内の上流山上、天地へ向け索道が走っていた。




美しすぎる

上流の風景。


このあたりが、本来の千頭ダム湖の上端だったらしく、
いままで非常に広かった川幅も、両岸の壁に圧迫され始め、氾濫原も消滅。

これからもずっと向かって右の川岸を軌道は通行していたはずだが、全く路盤の気配はない。
暗い緑の地表の状況は見通せず、そこにうっすらと戦慄を覚えた。




3分間のゆらゆら紀行を経て、辿り着いたる右岸の景色。

頭の付きそうな小さな“橋門”を抜け出た先に、道が見あたらない。

大袈裟でなく、本当に道がないのだ。

わざわざ橋を渡ったのだから、どこかへ道が通じていて然るべきだなのだが…。


まあおそらくは地形図の通り、真っ直ぐ正面のガレ場斜面を登っていくのが“道”だったのだろうが、今回はここで引き返した。





参考までに、天地吊橋を起点とした上西河内上流の地形図。

破線の道が延々延々と描かれているが、前述した複数段の上部軌道やインクラインと関係している可能性が高い。
確実に山中泊を要するだろう“上西河内計画”は、将来の構想段階である。
天地吊橋が堕ちるまでには、攻略しなければならないが…。




もしかしたら、これが最後の平穏かも知れない。

そんな差し迫った予感さえ感じながら、華奢で美しい吊橋に踵を返す。

揺れる橋に歩調を合わせ、すこしイタズラに大きく波動させたりする余裕を見せつつ、実は日陰と険阻の世界に戻る緊張に堕ちていた。

と、ここで思い出した。

2日前の大間川支線探索では、まだ時期が良かったのか、晴天のせいか、心配していたヤマビルとは一回も出会わなかった。
今日も念のためチェックしておこう。
このヤマビルの心配のない空中で、登山靴を脱いでみる。

ドキドキ…






付かれてた!

もう、付かれてた!




仕事が速すぎる!

いったいどこでやられたのか!

右の靴の中に一匹、やや小振りだが元気にウネウネと身をよじる、褐色にブラックラインを頂いた忘れもしないその姿が…。
ゾッとしたが、負けてなどいられない。
近くにあった小枝に誘導して取ると、踏みつぶして振り返らず立ち去った。




8:14

やべぇ。

目に見えて、やばくなった。

軌道跡に戻り前進を再開して間もなく、地形がそうさせているのだろうが、急速にガレて来た。

或いは地形のせいだけでなく、索道所より先は早い時期に廃道化していたのか…。





しかも、軌道跡は思ったよりも高くなってきた。

や、ヤバイ高さだ…。

こうなると、滑落のリスクが高まるのはもちろん、容易に川原へ迂回進路を取ることも出来ない。
路盤が安定しているならばいいが、この雰囲気は…

大丈夫なのか。


もの凄く、不安だ…。







不安的中…。


開始40分(堰堤から)で、早くも命の懸けっこかよ……。