廃線レポート  
玉川森林鉄道  その8
2004.5.3





鎧畑トンネルの旧道
2003.9.11 16:36


 旧道に入ると早速現れるのが、この重厚なガーター橋である。
左右の欄干が、中央部の高い独特の形状をしている。
夏草に覆われて見えないが、欄干の端には銘板も取り付けられている。
親柱は存在しない。
その名は、水明橋。
風流な名である。
そして、肝心の竣工年度は、昭和31年。 すなわち、付け替え軌道と共に生まれた橋である。




 林鉄に興味を抱く以前からこの旧橋は何度と無く通ってきたが、それまでは「なんで鉄道橋みたいな姿をしているのだろうか?」と不思議で仕方がなかった。
しかし、実際にこの橋は鉄道の通う橋だったのだ。
いや、鉄道ではなく、軌道であるが。
この、2車線には狭い橋を、かつて森林鉄道のガソリン機関車と自動車が共に往来していたのである。
何ともノスタルジックな光景ではないか。

“知ること”が、さらに探索を充実したものにしてくれる。
同じ場所でも、また違った新鮮さが感じられる。


 水明橋の先は右にエメラルドグリーンの湖面を見下ろす道だ。
そして、続々と廃隧道が現れる。
この「4号隧道」から始まり、「1号」までの4本が、ほんの1kmほどの区間に犇めいている。
トンネル前には決まって、「幅員減少」の警戒標識が設置されている。
これらは、現役当時に設置されたものだろう。
幅5.5mのトンネルがボトルネックになっていたのだ。
ここは、ただの3桁国道ではなく、秋田を代表する観光道路である。
休日ともなれば数珠繋ぎに大型観光バスや、多数の観光客が往来する道だ。

個人的には長いトンネル一本で貫通するなんて何とも味気ないけど、安全面からもこの旧道は余りにも時代錯誤的であったのだろう。


 これが、4号隧道だ。
全長50.2mの、直線隧道。
玉川側から見ると、出口が歪に見えるが、この原因は今に分かる。
今でもダム管理に車の往来があるのか、最低限の管理はされている。
路面にも、僅かだが新しい轍も見える。
出水が多く、洞内全体が湿っている。

 突然だが、皆さんはどの時期の廃道が好きだろうか?
いや、廃道に限ったことではないが、山を愉しむなら、やはり新緑、そして紅葉などが人気だと思う。
わたしだったら、ダントツで新緑シーズンが好きだ。
しかし、こと自身が廃道(特に林鉄)を探索するとなると、秋はよほど冬に近い秋でないと勘弁だ。
真夏も、かなり厳しい。
景色的には、いかにも「樹海に沈んだ廃道ムード」を満喫できるのだが、その歓びを得られるのは、写真を家でじっくりと鑑賞する段階になってからだ。
探索時においては、深い緑は困難の証である。
鮮やな緑は、微かな廃道の痕跡をより発見困難にし、辿ることへの肉体的疲労も大きい。
気温や湿度の高さ、害虫の発生なども無視できない困難だ。

多少味気ない景色となるが、探索は早春や冬場の、緑のない時期がラクである。
皆さんは、いつがお好き?

 これが、4号隧道の小保内側坑門である。
歪に見えた原因が、これでお分かりだろう。
トンネルの内壁補強や地下水の浸透防止のために取り付けられた波形の鉄板(ライナープレート)が、内壁からずり落ちているのだ。
それが原因である。
この変状については一応補修計画の対象となっているのか、「Lライナープレート」という文字が剥離部分にチョークで記されている。
坑門はコンクリで覆われている現代的なものだが、その風化は進んでおり、コンクリ坑門としては比較的黎明期に建設された貫禄を感じる。


 4号隧道を過ぎると、夏場は道幅が一気に狭まる。
これは、植生の浸食によるものだ。
そして、間もなく分岐点だ。
この分岐は、本レポの「その6」の最終地点である。
向かって右はダムサイトへ続き、正面が続く旧国道(兼軌道跡)。

このまま、鎧畑へ向けて旧国道を直進。

 既にこの3号隧道は分岐点から見えている。
というよりも、分岐点に対して口を開けている。
そして、この先はますます廃道らしくなる。
真っ直ぐの3号隧道は意外に長く、1〜7号のうちで最も長い183.2mの延長を持つ。
この隧道を過ぎれば、沿線の風景は湖畔から玉川の幽谷にかわる。

暗き隧道へ、水しぶきを上げながら突入。

 扁額跡。
やはり、併用軌道隧道ということで当初から扁額があったのだろうか。
本隧道もライナープレートで覆われており、内壁の様子は隠されているものの、この坑門のコンクリに入った亀裂を見ると、
…いつ崩壊しても不思議はないのかもしれない。




 林鉄隧道という痕跡は見つけられない。
やはり平成まで国道として利用されていただけあって、道路隧道にしか見えない。
その規格や構造のどれをとっても、普通の道路隧道である。
このライナープレートに隠された元来の内壁に、まさか待避坑でもあれば新発見だが、その可能性は低いだろう。

やはりこの隧道も湿り気が強く、内部は靄がかかっている。

 ますます廃道色の強い3号隧道より先の旧道へ進む。
この旧道は、もとが軌道用に設計されているだけあって、カーブや勾配も緩やかであり、舗装もまだ辛うじて生きているので、チャリで愉しむには最高の物件である。
この道を味わってしまうと、なかなか他の道では満足できなくなるほどに、甘美なものである。
私も、何度と無く通っているが、未だに飽きない。
この様な道が、簡単な車止めの奥に放置されている現状は、なんとも田舎的な状況なのだと笑われそうだが、これこそが道を愛するものにとっての宝ではないか。
自己責任で廃道に立ち入り、それを愛でるのは、人に与えられた当然の権利だと思うのである。
多くの税金をかけて、さして景観にも影響しない旧道を切り崩す事は、愚かなことだ。
バリケードを乗り越えることは自己責任だという理解が、広く成された世の中を望みたい。


鎧畑の旧道 後半
16:48

 間髪入れず、2号隧道が現れる。
延長48.2m、やはり直線の隧道は、周りの隧道と比べても特に目立った何かがあるわけでもなく、サラッとスルーされがちだが、なかなかどうして味わい深い。
このおどろおどろしい雰囲気は、相当のものである。
ここはまだ、ライナープレート外口部に貼られた警戒模様のテープが残り、現役当時の難所ぶりを今に伝える。
現在では山菜採り以外で通る者は、私のような好き者の山チャリストぐらいで、この幅でさえ無駄に広い。


 そして、いよいよ最後の一号隧道が見えてくる。
この直前には比較的急なカーブがあり、倒木なども多いため一見隧道が見つかりにくい。
しかし、アスファルトを頼りに進んでいけば、眼前に不気味な坑口が現れる。



 一号隧道、延長68m、幅5.5m。
昭和31年竣工。
樹海のような森の中、坑口へ続くアスファルトには小川が流れ、小鳥たちが遊んでいる。
盛んにまとわり付いてくる羽虫たちも多い。
何十年かあとには、アスファルト上は全て土や草に埋もれ、隧道以外には道のあった痕跡など消え失せるだろう。
或いは、隧道の方が先に崩れ去るのだろうか?


 1号隧道。
既に隧道前の路面は草むらとなりつつあるが、そこには真新しい轍がまるで軌条のように刻まれていた。
一体誰が、こんな場所まで自動車で侵入してきたのだろう。
もはや管理を完全に放棄された一号隧道であるが、その外観のおぞましさに似合わず、内部は比較的温存されている。
これも、ライナープレートの保護力…或いは、崩壊の隠蔽力? なのか。




 わずか68mの隧道は、中間付近に短い洞門部を有している。
ここは、ライナープレートも切れ、左の山側にはコンクリートブロックで法面を固めているのが見える。
まるで如雨露の先から水が噴き出すように、勢いよくわき出した地下水が洞床を濡らしている。
洞内は植物達には厳しい環境であり、勢力争いに明け暮れる雑草たちも、その外口部から恨めしそうに伺うばかりだ。
この場所にいると、外界と洞内の空気が見えない、だが確かに存在する壁で隔てられているのを感じる。
それは、温度差として確かに感じられるのである。



 外口部から外を見ても、緑のカーテンに覆われ外は見えない。
だが、すぐ先は崖となり玉川に落ち込んでいるのを感じる。




 山側の内壁の様子。
勢いよく噴き出す地下水。
かなり錆び付いた鋼鉄の落石覆いは、後補のものなのだろうか?
残念ながら、それを知る手がかりはない。


 洞門部から再び隧道へと入る坑門には、小さな碍子のようなものが一つ、取り付けられていた。
これは、各地の軌道跡で見られる軌道に併設された電線のためのものだったのだろうか?
電線だったとしても、それが直接軌道の痕跡というわけではないが、当時の状況を知る手がかりにはなりそうな、小さな証拠である。
これは一体、何なのだろうか。



 さらに1号隧道は続く。
走った実感では全長は100m以上ありそうなのだが、記録では68mと言うことになっている。

路面は湿っているものの、ライナープレートのお陰で瓦礫一つ無く、走りやすい。
アスファルトには、雪国の道ではよく見かける深い轍なども無く、状況はよい。
まあ、廃止されてからの年月を考えれば、まだ荒廃が進むほどではないのだろう。
というか、廃止後15年ばかりで崩落するような隧道であれば、そもそも現役当時から危険な隧道だったと言わざるを得ないだろう。
あの栗子隧道などは、廃止後それくらいの年月で完全閉塞を迎えたというから…まあ、そもそもの齢もちがかったとは言え、新道への切り替えはぎりぎりのタイミングだったと思われる。
これら4本の隧道は、今後人為的な取り壊しなどを受けなかった場合、いつまで存続できるのだろう。



 1号隧道、小保内側坑口。

4つの隧道の中では、もっとも老朽化が進んでいるように見える。
常に湿っているせいもあるのだろう。


 隧道群を突破しても、すぐには現道に出られない。
むしろ、さらに路面は泥濘のようになり、悪化している。
下り坂がいよいよ顕著になり、鎧畑の集落へと降り始めている事が分かる。
現道と合流するまでには、もう一つ見るべきものがある。




 それは、この山紫橋である。
先ほどの橋と合わせて、「山紫水明」となるのは、橋の名前をいちいち調べて走るものだけが知る事の出来る、小さな遊び心だ。
この橋も、やはり軌道との併用だったのだろうが、今ではその痕跡は全く見られない。
欄干も普通の道路橋のそれと違いはなく、親柱さえある。
しかし、実際にはこの橋も上路ガーター橋であることが、崖下からの眺めより判明している。
日当たりの良い場所ほど雑草に覆われているが、さすがに橋上はまだアスファルトが勢力を保っている。
ただし、隧道からの出水が水路となり一面を潤しているから、そう遠くない未来、この橋も植物の下に沈むことだろう。




 玉川の対岸には、本レポ「その6」で通った、旧軌道脇の車道が見える。
これだけの高度差が、ダムの直前であるのだ。
付け替え軌道の登攀の苦労が偲ばれる。
この先、さらに下り勾配は勢いを増す。




 冬は背丈以上の豪雪に埋もれる場所とは思えない、まるで熱帯雨林のジャングルのような廃景。
好きな景色である。
ただし、これも帰宅後に写真を鑑賞するという意味で。

実際に通行するのは、結構不快だ。


 現道とは、鎧畑トンネルの坑門のすぐ先で合流する。
この合流点には車止めもなく、自由に往来が可能である。
それでも、先ほど見てきたように、余り、いや、殆ど利用されていない。
写真がぶれているのは、下りに任せスピードを出しているせいだ。
もう、皆様お忘れかもしれないが、この日は財布を失った傷心と失意の旅路であり、はっきりいって、「はらんび悪りぃ(=虫の居所が悪い)」のである。
走りもそりゃ、荒れるさ。

ちなみに、翌日、財布が西木村で発見されたとの報が入った。
心ある方が、拾ってくれていたのだ。




 国道を1kmほど下るとそこは鎧畑の集落であり、その一角にある鎧畑発電所付近で、付け替え軌道は国道から緩やかに分かれていく。
この部分は、地形として確かに確認が出来る。
写真は、そのやや手前、左に再び旧国道が分かれていく部分だ。


 旧国道は、現国道とは違い山肌に沿ってグネグネと下るわけだが、意外なことにこの新道こそが、付け替え軌道由来である。
正確には、付け替え軌道用に作られ廃止まで利用された築堤を、しばらくの後、国道の新道計画が引き継ぎ、拡幅改良して、現在の道となったのである。
ここの旧国道は、軌道が耐えられないようなヘアピンカーブを有しているから不自然だと思っていたが、謎は解けた。

鎧畑集落内でも、現国道の築堤は一際目立つ存在だが、まさかそれが昭和30年頃から存在していたものだとは、思わなかった。



 こうして、玉川大橋から鎧畑までの付け替え軌道の探索は終了。
もっとも、見てきたとおりこの区間においては、残念ながら軌道の痕跡は極めて少ない。
旧国道の探索と言った方がしっくり来る内容である。

次回は、元祖の軌道を、玉川大橋から玉川ダムへと辿り始める。
この区間、荒廃のすすみ方が凄まじく、再びたいへんな難所であったが、いよいよ探索もハイライトを迎える!





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