廃線レポート 椿森林軌道  <第一回/>
公開日 2005.7.11

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 椿(つばき)という、何とも風雅な名前は、その終点の地名から来ている。

 椿森林軌道は、男鹿半島の最高峰である本山(標高715m)の南山腹より端を発し、御前落としの悲恋伝説が残る館山崎に近い椿漁港に下る路線である。

 林鉄ファンのバイブル『全国森林鉄道(JTBキャンブックス刊)』の巻末資料にその名が記載されているものの、男鹿市史には関連する記載がない。
また、どの時代の地形図にも記載されてはおらず、永らく、どこをどう通っていたのか謎のままの路線だった。
私も、現在その一部が自転車道になるなど、そこそこの知名度がある男鹿林鉄(明治42年竣工・全長9km)の異称だとばかり考えていたのだが(どういうわけか、『全国森林鉄道』には男鹿林鉄の記載がないこともあって)、ぶっつけ本番の現地調査によって、このほど、椿林鉄が男鹿林鉄とは全く異なる、男鹿半島第二の森林鉄道であったことが判明した。

 あなたはここで、また新しい森林鉄道の車窓を知る。
さらに…、
観光のメッカ男鹿半島に隠された、いまだ知られざる景勝地が…。



 海から始まる森林軌道 
地図で確認 2005.3.24 9:16

1−1 初っぱなから苦戦


 2005年4月20日午前7時30分。
この日の男鹿半島は、曇天。
雲は前方の半島最高峰本山(海抜715m)の頂よりも遙かに高く、雨は遠いとの判断から出発したが、西よりの海風が強く、午後からは雨との予報も出ていた。
 自宅からJR男鹿線で直に輪行すれば、おおよそ40分で、半島の玄関口である船川港まで来ることが出来る。 ゆえに、軽い気持ちでこの日の椿林鉄現地調査に赴いたのだった。
 船川港から椿漁港までは、半島の南岸唯一の交通路である主要地方道男鹿半島線を、おおよそ10km。
沿道の景色は、男鹿市街から石油コンビナートの重工業地、遠浅の鵜崎海岸(写真)を経て、浜に連なる漁村へと目まぐるしく変わっていく。
風さえなければ、サイクリングにも好適だ。



 7時30分過ぎには、予定通り椿漁港に到着。

 このあたりから、海岸線には女性的と評される白い岩肌が目立つようになる。
もう3kmも県道を直進すれば、ナマハゲが積んだ石段で有名な五社堂のある門前より先、一挙に地形は険しくなり、海のアルプスとも言われる大桟橋(だいさんきょう)の大絶壁が延々と戸賀湾まで連なっている。

 椿林鉄の終点は、この椿漁港にある。
県内でも、或いは全国でも珍しい、他の鉄道網と接しないばかりか、海運へ直接繋がる林鉄だったようだ。
立派な埠頭のある椿は、半島の他の港と共に、古くは風待港として栄えた場所であり、写真にも写る「館山崎」には有力な豪族が居を構えていた。
 県道は、この小さな半島をトンネルであっけなく貫通しているが、その途中のどこを見ても、林鉄に繋がるようなものを見つけることは出来ない。



 それものそはず、椿林鉄はトンネルが潜っている半島の上にあった。
しかし、そこで最初の難関が訪れた。

 椿漁港と、県道を挟んで山側にあるのが、船川港椿の集落だ。
そして、その集落の背後は小高い丘になって、そのまま半島の天井たる男鹿三山の斜面に繋がっている。
集落と丘の間は、垂直に近い極めて急な斜面となっており、すなわち海岸段丘の地形を示している。
 林鉄跡がおそらく丘の上にあると分かっても、なかなかその登り口が見つけられず、いかにも漁村らしい狭い小径を右往左往してしまった。
しばし彷徨した後、写真の小径に狙いを付け、いざ、チャリごと侵入開始。


1−2 丘へ上る古道


 集落は県道から殆ど奥行きが無く、数軒の民家の裏には、もう急な林が迫っている。
適当な場所から見晴らしを求めると、民家の屋根越しに見える、海岸段丘の姿(写真右)。
その一部は、コンクリートで完全に固められているほどに、急な斜面なのである。
果たして、この上に本当に林鉄などあるのか?
そもそも、どうやって登ったらいいのか??
林鉄は、どうやって登っていたというのだろう???

はてなマークが、たくさん。

 うわー! これかーー!!

などと叫ぶといかにもそれっぽいが、実は違う。
林鉄跡ではあり得ない。
写真では分かりにくいが、これ、物凄い上り坂だ。
チャリに乗ったままでは漕げないほどのその勾配は、30%オーバー。
この道はどうやら、林鉄とは無関係で、単に段丘の上に行くためのものらしい。

 覆い被さる笹林の間を、喘ぎつつ登る。
この勾配なら、さしたる距離はないはずだ。



 案の定、すぐに段丘の平たい部分が見えてきた。
この急坂、万一インクラインと言う可能性も考えながら観察したが、グネグネとカーブしていることから、否定された。
他方、ただの歩道だったというわけでもなく、この道の地下には、ガス管が埋設されているようだ。
この写真のような古びたコンクリート製の標柱が、10m置きくらいに点々と立てられている。
かなり年季が入っており、刻印された男鹿市の市章と共に、まるで古道の道しるべのような味わいがある。
少し調べてみると、男鹿市企業局によって椿にガス管が埋設されたのは、昭和42年と言う。


 「秋田の伐木運材」という本に、「男鹿経営区山城沢国有林軌道椿貯木場附近」として、インクラインが存在したことが記録されている。
そこには昭和5年の開設と記載されており、「全国森林鉄道」巻末資料による椿森林軌道の竣工年に一致する。
また、複線式で、インクライン部分の延長は80m。勾配はかねがね26%前後であったとのこと。

 どうやら、この場所にも規模の大きなインクラインが存在したようだ。
残念ながら、未だ場所の特定には至っていないが…。
2005/7/13追記 もっきり様提供情報より


1−3 丘の上には


 この景色の展開が、意外性というスパイスで、旅を格段に美味なるものにするのだ。

 上り詰めると、そこは一転、開放感のある広場になっていた。
その一部分は耕作されているが、大概は堅く締まった荒れ地である。
写真は、館山崎突端に繋がる方向を向いて撮影したのだが、三方が海になっているので、当然林鉄跡もこの先には通じていようが無い。

 この場所の広場が、かつては林鉄によって伐り出された木材の集積地だったのではないだろうか?
その木材を集落や海港まで下ろすためにどのような手段が用いられていたのかは、現時点では判明していない。
この高台には、一切車道は通じていないのだ。
索道を利用していたとも想像できる。


 広場から林鉄跡を想像しながら、その起点目指して男鹿三山の山中目指して緩やかな登攀を開始する。
まるで私は、これから材木を積みに山へ登る空荷のトロッコになった気持ちで、チャリを漕いで林鉄跡らしい、よく締まった道を東進する。
館山崎から東に向かう道はこれ一つだけであり、まず間違いなく、ここを林鉄が通っていたはず。

 それは、今までに見たことがない場所を通っている。
そこは稜線そのものではないか。
稜線が、平らに均され、そこに玉砂利が僅かに埋まっている。
轍が全くないことから、車道とは考えられないし、余りにも平坦なことから、自然の稜線に造られた歩道ではない。
状況証拠的にも、これぞ、椿林鉄の一風景なのだ。

 私はいっぺんに、惚れてしまった。




 当然この軌道跡からは、右を見ても左を見ても、海が見える。

 晴れた日の、原色そのままの青も好きだが、
こと北国の海に関して言えば、鼠色の冬の海や、
淡いピンク色の、夕立の時の色。
そういうのがまた、堪らないのだ。

 この日の海は、空と同じ鼠色。
これから入山する身としては、不安を感じずにはいられない。
だが、まったく未知の林鉄跡を眼前にして、私の気合いは高ぶるばかり。


 狭い稜線を抜けると、再び大地は広がりを持つ。
そして、行く手には緩やかに高さを増していく、男鹿三山が海に降ろした稜線の一つが見えている。
林鉄は、一路これより入山を開始する。
 思うに、海から始まる林鉄というのも珍しいのだが、沢に沿うわけでもなく、単独で山に登っていく路線というのもまた、珍しい。
荒れ果てた休耕地の隙間を、一直線に林鉄跡の快適な草地が続いている。
まるで、チャリの私を誘うかのように、気持ちの良い道ではないか。


 果たして、男鹿の山中にいかなる車窓が待ち受けているというのだろう。

以下、次回。








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