廃線レポート 和賀仙人計画 その4
2004.6.8



 山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、廃水廊から脱出するも、現在地不詳の状況にあり。


陽の元へ
2004.5.30 9:05


 地上である。
未知なる地中を進むこと25分余り、遂に脱出に成功した。
流石に嬉しい。
生還の喜びと安堵が全身を包む。
まだ背後の暗闇に二人の仲間が残っているというのに。

無論、彼らを忘れたわけではなかった。
私は、ここが何処なのかという手がかりさえつかめたら、すぐにでも彼らの元へと戻ろう。
今は「和賀計画」という踏破作戦の途上である。
この探索は脱線以外のなのものでもないのだ。


 大急ぎ辺りの様子を覗う。
なにか、この地点が何処かを知る手がかりはないか。
しかし、地中ではどの方角へと進んでいたかも曖昧で、私が脱出したコンクリートドームの脇に一つの小屋が廃態を晒すのみで、場所の手かがりは薄い。
辺りに人家や、人の気配もない。
どうやら、和賀川の支沢のどれかの、林道の終点のようだ。
これまでに見たことはない景色だ。


 ドームと廃屋の前には、車数台が停められるだけの広場になっており、その片隅には原型を失った石像が祀られていた。
狐か? カエルか?
しかし、注連縄や、お供え物の酒はそう古くないように見える。

少なくとも、水廊内部よりは最近に人が通った形跡がある。



 二棟ある廃屋のうち、一つはドームに付属するプレハブで、もう一棟はその管理小屋らしい。
廃屋と思っていたが、鍵も掛かっており、内部にも荒れはない。
埃が相当に積もっているようではあるが、まだ使えそうだ。



 ふと、玄関の足元にある袋を見ると、ジョージアオリジナルやファンタグレープ(これらが廃墟・廃道の定番ドリンクである)じゃない、つい最近までローソンの店頭にもあったようなジュース類が多数捨ててある。
とはいえ、これらは小屋の住人が捨てたものとも限らない。
釣り人などが、立ち寄った際に捨てたのかも。
いずれにしても、現在小屋は使われていないが、ここまで人の往来は続いているらしい事が分かる。


 野外に向けられた大きな豆電球は、夜間も作業をしたことを意味するのか。
ドーム上の一部にはプレハブ小屋が乗っけられている。
どこから入るのかは分からないが、時間もなく、詳しくは調べなかった。
写真に写る手すりは、脇に流れる沢に設けられた堰に取り付けられたもので、ここを渡って対岸に歩道のような小道も続いていたが、これはより上流に向かう方向で、進んでは見なかった。

やはり、くじ氏に断って、目の前の林道らしき道を少し進んでみないことには、ここがどこかの手がかりが得られそうもない。


 0906、
ドームから這いだしてきた穴に戻る。
まるで通路のようには見えないが、これがドーム内部へ続く唯一の穴なのである。
この穴のむこうは、すぐに垂直の梯である。

体をドームの中へと入れて見下ろすと、くじ氏が登っていていた。
「おおっ、来たのか!」

まさか、彼が高度恐怖症だとはこのとき思いもしなかった。
良く来たものである。




 既に初夏の熱さを帯び始めた外気は、殊更気持ちが良いというものでもなかったが、それでも得体の知れない暗闇の元よりかは安らぐ。

いやいや、安らいでいる場合ではない。
この遙か地中には、まだパタリン氏が独りで残っているはずだ。
なんか、流石に心配になってきた。
子供じゃなし、まして歴戦のパタ氏であるから大丈夫とは思うが、そろそろ彼の洞内滞在時間は30分を経過している。しかも、独りになってからが長い。

くじ氏に、林道を次のカーブまでだけ行ってみて引き返そうと告げた。
我々は、走って林道を進んだ。
一つカーブを曲がると、先に橋が見えた。
それは、何処にでもあるような橋ではなく、特徴的なコンクリートアーチ橋である。

これは、大きな大きなヒントだった。
というか、これを見た瞬間には、私の中でほぼ一カ所に絞られた。


 パタ氏ごめん!
我々はなお走っていた。
あの橋まで行けば、まず確信できるはずだと踏んだのだ。
我々は、橋目指し100mほどを走った。
間もなく、ロープで林道が閉じられていた。


 0910、

緑の中にまるで廃橋のように佇むアーチ橋は、紛れもなく旧国道の「当楽橋」だ。
ここまでは、時期は違えど来たことがある。
以前、国道107号線の旧道巡りをしていた際、湯田ダムサイトのすぐ下流にて、現道の当楽橋(S44竣工)の線形に不自然さを感じた私が、林道を分け入って発見したのである。
間違いなく、これはその時に見た当楽橋だ。
つまりは、この場所は湯田ダムサイトの南東900mほどの地点。

我々は、地中を直線距離でも1100m程を移動し、当楽沢に設けられた水路の地上口へと脱出したことになる。
そうか…、そんなに移動していたのか…、そりゃ、長いわけだ。


 今年一月の当楽橋の様子。
廃橋ではなく、今は林道に供されている。
この林道は、ここで対岸に進み、当楽沢を10km近く遡行しているように、手持ちの地図では描かれている。



 我々の脱出したドームへは、橋を渡らずに、袂で分岐する林道を真っ直ぐ沢右岸に進み、200mで着く。
ここから国道までは、あと300mだ。

さて、水廊の位置が大体判明したことで、長い脱線であったものの、それは一応の決着を見た。(水廊はさらにダム方向へ続いてはいたが…)

くじさん!引き返そー!
パタさん!待っててけれー!!
いまもどるどー!!

 帰りももちろん走ってドームへ戻り、慣れた様子で梯を下り、底の穴へ飛び込むように降り、間違いなく来た方向へと、水廊を行く。
本当に急いでいたので写真もないのだが、9時25分頃、洞内でパタリン氏に遭遇。

驚くべき事に、彼は地底人となっていた!
訳はなくて、相当に叱られることを覚悟していたが、なんかマッタリと私たちを迎えたのである。
人間が出来ていると素直に感心したのを覚えているが、それにしても、パタリン氏は真っ暗の水路で、足を水に浸しながら46分間も何を考え、何をして過ごしていたのだろうか…。

パタさん、怒って良いのですよ…。
ごめんなさいね。
私たち、やんちゃです。
ごめんなさい。






 ここまでレポを進めてきた中で、はじめは全く無知であった私だが、ありがたい情報提供を賜った。
それは、水路式の発電所の構成についての基礎知識である。
この類の発電所は、水の流れる通路を基準にして、次のような基本パターンがあるという。

取水口→水圧管路→サージタンク→圧力水路→水車→排水口

なるほど、大体分かる気がするが、「サージタンク」と言うのが初耳である。
多くの皆様も、初めて聞くという方が多いのではないだろうか?
実は、このサージタンクこそが、我々が「竪穴廃墟」と恐れた、石垣上の廃墟だったのだ。
このサージタンクというのは、情報提供者の言葉を借りれば、発電機(水車)の緊急停止等の際に流水遮断によって生じる管内の圧力上昇を逃がす為のオーバーフローであるという。
と同時に、一時的な水量不足にならない為の予備タンク的な目的もあるとのこと。

なるほど、納得である。 (“ ちば ”さん、情報ありがとうございました!)
当楽にあったものも、ドーム状の構造を見れば、やはりサージタンクであったのだろう。

上図は、我々が探索した一連の平和街道筋と、水路遺構等、関連するものを地図上にプロットものだ。
一度整理する意味でも、是非ご覧頂きたい。
脱線の多いレポートであるから。



全員集合で、発電所跡へ。
9:36

 0936、
全員揃って水路の入り口へ戻った。
照明は置いていたリュックへ仕舞い、そのリュックを背負ってここを離れる。
我々が辿るべき平和街道の道筋は、不鮮明ながらもこの廃墟のすぐしたに、確かにあった。
パタ氏が言うとおり、我々が段々の石垣に目を奪われた地点も、ほんと目と鼻の先にあった。

我々は、今度はもう一段下、つまりは和賀川の水面に最も近い場所にある遺構へと足を伸ばすことにした。
そこには、先ほどからチラチラと、その一部が森の影に見えてはいるのだが、廃墟がある。
くじ氏が、本計画の偵察行動時にも発見している廃墟である。
当初はそれだけの情報であったが、今ならば近づかなくとも、発電所の跡なのではないかという予感は、ほぼ確信的にあった。
ここまで、地下水路(=水圧管路)と、その水路が急激に高度を下げる部分(=圧力水路)を見てきたのだ。

各廃墟を繋ぐ斜面には、コンクリートと金属で造られた階段や手すりが拵えられていた。
意外に歩きやすい。
見た目は樹海だが。



 街道筋も突っ切って降りると、そこには目指す廃墟に繋がる広大な平地があった。
広大と言っても、小さな小学校のグラウンド程度だろうが、今まで起伏の激しい場所を延々と歩いてきただけに、広々と感じる。
その山側には、鮮やかな石垣が見上げれば空まで続く。
そそり立つ石垣はほぼ垂直で、その途中に、街道や、我々が驚いた石垣の段々がある。
その石垣の頂点には、竪穴廃墟(=サージタンク)があるのだ。
この高低差、実に100mはある。
高低差に因る位置エネルギーの差を電力に変換するのがこの類の水力発電ではあるが、昭和初期の遺構にこれだけ大規模な土木工事の跡を見ようとは。



 川の音がする方に行くと、すぐ傍を和賀川が流れていた。
そこには、巨大な石の重りと朽ちた木の柱が二つ。
明らかに、吊り橋の構成部である。
だが、水面上にあるべき橋は見えない。

近づく。


 幾本ものワイヤーが、散らばっている。
かつては束ねられ、一つとなり橋を支えていたものか。
支えるべき橋も消え、所在なさ気に夏草に底を這うワイヤー。

もう一歩出る。



 正確には、橋はまだ一部その形を残していた。
だいぶ歪になりながらも、二条のワイヤーは対岸に繋がっており、そこからは、足場であったはずの材木の幾つかが、無惨にぶら下がったままになっている。
橋としてはもう完全に死んでいるが、ここに吊り橋があったことは、誰の目にも明らかだ。
対岸も樹海のようであるが、日本重化学の敷地の裏手のあたりに繋がっている。
おそらくは、この吊り橋が発電所と、その最大の消費者であった重化学、或いは、もう今は無いが、仙人精錬所などとを結ぶ最短の道だっただろう。
この発電所に車で来られるような道や橋は、元より無かった様である。
橋がこの有様では、ここを訪れるものがないのも頷ける。
我々とて、この吊り橋には打つ手がない。





 いまは盛大に木々が茂る森も、かつて発電所の敷地だった。
そこには、周りの木の幹よりも細い、瀟洒な西洋風の街灯が佇んでいた。
ここは、建設当時、一帯で最もモダンな場所だったのかも知れない。
日本の各地で、古い発電所にはこの様な西洋的なデザインが取り入れられている。
ともすれば、この廃墟も、昭和よりもさらに古い建設だったのかとも思えてくる。



 そんな街灯も、もはや近づかねば立木と区別が付かない。
それほど、森は成長してしまった。

廃墟に接近していく。
それは、近づけば近づくほど、巨大であった。

初代:和賀川発電所跡
9:42


 地上2階建ての巨大な建造物が、強烈な存在感を感じさせる異様なムードの中に立ち尽くしている。
人界の近くでありながら、二方を河に、残る二方を崖に囲まれ、訪れる者はない。
廃止後は本当に誰も来なかったのではないかと思われるほどに、廃墟は樹海の一部となっている。
それでいて、この胸を押さえつけてくるような圧迫感は、かつて大勢がここで働き、いくつもの想いを紡いだ残照故か。

慣れない廃墟の空気に、完全に考える力を奪われていた。(←一応言い訳です。ずっと後の伏線です。)




 ガラスが窓に残り、鉄の扉が入り口に残る。
梯が、階段が、手すりが、いまだ残る。

特に、写真上部に写る二階の入り口。
その奥に見える鮮やかな闇が、我々を誘ったのか。
水路内からしっかりと持ち出していた巨大コンクリート鍾乳石を手頃な場所に置いて付近を見回していた私の頭上から、もの凄い爆音が響いた。

銃声?!

そういえば、いつの間にやら二人の姿がない。

…。
何か、起きている?!




 爆音に続き、割れた窓から蜂の巣を突いたように飛び出していく数匹のコウモリ。
間髪入れず、内部から人の笑い声!


先ほど私が気になった二階の入り口から、パタリン氏とくじ氏の姿。

爆竹かよ。
驚かせやがって…。
お陰で、平常心が失われちまったぜ…(また言い訳。伏線なんです…。)



というか、廃墟ビギナーな私を置いて、みんなもう入ってるし。
みんなも廃墟ビギナーな筈なのに… 当初、私は中に入ることまで考えてなかったぞ。
仕方がないなー。(←笑顔で)
あんまり乗り気はしないが、またまた脱線かぁ?(←嬉しそう)



次回は、発電所遺構探険です。

BGMは、「ダンジョンのテーマ」でお願いします。


  ザッザッザッザッ…





その5へ

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