廃線レポート 和賀仙人計画 その9
2004.6.17



 山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、和賀軽便鉄道跡を追跡中。

和賀仙人鉱山跡を通過。

これから紹介する区間は、極めて荒廃が進んでおり、一挙手一投足を誤れば即重大事故に繋がります。
絶対に不用意には近づかないで下さい。


橋梁連続部
2004.5.30 12:43


 和賀仙人鉱山の赤茶けたガレ場急斜面を攻略した我々の足には、既にかなりの疲労感が蓄積していた。
ここまで、既に半日近く廃道や廃墟を探索し続けている。

ガレ場を過ぎると、断崖はますます和賀川にせり出してくる。
この先が、国道からもよく見ることが出来る、絶壁の軌道跡となる。
いよいよ、私が計画した和賀計画、最難の区間の登場と思われた。



 私は、視界を得るために岩場に半身登って撮影している。
足元の緑の部分が、僅かに残された軌道敷きである。
軌道の下も、目の前の岩場同様、ほぼ垂直に和賀川に落ち込んでいる。
密度の濃い藪を掻き分けて、且つ足元に細心の注意を払いながら、私、くじ氏、パタ氏の並びで一列に進む。

この先、もはや写真撮りのために危険を冒している余裕はなくなり、分かりづらい写真が続くが、とにかく難所であるとご理解頂きたい。
一歩間違えば、確実に肉団子になる。


 先の岩場を突破すると、一旦森に入る。
しかし、その地形の険しさは殆ど変わらず、むしろ、足元に張りだした根への躓きや、枯葉に沈んだ浮き石、滑りやすい土の斜面など、危険度は上だ。
そのことを、実感を伴って思い知りながら進むと、石垣が現れた。

一つめの橋梁の跡である。
斜面に刻まれた沢を渡る橋は立派な石垣の橋台を両岸に残したまま忽然と姿を消している。
ここは、木の根を手がかりにして、へつるように突破した。
両腕に命が預けられた時の、あの独特の感触、恐怖に違いはないが、何処か危険な悦楽を孕んでいる…。

まだこれは、地獄の入り口に過ぎなかった。




 来た!


 我々は、眼前に広がる景色に、完全に言葉を失う。

対岸から見ることが出来る景色や、私の大荒沢隧道攻略、くじ氏のプレリサーチなどで、この様な光景が出現することは、頭では分かっていた。
しかし、実際にそれが目の前に現れ、しかも、この場所に対する我々の目的が 「突破」 の2文字であるとき、そこに感じた戦慄は、完全に命の駆け引きを覚悟させた。

ま、まずい。

ここは…、

ここは人の来る場所じゃあない。


しかし、我々は諦めることをしなかった。
むしろ、ここまでの非日常体験が、この場面において各人の平静心を保たせた。
冷静に、崖沿いを迂回するコースが選定され、一人ずつ行動を開始するのであった。



 頭上200mの岩の壁から絶えず崩落し、巨大なガレ場を更新し続ける谷間。
我々は、ここを極めて慎重に横断した。
特に、写真奥に写る一筋の瓦礫の粒の小さい茶色の斜面。
あそこが最大の恐怖の対象であった。

活崩壊面の特徴だ。
まさしく、死の行路「松の木」の再来を予感させた。
救われたのは、チャリがないこと。
四肢のフル活用によって、ここを突破する我々であった。

12:50、2号橋梁跡突破。


 右の写真は、冬季に見た1号2号橋梁の姿である。
国道107号線からもよく見える部分で、左が1号、右が2号だ。



 もはや、軌道跡は断崖に刻まれた一筋の足場に過ぎなくなっていた。
かつてはここに、762mmの幅を持つレールが敷かれ、客車も連結させた軽便鉄道が往来していた。
それがもう4半世紀も昔のことであるとしても、俄には信じられない。

とにかく緊張感を途切れさられない場面が続く。
つねに、『エックス・ゾーン』である。


 そして、再び現れた石垣。
3号橋梁跡だ。
当然のように、橋桁は存在しない。
ここは、谷の部分が森となっており、木々を伝い急斜面を突破した。




 橋を越えても岩場は続く。
対岸には、1月の大荒沢隧道探索時に私が上り下りした断崖が目立って見える。
よくぞあんな場所を上り下りしたものと、我ながら驚いてしまった。
ヘタをしたら、1月で山行がの歴史は終わっていたと思う。

だが、いま再び山行が終了のピンチである。
眼前の断崖は険しさを増すばかり。
一度のミスも赦されぬ展開が続く。
しかし、そろそろ中間点である大荒沢隧道も近いはずだ。
もう少しの辛抱と、互いに奮い合い進む。


 崖と軌道敷きの隙間に埋め込まれた鉄のアンカー。
錆びきっておりかなり古いものと想像された。
現役当時、ここに何かを固定していたのか。
かなり頑丈に食い込んでおり触れても動かなかった。


 ほぼ連続して4号橋梁が出現した。
写真は、これを崖沿いに迂回している場面だ。
後方に続くパタ氏の姿。
私とパタ氏の間にいるくじ氏は、木に隠れて見えない。
現地の険しさが、お分かり頂けるだろうか。

私とくじ氏は別々にだが、かつて大荒沢隧道まで崖を登ってきたことがある。
その時の記憶と照合して、
「これを越えれば隧道ではないか?」
「いや、橋台の形が少し違う気がする。」
などと、大声で声を出し合った。
興奮度は全員マックス!
命のやりとりの熱狂に、恐怖というスリルに、酔っていた。
誰かが落ちて死ぬ事は、イメージできなかった。
だが、山行が断章の瞬間は、確かにそこにあったはずだ。


 パタ氏叫ぶ!

「ヨッキ! 手ェ伸ばせ!」


この4号橋梁は、これまででは最も困難な崖であった。
野猿のごとく断崖を往来する我々。
この写真も、決してヤラセではない。
表情をお見せできないことが残念だが、各自の決死の表情、記録者として仲間も忘れ撮影に没頭する私の、生の姿。

余りにも生々しく、それらが一枚に収まった。

今回で一番お気に入りの一枚となった。

 


 そしてすぐに5号橋梁跡が来た。
全ての橋台に使用されている石垣は、石と石の間にコンクリが注入されたもので、当時最高の強度を誇ったものであろう。
そのお陰で、橋台だけがいまも健在である。
崖の踏み跡同士を繋ぐ橋桁のない橋台の連続。
まるで、未成線のような景色だが、20年程度の僅かな期間、確かに列車は通っていた。
木製だった部分は全て落ち、余りの崖の急さ故谷底に原形を留めることもなく、和賀川によって海へと運ばれたのだろう。
そこにあった橋達の姿は、想像する以外にないのが現状だ。



 5号橋梁の、我々が来た方向の橋台。
そこにはまだ、橋台と橋桁を連結していた部分の丸太が一本だけ残っていた。
石垣に設けられた穴に丸太は差し込まれていた。

想像していた以上のエックスゾーンの連続が、体に堪える。
いったい、幾つの橋が連続しているのか…。
限界は遠くない。


 その橋を越えても、まだ見覚えのある景色は現れなかった。
橋を越えてすぐの場所に大荒沢の坑口があるはずなのだ。
法面の石垣はコンクリ補強が無く、森の一部となっている。
軌道敷き自体が、平坦部のない断崖にあって植生の楽園となっているのかも知れない。
所狭しと、木々が根や枝を張っている。
必然的に、突破には時間と体力を消耗する。


 おそらく6つめだと思う。
一際深い谷を渡る橋の跡。
そして、ここには見覚えがある。
夏と冬とでは、まったく景観は異なるものの、一度強烈に記憶に刻まれた地形自体は忘れようもないのだ。

…この石の次は、あの石に、左足を乗せて…

そんな記憶が、現場を見てよみがえってくる。
あの時も必死だったが、今回3人で来たとはいえ、一人ひとりが何ら楽を出来るものではない。
今度も、必死だ。


 13:13、 6号橋梁突破。
 


 深い切れ込みを見せる6号橋梁湯田側橋台。
ここにも、穴に突き刺さった丸太辺が残っていた。
和賀川の水量は意外にも少なく、あのときのように渡渉して国道へ戻ることも、最悪は可能だろうと思われた。
しかし、われわれの目的は隧道を超えてのダムまで全線踏破以外にない。

これで、やっと道半ばといったことろ…。
想像通り、鬼のような道である。

大荒沢隧道口
11:14

 案の定、橋台のすぐ傍に穴が口をあけていた。
隧道らしさのまるでない、自然洞窟さながらの坑門。
その前に立つと冷気が肌に感じられ、25度の外気の中では心地よい。

初めてここへ立ったときには、単独だったこともあり、何ともおぞましい恐怖の穴にしか見えなかった。
しかし、今度は全く異なる印象を持つ。


 天然のクーラーを背に寛ぐ我々。
ここで久々の大休憩と相成った。

こんな隧道ですら、一度通り抜けた場所と言うだけで、安心のスポットと感じられた。
我々はここでひとしきり歓談し、ここまでの苦労と、互いの生存を祝福しあった。

我々の認識では、ここまでが最難所。
この先は、比較的穏やかな森の道だろうという理解であった。

それが誤りであったこと。
そして、既知なはずの隧道にて遭遇する驚愕の新事実。

和賀計画は、何処へ向かっていくのか。





対岸の国道107号線から見た現地の様子。
図中の文字の「T」は隧道を、「B」は橋梁を示す。













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