万世大路 残された謎 「高平隧道と大桁隧道」 後編

公開日 2007.07.02
探索日 2007.05.28

消えた明治の隧道

 旧 山神橋


 それが貫いていた山ごとに消滅してしまった高平隧道の、その灰色の跡地を後にして、さらに古くマイナーな存在である大桁隧道の跡地へと向かう。

実はこの大桁隧道については、以前から万世大路に関しての入門書とも言える『栗子峠にみる道づくりの歴史』などの記述により、その存在したことは知っていたのだが、実際にそれがどこにあったのかと言うことについては、かなり広い範囲の何処か(高平隧道から二ツ小屋隧道までの間)と言うことしか分からないでいた。
そんなことで、何箇所かの擬定地と言える場所が自分の中で存在していたのだが、今回手にした『福島県直轄国道改修史』によって、ほぼここだと特定することが出来たのでお伝えするものである。



 前回のレポの続きである。
高平隧道跡から少し戻り、かつての万世大路をなぞるようにしてこの分岐を左折する。
図中で「↑山神橋」と書かれた風に進む。
すると、幅の広い砂利敷きの下り坂となる。
採石場内の道として整備された様子だ。



 そこから300mほど進むうちに、右に現道へ戻る道一本と分かれ、肝心の万世大路の方は、いかにも尻すぼといった感じで藪道になる。
そこには釣り人のものと思われる車が一台駐まっており、これ以上は車で進めないことが分かる。
徒歩に切り替えて進むことにする。



 間もなく福島県で整備した巨大な砂防ダムが左手に現れる。
堰き止められているのは小川という川で、名前の割に大きな川である。
釣り人はこの辺りから河原に下りるようだが、一見藪が酷く、そのような道は見あたらない。

万世大路の方はさらに真っ直ぐ続いている。



 こんなかんじに(笑)


まあ、藪道である。
が、頭上を現役と思しき電線が通じており、これが小川沿いの上流へと続く唯一の電線である。
電線は現道へと付け替えられることもなく、その架設当時に現役だった道をなぞっているわけだ。
こういう光景は、全国至る所の旧・廃道で見られる。
少し大袈裟だが、山間部の電線を見たらそこに旧・廃道・古道の類在りと考えてもいいくらいだと思う。

なお、かつて万世大路の宿場として明治期に名の知られた大滝宿もいまは廃村となっており、既にこの上流に集落はない。



 一面の笹藪となった幅5m前後の道跡。
その中央に踏み跡が一条あるが、梅雨に濡れた笹によって下半身をぐっしょり濡らされることは避けがたい。



 ガードレールやカーブミラーもそのままに残されている。
支柱に張られた「福島県」のシールが、この道の出自を伝えている。
藪なれど、かつては幹線であった。



 電柱と、踏み跡と、いくらかの道路構造物に誘われるようにして、その藪の先へと進んでいく。
両脇は急斜面で、特に未普請である山側法面は、手を触れるだけで崩せるくらいに風化している。
既に道幅の半分近くは土砂に埋もれている箇所もある。
採石場以来ずっと緩やかに下ってきた道は、水音のない小川の河原へと近づいてきた。
これより間もなく、万世大路はこの小川を渡る橋となる。
前方頭上には、巨大な赤いアーチ橋が現れた。言うまでもなく現道である。



 そのまま行けば現道の下を潜りそうだが、その手前でこの旧道にも橋が来る。
しかし、いまこの橋を渡っているのは、ビニルに被覆された一本の電線だけである。
遠くから見ると、まるで樹海に立ち尽くすかのような数本の橋脚は、哀れ、無用の長物と成りはてている。
対岸を目指して、等間隔に3本の寸胴形の橋脚が並んでいる。
水面から立ち上がる高さは10mほどだが、万世大路の中でも規模の大きな橋であった。



 おそらく昭和初期の改築に合わせ掛け替えられたのであろうが、この橋についての資料は少ない。

明治の最初の橋については、「延長二十四間、幅員三間半 板橋」(長さ43.2m、幅6.3m)との記録が残されており、周囲を見るにこの同じ場所に架かっていたようだ。
橋の名前は山神橋という。周囲に祠でもあったのであろうか。



 親柱は対岸を含め四本とも全て現存しているが、損壊著しく、しかも銘板は全て喪失している。
かつて欄干が立っていた位置にも、既に立派な木が生えていた。

ここから対岸へ進むことは困難なので、現道の山神橋を回り込んで反対側へ進むことにする。
大桁隧道跡地も遠くない。



 大桁隧道は ここにあった!


 戻りがてら、先ほどは素通りした砂防ダムへ立ち寄る。
この巨大な堤体の上からならば、新旧の橋の競演が見られるのではないかと期待したからだ。




 堤体の突端辺りまで進むと、案の定、素晴らしい見晴らしが得られた。

季節が季節だけに、旧道の痕跡は一本の橋脚しか見えないが、画像にカーソルを合わせて貰えれば、草木の陰の旧道跡をラインで表示する。
このように、山神橋を渡った旧道は現在の山神橋の下を潜ってから、小川の右岸の斜面を伝って上っていく形である。
そしてこの500mほど先では、新旧道はほぼ同じ高さで合流することとなる。





 そしてこれが現道の山神橋である。
橋長106.6m、昭和38年竣工の堂々たる近代的アーチ橋で、栗子ハイウェイに12橋架けられた橋の中でも、県境に架かる板谷大橋に次いで巨大な構造物である。

なお、この橋の福島側袂にあるラーメン屋の敷地内に、高平山神社の小さな社が奉られており、おそらく旧山神橋の附近から遷宮されてきたのだろう。



 二枚上の写真とは逆の構図。
山神橋の上から、旧道及び旧山神橋を見下ろしている。
旧道は左奥から下ってきて、旧橋で右岸に渡り、一面の緑の底を通って右手前に消えていく。

この景色の続きは、橋の反対側の欄干からよく見える。

※橋の上に歩道はなく、大型車が頻繁に、大風と揺れを伴って通過するので、歩行には気をつけてください。



 これが上流方向の景色。
右下に僅かに小川の水面が見えているが、それとは別に平らな部分が帯状に続いているのが分かる。
そこが、旧道の路面である。
ちょうど旧道は、藤の花の連なりに一致する形で、奥の方へと消えていく。

そして、ずうっと遠くに巨大なクレーンが見えているが、いまこの谷を舞台にして、次の世代の万世大路とも言うべき、東北中央自動車道の建設工事が進められている。
まだ眼下の旧道は無事であるが、この少し先からは、旧道が工事用道路として使われており、数年前まではまるっきりの廃道であった部分が、幅広の砂利道として復活しているのである。

それはさておき、既に大桁隧道の跡地は見えている。
次に、上の写真の一部分を拡大してみる。



 これである。

この場所が、明治の万世大路に5本あったという隧道のなかでも、最も早くにその姿を消し、いまだ現役当時の写真などの発見されていない大桁隧道の跡地。その切り通しである。

これからこの場所へ向かうが、どうしても工事用道路に踏み込まざるを得ない。




 中野第一トンネルと第二トンネルの間に工事用道路に入る分かれ道があるので、そこから進入し、終点まで進む。
辺りは巨大な橋脚を幾つも建てている最中で、もはや万世大路の面影はない。
目を覆わんばかりの蹂躙であるが、往年の万世大路が工事用とはいえ、そして短期間ではあるが復活している。


 上の写真の広場をもって工事用道路は終わる。
その先には、本来の荒廃した旧道が見えている。
大桁隧道の跡地というのは、このすぐ先にある。

進んでみよう。






 ほいきた。

100mも行かぬうちに、非常に目立つ切り通しが現れる。
以前よりこの場所を訪れたほぼ全員が、「深い切り通し」として写真に納めてきた、印象的な場所である。
だが、実際にこの場所はただならぬ場所だったのである。
なにせ、100年前には万世大路の一隧に数えられ、明治天皇の御通輦の栄光にも浴した、由緒正しき隧道があったのだから。

 私も、最初に来たときから「もしかして」とは思っていたのだが、ここが謎多き大桁隧道の跡地だと確信を得たのは、本レポで何度も紹介している『福島県直轄国道改修史』のp.111、「中野新道雑記」という記事を読んでからであった。



 切り立ってはいるが、既に風雨によって角を取られ、ノッペリした印象になった両崖。
昭和8〜11年の大規模改修時にも拡幅を受けたことは間違いないが、それ以前から既に開削されていたらしく、実際に隧道として存続した時期がどれほどあったのかは分からない。
ともかく、この隧道の在りし日の状況について唯一述べている「中野新道雑記」から該当部分を抜き出してみよう。



大桁隧道ハ延長拾六間幅三間高サ二間是所ノ路線初メ只山路ヲ斫開スルニ止リ會テ隧道ヲ造ルノ意無シ然ルニ到底隧ヲ造ルニ非ンハ新道ヲ開通スル能ハス故ニ意ニ隧ヲ穿チ洞門ヲ剏ル

 栗子隧道から福島市街地の万世大路起点までを、道に沿って順に紹介している同記事によって、山神橋の直前に隧道が存在したことが判明したのだ。

 大桁隧道は、明治10年12月7日、万世大路の福島側である「中野新道」の一部として、請負工事にて着工。そして、翌1月には早々と開通している。全長は16間、すなわち28.8mほどだった。

写真は、掘り割りを通り抜け、福島側から振り返って撮影。
ちょうどこの隧道を出たところが小川に面して直角にカーブしており、たとえ隧道でなかったとしても、かなり視界不良の場所であったろう。



 そしてなぜか、この掘り割りの福島側に、幣が三本ほど奉られている。
雨ざらしになりながらも、なお原形を留めているところを見ると、最近に置かれたものなのだろうか。
以前はその存在に気付かなかったが、或いは東北中央道の工事関係者が、数名の犠牲者を出したという明治の中野新道工事の霊を鎮めるため(山神橋でも溺死者が出ている)、奉ったものか。

大桁隧道跡の報告をこれで終える。



 なお、この大桁隧道跡から旧山神橋の袂までも紹介しておく。

隧道跡を過ぎて直角カーブにて進路を南に振った旧道は、下り坂のまま山神橋の直下を潜る。
なお、掘り割りとなった隧道跡を含め、電線が旧道を丁寧になぞっている。



 まるでご神木のような杉だが、注連縄のかわりに、膨大な量の古タイヤが周囲を取り囲んでいる。
あまりにも酷い。


 隧道跡から100m少々、流水によって穿鑿され荒れた路面を下っていくと、湿地のようになった平場に行き着く。
前方に視界がひらけ、ここが旧山神橋の米沢側袂である。
道はここで途切れる。
親柱もたしか現存していたと思うが、今回は夏草に覆われ容易に確認できない。




 同地点からの眺め。

この山神橋の両隣には、高平と大桁という由緒ある隧道が存在していた。

だが、いずれもいまは跡形もなくなっている。






 次回もまた、万世大路にまつわる秘密を大暴露?!