日原古道探索計画 第3回

公開日 2007.2.20
探索日 2007.1.16
東京都西多摩郡奥多摩町

雄々しき古道

 危険な作業林道!


 14:20

 まだ2時過ぎなのに、早くも暖かさを失っていく冬の太陽。
たった一本のチェーンで塞がれた作業路へ入ると、そこは車が通れるだけの幅がある。
路肩にはコンクリートで固められた石垣があり、ただの作業道にしては大げさな気がする。
やはり、古道なのだと思った。
鉱山にも関係しているかもしれない。
地形図に神社や対岸への橋が描かれている氷川鉱山までは、地図読みで1.8kmほどである。
この距離なら、道がちゃんとしているならすぐに着けるだろう。
北岸谷底の都道に対し、南岸山上の古道の距離的な優位を感じる。




 すっ、すげー…

私は、作業道へ入って100mも行かないうちに、もうこの道がただの作業道ではあり得ないと確信した。
道はちょうど日原川の河谷の傾斜が急から緩へ切り替わるラインをなぞっており、道よりも上には点々と造林地があった。 故に造林作業道として使われてきたのだろう。
しかし、路肩をのぞき込めば、そこは足の長い石垣である。そして谷底。
まるで林鉄のようだ。



 作業道に入ってからも登りは続いているが、その勾配は緩くなった。
木々の切れ間から対岸の都道が見えた。
今日だけで既に一往復した都道には何となく愛着を感じたが、それがとても小さく見えた。
とても高いところまで自分が登ってきているのだと知る。
地図は言う。この道は谷底からぴったり150mの高さの山腹を通っていると。


  

 道幅は狭く、この写真の場所はこれでも広い方だ。
待避所のような場所はここまで一カ所もない!
入り口のチェーンさえ無ければ乗用車でも入って来られるが、殆ど誰も来ていないらしく路面には落ち葉が溜まっている。
落ち葉には瓦礫が多く混じっており、私はそれを知らず踏んでパンクしないように細心の注意を払った。
こういう道はパンクしやすい。



 こんな道だが、地下には水道管が埋設されているようだ。
コンクリートで固められた路面には「制水弁」や「空気弁」と書かれた蓋が顔を出していた。



 相変わらず斜面の傾斜は厳しく、道は両側が岩場である。
そのまま痩せた杉林に入った。伐採するのももちろんだが、手入れも大変だろうに。
しかし、この林の存在が、日原みちを生きながらえさせて来たのかもしれない。
こうしてチャリに跨ったまま進めたことは、時間的に大変大きな意義があった。




 うわっ。 ここは狭いぞ!!

その道幅は2mを割り込んでいるに違いない。
路肩には一応石垣があるが、自分がもし車で来たなら発狂しそうだ。
進むにつれ、路面の状態も徐々に悪化しつつある。
果たしてどこまで行けるのか、不安が出てきた。
もう太陽は傾きすぎ、その日差しも届かなくなった。




 伝説再び!!


 うっわ

   これは…

陰鬱な雰囲気の杉林は500mほどで終わりを告げた。
再び寒々とした断崖の雑木林に現れ出た道は、その先に、なにか劇的な光景を予感させた。






 これはー!

 一応自動車規格の道だが、絶対にここは駄目だな。
チャリだって怖い。
このレポを見て、バイクで行ったら楽しそうだと思う人もいるだろうが、確かに楽しいとは思うけど。くれぐれもハンドル捌きに集中してほしい。
落ち葉が溜まった路面には、遊び石がごろごろしている。

 怖いもの見たさは、私を路肩へ誘った…。



























日原って、日本のチベットだったんだな…





 水ではなく岩塊が流れ落ちる急傾斜の谷を、道は、暗渠にすることもロックシェッドを造ることもせず、直で突破している。
当然その中央部は堆積した土砂でこんもりと盛り上がっているが、そこを乗り越えるように4輪の轍が存在している。
この道を車で突破したヤツは、神…?

 写真は振り返って撮影。
カーブの外側に申し訳程度に駒止が設置されている…。
ケチケチするなよ……。



 ここはめっちゃ楽しいが、同時にすぎる…





 近づく終末


 14:32 現在地点

 まだようやく半分なのに道はどうなっちまうのかと思ったが、まもなく平穏を取り戻した。
さっきまでの景色が嘘だったみたいだ。

 そして、ここには久々の(はじめて?)待避スペースが。
さらに、カーブの外側には黄色い鉄柱が立っており、見ると「東京電力」云々と書いてある。
近くには高圧鉄塔が見えた。
なるほど合点。造林作業道は電力会社のメンテナンスにも使われているようだ。
彼らがあの命知らずな轍の主かは、分からないが…。



 この広場がちょうど尾根の上にあり、ここで道は進行方向を変える。
また、長く続いた登りもここで終わって、これからはやや下り基調となる。
日原川の、キャニオンとでも呼びたくなるような巨大な谷はずっと続いている。
その先で、落ちかけの陽を独り占めにして輝いているのは、氷川鉱山の巨大な採石山だ。
目指すトボウ岩は、その向かい側にある。
いよいよ目的地が見えてきたと言えるが、あの途轍もない岩場の存在は、ここからでは微塵も伺えない。
本当に私は近づいているのか?
直前にもあんな険しい岩場を超えてきたのに、何か現実感が無い。

 私には、あの景色がまだ信じられない…。




 遂にここで轍は完全に消えた。大量の瓦礫が路上に散乱している。

 別の季節に来たならば、また印象は異なっていたかもしれないが、とにかく荒涼としている。
それが、私の感想。
この日で最も標高の高いところ(約570m)まで来ているせいもあるのだろう。
吹き付ける風が痛い。
関東に来て、こんな冷たい風を浴びたのは初めてだ。

 怖くなって来た。



 古道と一括りに言っても、日原を目指した道には幾代もの歴史がある。
現在の左岸にある都道は6代目と言って良いが、初代から3代までの道は人が荷を背負ってようやく通れるような道であったそうだ。
初代は現在地点のあたりから谷底を経由して対岸へ渡り、倉沢という尾根上の集落を経て日原へ至ったと言うが、倉沢日原間のルートは知られていない。おそらく現在の採石山に飲み込まれたのだろう。
2代目はやはり現在地のあたりから、初代とは逆の左手の尾根に登り、そのまま尾根沿いでトボウ岩を超えたと伝わる。
3代目は江戸時代末の文化年間に初めてトボウ岩に挑んだらしい…。(きっとあの道だ…)
4代目は大正4年、トボウ岩に幅1.8mの道を新たに開削したそうだが、おそらく今走っているこの道の原型だろう。
5代目は昭和6年、4代目の道に繋がるトボウ岩よりも日原側に、幅1.8mの新道を開いたという。
そして、これによって氷川から日原まで初めて手押荷車が入れるようになり、歩荷の時代は終わった。さらに昭和10年には荷積牛車が通れるように改良されたそうだ。
自動車の導入は昭和27年の都道開通を待たねばならなかったが、今私の目の前にある石垣などは、昭和10年の改良によるものと思われる。

 ちなみに、この道は大正15年まで西多摩郡道に指定されていたが、郡制が廃止されるとそのまま「府道242号日原氷川線」となり、後に現称の「都道204号 日原鍾乳洞線」へと改められた経緯がある。
これまで「日原古道」などと曖昧に呼称してきたが、この道の正式な名前は 「東京府道242号 日原氷川線」 と呼ぶべきものである。


 さらに進むと、再び鉄塔が現れた。
辺りは刈り払われており、対岸の山々が一望の下にあった。
向かいの尾根の上に廃村となった倉沢集落はあって、室町時代創建というお堂が伝わっていたそうだ。
日原への道も、はじめはそこを通っていた。
明治期の地形図には、この谷底を渡って倉沢へ向かう道が描かれてるものの、橋があった痕跡は見つかっていない。




 倉沢橋がよく見えた。
いよいよ、氷川鉱山が近い。

 そして、 トボウ岩…。

本当に近づいているのだろうか…。



 二度目の鉄塔から一気に下り坂が始まった。
驚いたことに、その路面には雪が積もっている。
今日一日快晴だったのに。

 それにしても、この下りは精神的にキツイ。
最近はあまりそういうこともなかったが、昔はよく行き止まりの林道に突っ込んでは、さんざん下って涙したものだ…。
特に、こんな午後には嫌な思い出が多い…。




 いかにも崩れやすそうな斜面の上に、コンクリート造りの小さな廃屋が見えた。
不可解なことに、そこへ行く道は全く見あたらない。
時間が押していたのでスルーしたが、鉱山に関係する廃墟か。
もう、地図上の神社記号まで500mを切っている。
どこに廃坑がぽっかり口を開けていてもおかしくないエリアに入っている。





 下り坂が続く。
路面は落ち葉と瓦礫の山で、時々尖ったものがタイヤで弾かれ冷や冷やする。
しかし、この下りでちんたらしている余裕はない。
進めるところは速やかに進むべきなのだ、今は。



 地獄の釜の底へ下っている、そういえば大げさだが、私の心持ちはそれに近かった。
下れば下るほど帰還は遠くなる。
前方に明るい一角が見えてきたときには、少しほっとした。

 そう。
氷川鉱山との再会の時が、来た。







 ガガガガガガガ

  ゴガンゴガンゴガン…

石灰石を砕くプラントの、尽未来続くような唸りが、峡谷の宏大な空間を震わせている。


作業道となった古道を経て、私は氷川鉱山の入り口へと辿り着いた。

現在地は、ここだ。



 遂に、これまで決して見ることの出来なかった旧都道の目視に成功した。

 あの奥はこんな風になっていたのだ。
これでは、我々部外者を入れられないわけだ…。
旧都道の上にも下にも、巨大鉱山を構成する様々なプラントが点在していた。
一目見て廃墟だと分かるようなものも少なくない。
上書きに上書きを重ねられた、傷だらけの地表。

 トボウ岩は、その名の由来である「戸口」の通り、かつては日原谷の両側に迫っていたようだ。
だが、戦前に始まった難工事を完遂し旧都道が初めてその北壁に道を穿つと、間もなくここに根付いた氷川鉱山が、全山石灰石だった北壁を徐々に切り崩していったようだ。
そもそも、もしトボウ岩が南岸だけにしかなかったのなら、敢えて2〜5代の道が南岸を選んだ理由が分からない。
このことから考えても、北岸のトボウは南岸以上に険しいものだったのかもしれない。

 谷を覆い尽くす機械音の正体は、写真下部にある石灰石のホッパーだ。粉塵が凄い。
おそらくその辺には曳鉄線の終着地、積み込み駅があるのだろう。

 一方、写真に★を入れた部分にも、頻繁に発着するトロッコが見えた。
氷川鉱山には廃止された上部軌道が存在したという話も聞くが、その一部が稼働しているのか?
その周期的な動きを見ていると、それはエンドレス軌道(曳鉄)のようである。











 遂に、来ちゃった…!?