第二次 日原古道探索計画 第5回

公開日 2007.3. 15
探索日 2007.1.23
東京都西多摩郡奥多摩町

クライマックスへの序曲

現れた廃車道


2007/1/23 13:03 

 樽沢の深く抉られた谷に橋は失われ、やむなく谷底へ降りて徒渉し対岸の岩崖をよじ登る。
写真は滝壺(樽沢f2)を振り返って撮影。
どうにか足を濡らさずに渡りたいと水面を見つめるトリ氏が写っている。
この後、彼女は自力で崖をよじ登って来た。


 崖の上に立つと、そこには杉の林の中へ静かに続く車道の痕跡が現れた。
今度こそ、とぼう岩への直通パス、第5期日原古道に間違いない!



 日原古道探索はいよいよクライマックスへ…
 いま最後の登りが始まる!




 辺りは木深い杉の林である。
川沿いを下流へ進んでいくにもかかわらず、道は急激に登り始めた。

 樽沢から200mほど進んだ地点。
まだ杉の林は続いているが、道の上部は雑木林へ開けた。
いよいよ植林も難しい急斜面が現れ始めたのだ。

 道はここに来て、突如幅広となった。
林鉄跡で何度も見たような光景(交換所)だが、ここにあったのは車道。
かつて「東京府道日原氷川線」という名で、日原の聯路であった。
もっとも、車道とは言っても私の調べた限り、牛や馬が牽く荷馬車が往来の最大級のものであったようで、自動車道とはなり得なかったようだ。

 ちなみに、先週対岸から見えた石垣の道はこのあたりだろう。


 道から川原を見下ろすと、光が溢れるように見えた。
ちょうどこの辺りの川原は広く平らになっており、そこに積もった今朝方の雪に、冬の日差しが反射して輝いているのであった。
もう既に、水面からの高低差は30m以上にも達している。
だが、まだまだ登る。



 更に進むと、巨大な岩の塔が道の隣にそそり立っていた。(写真右)

 その岩場の根元には2段の石垣が築かれていた。
一切モルタルの類を用いず、素で岩石を組み上げただけの石垣。
それが2段にまで高く組み上げられている様子からは、必死さの様なものが伝わってくる。
 大正時代には既に郡道を経て府道に指定されていたこの道だが、戦前まで具体的に府や都からの補助金が出ている形跡はない。
それは道の管理ばかりでなく、普請自体までを地元の私力に依っていた事を意味する。

 苔生した石垣の一つ一つは、日原の人々が少しでも安寧な暮らしを得たいと願った、その結晶のように見える。



 遂に植林地は途絶え、本来の雑木林となる。
夏場はこうはいかないだろうが、葉を落とした枝の向こうに旧都道の勇姿を幾らでも見ることが出来る。
ちょうど旧都道の中で最も険しく、私を感激させた、“伝説の百メートル”が手に取るように見えるのだ。

 写真左は私が"フランケンシュタイン"と評した一角。
道は、垂れ下がるガードレールの上端の、やや右肩上がりのラインである。
こうやって対岸から見渡すと、その異様な姿はより鮮明となる。

 写真右は、いよいよ旧都道断章の地が近い最後の区間のあたり。
想像していた以上にもの凄い高さで、今更ながら驚く。

 対岸の旧都道の景色が、前回の探索の順に展開していく。
そしてその終わりも見えてきた。
すなわちそれは、此岸の道の“アノ場面”への接近を意味していた。







 見えた! とぼう岩だ!!

 正直、私は恐ろしくなってきた。
一週間前に見たアノ景色は、今度は対岸のものではない。
足もとに続くこの道の行く手なのだ。 …おそらく。

 前回は一目惚れだった。
しかし、よくよく考えるまでもなく、それはあまりに危険な恋だったかも知れない。
命を賭してまで成就させようというだけの覚悟が、私にあるのだろうか。
少なくとも、前回私に見せたその横顔は、そういった覚悟を強いてきそうだった。

 認めたくはないが、心の何処かで前回の撤退に安堵した自分がいた。

 今ふたたび私はその膝元へやって来た。
たった一週間しか経っていない。前回と何かが変わったかと言われればNOだ。
ただ、反対側から来たと言うくらいのこと。道の恐ろしさに違いがあるはずがない。
(前回など、その核心には何一つ触れられず撤退したのだ…)

今はこの先、まだほんの少しの猶予があるが、このまま進めば遠からず…。
期待と不安が錯綜する私の後ろから、私の心中など何も知らないワクワク顔のトリ氏が近づいてくる。
今回は、私の背中を無邪気な手で押す者がいた。(迂闊だった!)



失われた府道


 13:19 現在地

 どんどん高ぶる私の心情をなだめるかのように、再び面白みのない雑木林が辺りを覆った。
だが、依然として上り坂は続いている。
これだけまとまった距離の登りは、ここまでの日原古道踏査では現れなかった。
“とぼう岩越え”は岩一つを超えるにあらず、立派な峠越えだったのだろう。



 小さな沢地を跨ぐ場所では、古い土石流の傷跡が見られた。
道を塞いだ瓦礫の山も長年放置された結果、もう地形の一部のような顔をしている。
こうやって廃道は地形の一部に消えていくのだろう。
樽沢から奥へ進むにつれ、路面を覆い尽くす瓦礫や倒木、そして路肩の崩壊による路盤の消失の頻度は増す一方だ。
最難所を前にして、果たしてそこまでたどり着けるかさえ不安である。



 それにしても、所々に広い場所がある。
というか、地形的に広げることが許されなかったと思われる場所以外では、それなりに幅の広い場所が少なくない。
これは未確認情報だが、この道をオート三輪が通行していたという話も、読者経由の古老証言としてもたらされている。
さもありなんと思わせるだけの道幅がある。もしこれで車の轍の一つでも見つけられれば大発見だが、流石にそれは成らなかった。
ともかく、チャリくらいなら今でも通れそうだ。が、ここまでどうやってくるかという問題はある。トリ氏と二人で、「ここまでチャリで来れたら神」「神は、“ネ”と“申”の方でしょ」などと下らぬ話をしていた。



 樽沢を渡って2度目の杉林を突破。
今度こそ緑の樹海は晴れた。
そして、灰色の岩崖と茶色の朽ち葉を基調とした、冬本来の寒々しい景色となった。
元々は幅の広かっただろう道も、膨大な量の土砂によって自然に埋め立てられ、道全体が谷に向かって傾斜している。
これまでずっと沢沿いらしい方落ちの地形だったが、いよいよ山腹にたどり着いたのか、前方に幅の広い切り通しが見えて来ていた。

 まずはここが、とぼう岩接近への“第一の難所”であった。



 杉の林が終わったことで、これまでぶ厚い目隠しの向こうにちらちらと白っぽく見えていただけの対岸の風景が解禁された。

 そこには前回進入を断念した、石灰採掘場の巨大な露天掘りの現場が広がっていた。
既に、前回辿り着いた旧都道の終点よりも、ずっと“とぼう岩”寄りへ来ている!
それに、採掘場の地平よりも高い場所まで登っている!
谷底は見えないが、どう考えても50m以上は高い場所にいるはずだ。
或いは、ここはもう、とぼう岩の一角と言っても良いのではないのか?!

 急激に荒々しくなり始めた風景と、再び聞こえ始めたモーターの唸りによって、私は二重に緊張した。
今日はここまで、ただの一度も「奥多摩工業による立ち入り禁止」を侵してはいないので、ここにいること自体は不法ではないと信じたいが、危険だとして通報などされたらひとたまりもない…。出来るだけ、見つかりたくはない。



第一の難関である。

 ここは、日原川へ落ち込む鋭い枝谷を跨ぐ場面。
かつては、ここまで見てきた中で最大規模の大築堤によって谷を越えていたのであろう。
谷に散乱する大量の砕石の中には石垣の一部だったと思える物も多く、ここにあった構造物の壮大さを想起させる。
崩れ残った僅かな部分だけでもかなりの規模であるし、水抜き用と思われる横穴が設置されている辺り、芸が細かい。
残念ながら築堤の大部分は崩壊し、巨大な谷によって削り取られている。そして今なお崩壊が進んでいるようだ。
我々が見ている前でも、対岸の何処かから小さな破片が転げ落ち、カラカラと滑っていった。

 まずは、この谷を跨がねばならない。
転落してもそのまま日原川の谷底まで連れて行かれることはないが、落石や土砂崩れに遭遇する危険がある。
我々は一人ずつ、黙ったままここを越えた。



 深い谷を慎重に越えた。
そして正面に向き直った私を、間髪入れずに次なる難関が待ち受けていた!!

第二の難関。

前回、私に死への恐怖をリアルに実感させた“斜面の道
…一瞥して、それに匹敵するかも知れぬ危険度……。

おぞましい!!
いよいよ本番が始まったのか!




 振り返れば、今越えてきたばかりの谷。
こいつは…間違いなく始まってる!



 幸いにして、この斜面は見た目以上に難しいものではなかった。
土質が柔らかいお陰で、つま先を深く沈み込ませながら歩けば滑落の恐怖は少なかった。
トリ氏もここを無理なく突破。

 






 遂に来たかも!
この高度感。
路肩の向こうは千尋どころか万尋の谷!
我々はいよいよ“とぼう岩”にも負けない高度を手にしつつある。
既に対岸の採石場などは見下ろす高さとなった。
そして、辺りは木が生えているのが信じられないような急斜面!

 いよいよかも!
いよいよなのかも!!
この次のカーブを曲がれば、そこにいよいよなのかも!!!

 ここで、心の準備のため、最後の休憩をとった。
そして遅めの昼食も。
敢えてカーブの先を見に行かないまま。
究極の“じらしプレー”だった。



クライマックスへ


 13:40


再び歩き始める。

カーブの先は… 

真っ直ぐな登りがまだ続いていた。 


雄々しく峙立する檜の巨木。

道が出来るずっと前から根付いていたのだろう。

その大きなシルエットの向こうに立ちふさがる、屏風の如き岩肌。

それこそ、我々の目指す“とぼう岩”(一の通り巌山)に他ならない。



 これは、最後の登りだった。









 直線の先には、なおも登りながら緩い右カーブが待っていた。

じらしやがる!

辺りは水気に乏しい岩山となり、路傍の石垣も乾き気味。
そのせいか、余り経年を感じさせない。

 このカーブを曲がれば、今度こそ…
今度こそ、夢にまで見た“あの道”を捕らえられるだろうか。

大袈裟でなく、前回の撤退以来、私はずっと待っていた


そこへ立つ日が来ることを!







 来た。




 遂に見えてきた。



 やった?


いよいよ到着なのか。
夢にまで見た、とぼう岩のあの道に。


 どこも足場は悪かった。
一転びすれば一命に関わるというほど。
だが、我々の歩みは少しも遅くなるどころか、むしろ早足で次の景色を求め歩いた。

 二人とも、取り憑かれたように無口だった。








 とぼう岩を確認!

日原集落を出発してから、ちょうど3時間。午後1時47分。
とぼう岩をこれまでで最も間近に俯瞰する事に成功。

かつて、日原地区の戸口としての存在感を大いに発揮し、そのお陰で近年までの日原に留守宅で鍵を掛ける習慣が全く無かったという。
言うまでもなく、日原は部外者が誰一人たどり着けぬほどの、桃源郷であったという喩えだ。


 しかし・・・
ここで大問題が発生。
一番恐れていた事態だった・・・。


 ぶっちゃけ、こっから先に道がない。

先にあるのは、岩石が厚く積み重なったような急な斜面だけ。
ここまで難所続きながらも我々を誘導してきた道だったが、突如その姿を失ってしまった。





 折角ここまで来たというのに… 駄目なのか?

 結局日原みちの核心だけは、誰にも侵すことが出来ないのか。

 我々に赦された道は、他に無いのか?!









あまりに非情!

なにせ、ここからはもう見えていたのだ。

信じられないような道が、もうそこに見えていた。

道のない斜面の先に……

そこは、先週の私によって “死亡遊戯” と名付けられた、
絶壁の道跡。








山行が史上最も逝っちゃった場所にある石垣。

せめて歩けぬまでも、もう少し…


つま先の先っぽだけだっていい!


私は、自らの持てるオブ力の全てを注ぎ込み、目前の斜面に勝機を探った。

滑落は 即<サドンデス>死。

今度ばかりは、絶対の自信を持ってそう言えた。