道路レポート 旧旧雄勝峠
2005.3.12

 雄勝峠

丁(ひのと)山地と奥羽山脈とが接する地にある、最も低い鞍部に、その峠はある。
行政界としては、秋田県雄勝郡雄勝町と、山形県最上郡金山町を分かつ峠。

古くから、ここは国境だった。

 大和と、蝦夷の国境(これは諸説あるが)
 秋田藩と新庄藩
 羽前国と羽後国
  そして、
 秋田県と山形県

秋田県の南の玄関口であり、中央と秋田を繋ぐ、もっとも主要な峠である。
その地位は、今日も衰えるどころか、高速交通網の整備が嘱望されているさなかである。

ここで、雄勝峠の歴史を、少しだけ紐解いてみよう。

時代出  来  事峠を通る道の変遷
★印は、経路の変更を伴うもの
慶長年間
(1596〜1614)
開道 秋田藩主佐竹義宣による、雄勝峠開削事業。
このとき、羽州街道がそれまでの有屋峠から、雄勝峠に遷道された。
そして、峠を挟み院内と及位の宿場に、関所が置かれた。
当時は主に杉峠、もしくは院内峠と呼ばれた。
★羽州街道
明治9年国道認定 太政官布告によって、初めて「国道」の語が使われる。
このときに、それまでの羽州街道は、三等国道(東京から各県庁所在地とを繋ぐ路線)に指定され、
雄勝峠もこれに含まれた。


三等国道
明治11年イギリス人女性旅行家イザベラ・バードが、雄勝峠を越えて秋田入りした。
明治13年雄勝新道(旧旧道) 初代山形県令三島通庸による、雄勝新道開削事業
この新道で峠の位置は変わらなかったが、道中の勾配が改良され、来るべき自動車交通時代を見越した改築だった。
当初三島は、峠を隧道化する計画だったが、何らかの事情により、この計画は中止となっている。

★雄勝新道
<旧旧道>
明治19年国道の等級が廃止され、代わりに国道四十號(『東京ヨリ秋田縣ニ達スル路線』)及び四十一號(『東京ヨリ森縣ニ達スル別路線』)に指定された。
国道四十號・四十一號(重複)
明治37年鉄道奥羽本線が当地を雄勝隧道で貫通し、この年に新庄・院内間が開業した。
後の複線化のおり、もう一本平行して隧道が建設されている。
↓(鉄道)
大正9年道路法(旧)の公布により、本地の国道は国道五號に指定された。
国道五號
昭和27年道路法(現)の公布により、本地の国道は一級国道13号線に指定された。
その後、昭和39年の法改正で、一級二級の区分は廃止され、一般国道13号線に指定された。
さらにその後、一般国道344号線との重複区間にも指定されている。

一級国道13号線

一般国道13号線
昭和30年雄勝隧道(旧道) 鞍部を貫く雄勝隧道(延長235m)を含む、新道が建設された。
これにより、初めて冬期間の車両交通が可能となった。
この道については、以前にレポートしております。ご覧ください。

★雄勝隧道
<旧道>
昭和56年新雄勝トンネル(現道) 国道の2次改築として現在利用されている新雄勝トンネル(延長1375m)を含む新道が建設された。
これにより旧道は廃止され、旧隧道も封鎖された。

★新雄勝トンネル
<現道>
現在
(平成17年)
高速自動車国道「東北中央自動車道」の予定路線として、当地が計画されている。


 以上の通り、当地の道は、主に4代が数えられる。
そのうち、今回紹介しようと言うのが、2代目の道。
明治13年に完工した、明治新道。
あの、“山行が永遠のライバル”三島通庸の拓いた、道である。
そして、この峠は、初めて雄勝峠で車輌交通をゆるした道。

当然、アレで峠を越すのが、礼儀であろうと考えた…。


現在出版されている、一般的な街道のガイドブックには、杉峠などの名で紹介される、初代、もしくは2代目の雄勝峠。
しかし
 −−現在では藪化が進み、特に秋田県雄勝側の道は、判然としないほどになってしまっている−− 
という。

しかし、自動車も通った筈の道が、果たしてそこまで失われるだろうか?

その状況を、私がこの目で、この足で、確かめてきたので、ご覧頂きたい。

そこで訪れる、わが愛車最大の受難…。




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