東海道本線旧線 大崩海岸  中編

公開日 2008. 3. 3
探索日 2008. 2.25

黒い風穴 

旧石部(下り線)隧道 


 これまでその内部状況について極端に資料の少なかった旧石部隧道だが、このうち上り線隧道については、噂された“住人”に遭遇することもなく、無事に解明することが出来た。
結果は、坑口から僅か50mほどでの呆気ない「埋め戻し」というものだった。 

 こうなると、次のターゲットは海側にある下り線隧道ということになるが、崩壊の続く坑口前はそそり立つ絶壁となっており、すぐそこに入口は見えるのに入れないという、ナマゴロシチックな状況である。

 何とかしなくては…。




2008/2/25 12:19

 上り線坑口前から覗く下り線坑口の様子。

一見、ほとんど無傷の様に見える。
しかし実はこの姿、本来の坑門が10m近くも崩れて後退した末に残った、いわば隧道の断面なのである。

 こう書いても、事情を知らない人は「そんな訳があるか」と思うだろう。
確かに、崩壊の末に出来上がった隧道断面が、こんなに整然としているわけはない。
もっと、不整合な断面であって然るべきだ。

 もちろん、私もこれには不自然さを感じる。




 この写真は本からの引用だが、ほんの1〜2年前まではこんな状況だった。

現在残っている坑門は、奥に半分だけ見えている部分なのである。
手前に半分写る坑口が本来のもので、昭和23年のアイオン台風で半壊して後、長らくこんな異様な姿を晒していた。

 ちなみに、先ほど探索した上り線の隧道も、最近まではこんな風に全く良く原形を留めていた。



 これらの写真を見れば、現在の坑口が本来は単なる隧道の断面でしかなかったということを疑う余地はない。

現在までの調べでそれを裏付ける資料は出てきていないが、建設途中で設計の変更があって隧道が10mほど延長されたのかも知れないし(よくある坑口に洞門を延長するように)、或いは護岸の施工と隧道の施工を同時に行う上での技術的制約により、どうしてもこの位置に構造物の不連続面を作らざるを得なかったのかも知れない。

 どちらにしても、こんな“金太郎飴”のような隧道は初めて見るのである。

※これら2枚の写真の出典「鉄道廃線跡を歩く[」



 さて、この下り線隧道であるが、かつて人が住んでいた形跡がこちらにもある。
出入りの為に用意したらしいロープが残っていた。
だが、そのロープの基点となっている坑口の下端部も、垂直に近い土の斜面に埋もれていて、そこから上に登ることはどうしても無理だった。
しかも、周囲には平坦な場所が全くなく、踏み込むと途端に土埃が舞い上がるような、乾いた滑りやすい斜面ばかり。

 二度三度とずり落ちているうちに、私は左手中指の爪を少し割ってしまった。
オイオイ…。 本当にこれは中に入る術がないのか?

人はたった2mの高さでも、場合によってはどうにも出来ないと言うことを、痛感させられる展開だった。




 突破口となったのは、坑口前に残されていた煉瓦の破壊された壁だった。
この砕かれた煉瓦の壁に、つま先が乗る程度の段差があったのだ。
始め、土に隠れていて見えなかったが、丁寧に払いのけると、小さな水平面が現れてくれた。

ここに片足を乗せ、後はそこから隧道内部まで小跳躍。

まさに、隧道への片道切符だった。

隧道側からは、この足場を利用して降りることは出来ないだろう。
戻りは斜面へ飛び降りねばならないだろうが、それはまあ、可能だと判断した。






12:23

 堪らぬ愉悦ッ!!


オブローダーにとって、苦労を乗り越えて新たな道を手にした瞬間の快楽とは、生死を賭けた冒険の果てに広大な沃野を発見した、新大陸のパイオニアたちの悦びに一番近いと思う。



 …たとえ、

その新たな大地が未知の困難に‥‥‥覆われていようともだ。







 この数年で一気に崩壊が進んだ石部隧道両坑口。


隧道が、所詮は地中に埋められた筒にすぎないと言うことを感じさせる光景である。
このまま坑口の崩壊が止まなければ、やがては直上にある県道(旧国道)を脅かすことになる。
おそらく、そんな事態を県も黙って見過ごさないだろう。

遠くない将来、不安定な崩壊面の中心となっている両坑口は、我々にとって最も忌むべき最後を迎える可能性が高いように思う。
ここまで崩壊した坑口は、…一般的な感性ではもう文化財とも呼べないだろう。




 これは多分、既存の“本”にはない、新しい眺め。

 一連の旧線跡では、ここから旧磯浜隧道までの約400mが唯一の明かり区間であった。
しかし、波打ち際に作られていた長大な護岸壁は、もはや形を留めてはいない。
当然その上にあった、鉄道と自動車が共に通った路盤も消えている。
海岸線に散乱する膨大な量の石材に、名残を伝えるのみである。


 まさに、海蝕廃線の景だ。




 それでは、奥へと進んでみよう。

この闇の結末として考えられるのは、現在線の石部隧道との接続か、或いは閉塞。
もちろん前者であれば嬉しいが、スコップ一つ持たない私は、ただ現状を受け入れるのみとなる。

 それにしても、隣の隧道とは比べものにならないほどの、尋常でない量の物資が運び込まれていた。
傾いた木組みのテント跡が入口付近に二棟残っており、その奥は僅かな通路を残して山積みの物資に埋もれている。
とにかく尋常な量ではない。
一体、こんな崖下の不便な場所に、どうやってこれだけの荷物を運び込んだのか?
ある人間が、短くない月日をここで黙々と過ごしてきた、年輪のようなものを感じる。




 だが、案の定こちらの坑口は、住人からも放棄されて久しいようだ。
物資は蜘蛛の巣や土埃にまみれており、生々しい使用感の残るようなものは何もない。
ちなみに、悪臭のようなものは全く感じない。

 写真は、坑口から30mほど侵入したところ。
3棟目と思われるテントの跡があった。

 帰宅後、旧石部隧道の住人から聞き取りをしたという貴重な記録をネット上で見つけた。
興味のある人は、『春や昔のカメラ旅』というブログにアクセスしてみるといい。
記事によれば、ここに住んでいる人物は一人ではなかったようである。




 坑口から40mほどの地点にて、やや断面の大きな待避坑が右側(海側)に現れた。

そういえば、上り線の隧道は山側に待避坑があった。

…考えてみると、このような単線並列隧道へ足を踏み入れるのは、これが初めての経験である。
内部では、隣り合う隧道同士繋がっていたりするものなのだろうか?
思わぬ興味が湧いてきた。




 は?

…なんで明るいの?

 嬉しい新発見。

なんと、石部隧道(下り線)には、外へと通じる短い横坑が存在していた。

即座に、“右折”。




 横坑の全長は、おおよそ10m。

坑口からは既に40mほど来ているから、如何にこの隧道が海岸線に近い位置を通っているのかが分かる。
まして、並列で2本存在するのだから、これが原因で崖が崩れたりしないかと心配に思う。
この真上には県道の石部隧道があるわけで、なおさらだ。

 それはさておき、横坑は狭い。
特に、外へ通じる最後の数メートルは這い蹲ってようやく通れるほどだ。




 意外なタイミングで、外へ脱出!
やっぱり外気は気持ちいい。

それに、ここから出入りできるならば、あの崩れた坑口に頓着しないで済む。
正直、登ってきてはしまったものの、戻りに不安があった。



 あーー。


無理だ。

ここからは、残念ながら出入りできない。

コンクリートで格子状に作られた岩壁の途中から、ひょっと顔を出すような場所だった。
下はおろか、左右も上も、何処にも行けないのだった。
まあ、埋め戻されていなかっただけ、喜ぶべきだろう。

しかし、こんな横坑の存在はこれまで報告がなかったと思う。
外からも見えている筈だが、存在を意識していなければ気付き辛いのかも知れない。



 すぐに本坑へ戻ったが、この意外な発見には、テンションが上がった。

この調子で、さらなる新発見を期待したいところだ。



 少し進むと、今度は山側に待避坑が現れた。
この待避坑の奥には、おそらく数メートルの範囲内にもう一本の隧道があるはずだが、繋がってはいなかった。
ただし、なぜか奥の壁は地山のままになっているというのが、少し気になった。
将来的には接続も出来るような施工と言うことかも知れない。

 また、待避坑(鉄道用語ではマンホールというのが一般的なようだが)は、カーブ区間ではその外側に設けるのがセオリーだが、まだ鉄道黎明期だった当時はそのようなことも統一されていなかったのか、或いは別の事情によるものか、上り線下り線共両側に設けられていたようだ。



 あーーー。

盛り上がってきたー。


  …地面がーー。


   テンションは当然…down




 上り線よりは幾分長く続いているようだが、坑口から50mほどでやはり盛り土が現れた。
そして、あっという間に隧道の下半分は地中に消えてしまった。
写真は、待避坑の様子。
厚さ1.5mほどの土砂が積まれていることが分かる。

 不思議なのは、この積まれた土砂が岩石質(古い川砂利のバラストのようでもある)であることと、それらが全て隧道の内壁と一緒に、煤煙で真っ黒になっている点だ。
後者は、かつてここに住んでいた人間が洞内で火を焚いた事があったとすればそのせいかも知れないが…、上り線で隧道を閉塞させていた土砂とは明らかに質が違う。




 あーーー…

来たー。  風来たーー。

 隧道は結局、坑口から100mほどの地点で埋め戻されていた。
だが、上り線のあの全く面白みのない土壁とは違う空気に、この黒ずんだ閉塞壁は包まれていた。

写真からは、独特で濃厚な煤煙の臭いが鼻につきそうに見えるだろうが、現実のこの場所は、透き通った空気の道だった。
だから、終わりなのに悲壮な感じはしなかった。
むしろ、この隧道がまだ死んでないことを、初めて感じられる場所だった。
隧道の断面積が閉塞壁に近づいて狭まるにつれ、無感だった風が目立って激しくなったのだ。
それは、“生”を強く主張する空気の流れだった。

 これは繋がっている。 現役線と!




 一体どこにこれだけの風を通す隙間があるのだろうか。
結晶化した煤煙が、天井を漆黒のフラクタルで覆っている。
同様に黒いバラストが、完全に天井に接しているのだが、それでも風は確かに抜けていた。
埋め戻しのための土砂まで煤煙に汚れているのは、現在線の隧道から煙が漏れてきた証なのかも知れない。
ここを掘っていけば間違いなく現役線にぶつかるだろう。 だが掘ってはならない禁断の壁だ。

 風に頬を当てて隙間に身を捻る私の鼓膜に、ドンが来た ドンが!



…ド   ドドドドーーん…     …ボフアッ





 何も知らない列車が、この壁の向こうを駆け抜けたのだ。今この瞬間。

私は、何事かを成し遂げた満足感に、ひとり打ち震えた。
こんな結末こそが、最も一番夢があると思った。



 旧石部隧道と現在の石部隧道との位置関係は、右の図のように概念化される。
地図上からは分かりにくいことだが、共に単線並列の隧道であるから(正直、現石部隧道の内部も単線並列なのか、中では合流して複線断面なのかは分からないが(←情報求む))、その分岐部分は相当に複雑な隧道網となっている可能性がある。

 それはともかく、先に探索した上り線隧道は風も全く通さない閉塞状態であったのに対して、この下り線隧道は、風の通り抜けがあるばかりでなく、列車の通行音を聞くことも出来た。
ただしその音は大きなものではなく、すぐ側の地底を走っているようでもない。
新旧隧道の分岐部分が地上からどの程度の位置にあるのかも分からないが、それなりに隔絶されているのだろう。
ちなみに、旧石部隧道の全長は(上りか下りかは分からないが)910mであったという。
私が体験したのは、全体から見ればごく僅かだったわけだ。




12:32

 今回最大の目的であった、2本の旧石部隧道の内部解明を達成。

結果に満足し、風を背に歩き始めた。
やはり、坑口からの距離は100mほどのようだった。

また、歩いているときは気付かなかったが、隧道は山側に緩やかなカーブを描いているようだ。
これは、上り線とは反対のカーブであるかも知れない。(上り線は歩けた距離が短いので、カーブの形は良く分からなかったが)

 何者かの生活跡を再び通り抜け、坑口へ戻る。





 うわ…

やっぱ高けーなぁ… オイ


 だが、ここを飛んで降りるよりどうしょうもない。

私は、まるで月面のような不毛の斜面の一点に、狙いを定めてダイブした。

巨大なキノコ雲の土煙とともに(←それは大袈裟)、車に轢かれたアマガエルのように私は無事に(←おいおい)着地した。


 イヤーー… 後先考えないで登ると、やっぱりダメですねー。あはは…。