国道121号線 大峠道路及び大峠   その5 
公開日 2005.11.18



 続 超ひも理論的 大峠峠道
 2005.9.24

5−1 沼の原新集落跡 



 根小屋の通行止めゲートから、すでに7kmも登っていた。
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海抜も870mに達しており、東北地方の大半の峠であれば、すでに十分に越えられそうな登攀を果たした。
しかし、こと大峠について言えば、まだ道半ばといってよい。
筆者が福島側に認めた47のヘアピンのうち、ここまでに攻略したのは、半数にも満たない22。

 この先は、いよいよ1150mの高所にある峠を目指しての、スパートが始まるのである。

 その前に…、


 あなたは、ここに住むことを考えられますか?



11:14

 明治17年、三島県令は地元住民からの強引な労働力と資金の搾取の末、大峠福島側の難工事を完遂した。(ただし、山形側の完成は19年度)
当時の道は馬車がやっと通れるような難路ではあったが、それでも従来の檜原峠越えから米沢街道本道としての座を奪うなど、当時としてはまともな道だった。
しかし、現在のような速度性のある交通手段はなく、ほとんど全ての通行人が徒歩の速度でこの峠を越えることから、ある問題が生じた。
米沢と喜多方との間を結ぶ大峠の道であったが、それぞれ米沢側の最奥集落である入田沢と、喜多方側の根小屋との間には、30km近い無集落の道中が待ち受けていたのだ。

 徒歩での30km。しかも高低差700m近い峠越えだ。
幾ら当時の旅人が健脚の徒であったとしても、途中でひとたび具合でも悪くなろうものなら生きては帰れまい。
万一夜を迎えれば、それこそ極限の孤独と寒さが命を脅かしたに違いない。
そうでなくても、年の半分以上は雪があり、鳥獣が叫びを上げる、極めて危険な道中であった。



 特に距離の長かった福島側のちょうど5合目に位置する山中に、新しい集落が拓かれた。
自主的に入植した人間がいたのかは知からないが、ともかく、8戸が明治17年、この地に住み始めたのである。
彼らの暮らしぶりは想像に頼るほか無いが、はたして一年の半分を雪に覆われたこの隔絶たる山中で、人間が命を繋ぐ術があったのか、俄には信じられない。
わずか、8戸。

 いつしか、集落はさも当然のように消滅し、
現在、その跡地と思われる一帯には、杉の木々が広く植林され、道中でも特異な光景を形作っている。
それにしてもここは、地形図を見るとよく分かるのだが、まさに長い峠の道中にポッカリと存在する南向きの穏やかな斜面である。
道中に人が住まう場所を求めるとしたら、ここ以外には考えられなかったのだろう。



 路傍には、いつ棄てられたとも分からぬ真っ赤な廃車体が。

比較的近年まで、この周囲の草むらは畑として、集落こそ消えても耕作が続けられているのが目撃されている。
当時のこの廃車体の状況が分からないので何とも言えないが、同じ田舎に住む者の勘としては、この廃車体は農機を仕舞っておくための小屋代わりに使われていたものだと思う。
現在は、周囲の藪は年々高さを増し、逆に廃車体の方は毎冬の積雪で圧縮されているため、藪への埋没が進んでいる。

 最近車を持つようになった私は、丸裸になった車内にまだ動きそうなメーターの針を見て取ると、なんか胸が痛くなるのを感じた。
物に心なんて無いって分かっているし、だからこそ、いままで私はあらゆる物を使い捨てにしてきた。
でも、なんか車という「プライベートな生活空間」の愛おしさを知った私は、廃車体を見るのが、忍びないようになった。


 おそらく、集落が消失したのは、昭和の車道化改良工事の頃ではないだろうか。
自動車交通にとっては、峠の途中の“お助け小屋”や“峠の茶屋”といったものは、アクセサリーでしかない。
敢えて、斯様な極限の地に住まう積極的理由はなくなったはずだ。
集落の名前は、「沼の原」と伝わっているが、確かにこの少し上の山中には小さな芦沼がある。関係がありそうだ。
また、地形図には今でも付近に神社の(だけが)描かれており、それだけが唯一、人の暮らしがあったことを偲ばせる。
写真の分岐は、右が国道で、左は鉄塔へ続く作業道のようだが、おそらくこのあたりに神社は存在する。



 福島側で、ただ一箇所だけ下りに転じるのが、この田付川を最後に渡るこの地点である。
このような水際を走る場所は、山形側には多いが、福島側では道中のほとんどが山腹の九十九折れで要されているため、少ない。
喜多方市街からずっと寄り添ってきた田付川ともここでお別れとなるが、最終的に国道は、その源流よりも高い位置まで登っていくことになる。

 路面は舗装されているが、流水によって土砂が流入しており、ご覧のような有様である。
ここを渡ると、もう峠まで登り休みはない。
 

 

5−2 第3群 


11:22

 暗渠で田付川を渡るとすぐに九十九折りが始まる。第3群である。
ここは、約2km間に10のヘアピンカーブがいずれも九十九折りで挿入されており、高低差は120mに及ぶ。
密度という点では、道中で最も密なヘアピンカーブ群である。
特に、前半の26〜30番のカーブは50メートルと置かず気違いじみた180度ターンが、圧倒的な勾配のままに続いており、ほんの十数年前まで米沢と会津を結ぶ主要な国道であったとは、信じがたい状況にある。
また、地形の急峻さ故、現役当時から崩壊が多かった区間でもあり、旧道化した跡も連綿と補修されてきた痕跡を留める。
その手も、現在は離れているようだが。

 写真は、そのはじまりである24番のヘアピンカーブ。



 25〜30番までのヘアピンカーブである。
通行していると、もの凄い頻度でカーブが現れることを実感できるが、序盤の九十九折りのように視界は晴れていないので、それぞれのカーブはスタンドアロンの存在に見える。
この先は、全て鬱蒼としたブナの森の中を登っていくことになる。
道幅は4.5m〜6mほどだ。

11:28

 一段落付くと、S字カーブを交えてやや直線的に登る。
しかし、その先は再び九十九折りが待っている。

 なお、この大峠については、全線を通して走るにはチャリが適していると以前から言われている。
山形側が自動車では通過できず、バイクについてもまず通過できない(例外もあるが…)と考えて間違いないからだが、果たしてチャリで峠を越える…とまでは行かなくても、峠に立つのがどのくらい辛いのか、気になっている読者さんもおいでだろう。
「伝説の」大峠隧道を見たいと考える人も少なくないはずだ。
それに、この九十九折れの峠道は、日本の峠道の一つの象徴的かつ極限的な姿と言っても言い過ぎではなく、多くのオブローダーに知ってもらいたいという気さえする。
また、出来ることなら、自分の足で位置エネルギーを稼ぐチャリや徒歩で登ってこそ、実感も湧くという意義もあろう。
でも、海抜1150mの峠をチャリで登るというのは、普段街乗り程度にしかチャリを使っていない方には、想像が付かないこともあるだろう。

 

 しかし、少なくとも福島側については、地図上で見るほどおぞましい登りではない。
決して楽な道ではない。
麓から登りが20kmも続くわけで、人並みの体力が要求されることは言うまでもないし、当然あまり暑かったり、残雪のある時期については、私の実感と大きく異なる苦難を強いられることも考えられよう。
しかし、以前は国道として大型車が通っていただけはあり、勾配も一定の程度に納まっており、カーブが多いために、適度に休憩を取ることも出来る。
それに、私の場合は図らずも、全てのヘアピンで停車して写真を撮る事をしたので、同じように取材探索というスタイルを取れば、時間さえかければ意外に息を切らすことなく峠に立てるように思う。
ただ、多段変速つきのチャリは絶対条件だし、安易に峠の山形側には行かないことを強くオススメしたいが。


 第3群の10のヘアピンを抜けると、第4群がすぐに迫っている。
3群と4群は分けて考えるべきではないかも知れない。
間には、これまでよりもスパンの大きな九十九折りが一つ挟まっているだけなので。

 その34番のヘアピンについては、だいぶ前から一つ上の段がチラチラと林間頭上に見えている。
そして、いよいよ近づいてくると、写真のような崩壊地に遭遇する。
これは、上段の路肩が崩れ、土砂と一緒に路面を襲った結果だ。
それでもどっこい、道には新しい轍がある。



 現役当時、走り屋だって近づかなかったという大峠九十九折れ。
もっぱら、快走したい向きには檜原峠を挟んで10km東方の、当時はまだ有料道路だった「白布スカイバレー」こと、白布(しらぶ)峠(海抜1410m)が、標高こそ高いものの2車線を確保した観光道路として好まれた。
この印象は、一般のドライバーについても同様だったらしく、昭和48年にスカイバレーが開通して以来、この大峠の通行量は減少したという記録が残っている。

檜原峠を廃止に追いやった三島の大峠も、白布峠によって一度は主役から降ろされたが、大峠道路開通で返り咲いたというわけだ。


 路肩2m近くが消失し、白線の敷かれたアスファルトごと崖下に散乱している。
残ったのは、ガードロープのみだ。
このまま放置されれば、おそらく数年後には4輪車の通れるスペースは無くなるはずだ。



5−3 第4群 最終登り


11:41

 福島側ゲートより9kmの登りに耐え、現在の海抜はちょうど1000m。
東北地方には、国道で1000mを越える峠は数少なく、北東北3県に至っては、ただ一箇所、十和田湖北岸の御鼻部山の他に存在しない。
いよいよ、この重厚長大な大峠にも、限界が見えてきた。
挑戦者を登らせ続けるという事に関する、限界だ。
最後に現れるのが、この第4群となるヘアピンカーブ群であり、延長2.7km、高低差150m、ヘアピンカーブ数は魔数13で、特に前半が斜面に噛みつくような険しい九十九折りである。




 35番は、ヘアピンと呼ぶにはやや弱いが、この道では珍しい橋に掛かるカーブとなっている。
また、南から西にかけての眺望に優れ、田付川筋を見渡すことができる…ようだが、やはりこの日はガスが濃く、遠くまでは見えなかった。
この天気でこの標高に来て、雨に当たっていないだけ幸運だったのかも知れない。



 私は、ヘアピンカーブの数を数えながら登っていたのだが、このあたりで実際の数とはずれが出始めていた。
余りにも、似たような景色のカーブが多く、デジャブに陥ったのだ。
 写真は、一段上のガードレールのさらに上に、小さくもう一段上の路肩も見えている。
こんな景色がしばらく続く。
右! 左! 右! と、まるでシャドウボクシングのようである。



 36,37,38番のカーブは、いずれも瓜二つ。
ヘアピンカーブの写真を撮るのにも、いい加減飽きてきた。




 ごめん。もうどこがどのカーブかよくわかんないや(笑)

とにかく、延々と続きます。
似たようなカーブが、延々。
面白いかと問われれば、はっきり言って、つまらん。

しかし、峠を越えたいという欲求に対し、これほどストレートに応えてくれる道は、他にない。
もの凄く素直な道である。

 写真は、森の向こうに見えるこの先の道2段分。


 


 いつしか、国道は霧の森に入っていた。

透き通った空気のなかに、霧の小さな粒子が流れてるのが見えた。
マイナスイオンが対流し、呼吸するだけで癒される世界だ。
なんて気持ちのよい道なのか、またも私はハッとさせられた。

 この道の存在している意義を考えてみた。
もはや、通り抜けの叶わぬ行き止まりの峠道である。
一見、まるっきり無駄な存在のようだ。
しかし、人にかけがえのない憩いと癒しを与えてくれる緑の原生林。
そこへ通じる、ただ一つの、道なのである。価値がないとは、言えないはずだ。

 確かに、この美しい森に車道が通る、そしてそこを車が通ることは、環境にいい訳がない。
しかし、折角、先人達が人生を掛けて作り上げ、維持してきた道である。
いまも、新たに森は切りひらかれ、口当たりのよい「いこいの森」が全国に生み出され続けている。
それよりかは、長い年月をかけ、道と調和してきたこの森を、利用する方がはるかに優しいだろうと思う。

 容易いことなのだ、この、必要の無くなった道を、このまま放棄し、自然に還すと言うことは。

あらゆる美辞麗句を持ってしても、この森のオーラは表現のしようがない。
そんな、命を洗ってくれる森を、人の手の届く場所に置いておきたいと思うのは贅沢なのだろうか。
道と森との調和の景色が、これからも続いていくことを、願わずにはおけない。
大峠に、人と車の通った証を消すことは、人の財産を失う事ではないのか。

これが、エゴイズムなのは、分かっているのだが…。

 この道を、手放したくはない。

  それほどに、美しい。



 まるで栓を抜いた風呂釜の水が須く栓に吸い込まれていくかのように、いよいよ稜線のただ一つの風穴めがけ狙いを定めた道は、九十九折りを繰り返しつつも、確実にある一点に近づいていく。

ところで、
三島は、頭の中にこの道が閃いたとき、部下にはどんな線を地図上に描いて見せたのだろうか?

 彼の頭の中には、猛烈な数の九十九折りを設けなければならないと言うことが、計算されていたのだろうか?
もしそうだとしたら、実際にこれだけの九十九折りを設計したのは、三島だったのか? そのお抱えの設計士だったのか?
もし、ここまでの作業が、現地を見ずに行われていたのだとしたら…。

 その答えは、おそらく歴史書を真面目に紐解けば判明しそうである。
でも、私は無責任にも、それは知らないままで良いと思う。
「峠を貫通させたいという目的のためには、道中の九十九折りが幾つだろうが構わなかった」
そんなイメージが、ぴったりじゃないか。三島には。




 海抜1100mを越えると、森林限界というわけではないのだが、林層は明らかに変化する。
覆い被さるようなブナの森は果て、常時吹きつける風や霧を吸って生きているかと思えるような、背丈の低い森となる。
走行中にはあと幾つカーブがあるかなど、いちいち地図を確認しているわけではないが、もうそろそろ、終わりが近いと言うことを、私は予感していた。




 これが、登り最後の右ヘアピン。

私の数えた番号は、46。


 もし、これまでの各カーブの特徴を暗記して、全て写真だけで特定できるようになれば、おそらく三島フリークとしては極みだろう。




 そしてこれが、登り最後のヘアピン。

番号は47である。


 この最後の二つのカーブは、それまでの全てのカーブとは異なる印象を与える。
地形的な要因によるのだろうが、なんとなくゆったりしている。
九十九折りという、切羽詰まったイメージとはちょっと違う。
巧く言葉で言い表せないが、ともかく、感情論を持ち出しても良いのなら、

ゴールを祝福する、美女のキッスのようなのカーブだ。

…もっとも、逆から辿っていることを仮定すれば、初めのカーブは緩やかだが、それ以降は目の回るような九十九折れ地獄という印象になろう。
その場合のここは、準備運動的なヘアピンカーブというわけだ。



  何かが見えてきた。


 本当に、何もないと言えば何もない道中だった。
トンネルはなく、橋も小さな物が少しだけ、暗渠は沢山あっただろうが印象に残るものはなく、また道路標識もそれほどは無く、いっぱいあったのはカーブミラーと、九十九折ればかり。
最後の集落から約12km、高低差は600mあまり。
ただひたすら登りに登った道のりだった。

 しかし、終わりのない登りはない。

いま、ここに大峠の最高所。
大峠隧道が目前に迫った。
一歩間違えば、日本いち到達の難しい廃隧道にもなりかねなかった、雲上孤高の隧道。

 次回、潜入の予感。









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