国道17号旧道 二居峡谷 第6回

所在地 新潟県南魚沼郡湯沢町 
公開日 2007.10.18
探索日 2007.10. 8

 最終関門 「赤崩れ」

 船ヶ沢を突破せよ! 


 2007/10/8 15:56 

 現在地は、清津川の右岸に大きく切れ込みを入れたような船ヶ沢の南。
ここを越えれば、いよいよ前回撤退地までの距離は3桁のメートル数となろう。
だが、この船ヶ沢を中心とした一帯は、地形図からは旧道が完全に道が抹消された区間でもあり、その荒廃の深さは言うまでもない。

 廃道歩きでは、峠を越えることよりも谷を越えることの方が難しい。

これは、多くのオブローダーにとって一致した見解であると思われるが、船ヶ沢もまた、一朝一夕には往かぬムードを、プンプンと匂わせてくるのだった。
飽くなき接近を試みる私に、カミソリのような決壊地が次々と襲いかかる!




 瓦礫の山を乗り越えると、遂に船ヶ沢の深谷が眼下に。

対岸の急斜面にも、この続きとなる道が隠されているはずだが、全くそれと分かるものはない。

また、現時点では谷が深すぎ、橋を架するには早い。

ここで旧道は進路を谷を右にとり、彼岸の接近を待つことになる。


そして、この迂回部分が大変な難所だった。




 船ヶ沢の右岸を巻く部分は、全て消失していた。
その上端が尾根にまで達する崩壊は路盤を完全に押し流し、手掛かりの少ない草付き斜面へと変えていた。
巻くことは不可能である。
根が深く、また束として握ればそれなりに強いススキを頼りにして、私は水平移動を続けた。
崩壊から時間が経っており、急峻な割に植物が繁茂していてくれたのが、せめてもの救いだった。
そうでなければ、選択の余地などなく、自動的に撤退を余儀なくされたに違いない。




 全く道の痕跡がないので、細かな地表の凹凸と草付きの様子だけに神経を集中させてトラバースしていると、自然と少しずつ上の方へと斜面を登ることになっていた。
「流石に登りすぎてるな…」
そう思って見下ろした谷底に、私はコンクリートの「何か」を見付けた。

 橋台 である。

 地形図から抹消され、また『上越国道史』にも名前さえ出てこなかった橋が、私の前に姿を現した。

案の定、相当に高低差が付いてしまっていたが、目指すべき地点がはっきりした事は、何よりも勇気になった。

私はその橋台目がけ、草の茎を握りしめながら下降を開始した。




 橋自体は、残念ながら形を失っていた。
唯一残された右岸の橋台さえも、心なし下流側へ向けて傾斜しているように見える。

ともかく、残された橋台の規模は相当のものだった。
木々に覆われ分かりづらくはなっているが、コンクリートの上に、さらに同じくらいの高さを持つ丸石練り詰みの橋台が乗せられた、ハイブリッドな構造である。
谷底から桁までの高さは、当時10mを下らなかったろう。

左岸の崩壊によって膨大な量の瓦礫が谷を埋めており、此岸にも当然あっただろう橋台が全く無くなっていたのには驚かされた。
二居の旧道が、本当に崩れやすい場所に無理矢理作られた道であった事をと感じさせる、酷い有様だった。
峡谷の景色は秀美だが、とても観光道路や遊歩道として再利用することが出来なかったのも頷ける。




 ほぼ谷底まで降り、そこから上流を見ると、深い緑の中にチラリと違和感のある白を見付けた。

現国道に間違いない。
船ヶ沢と二居のトンネルの間にあった、僅かな地上区間(ただしシェッド内)である。
通過する車の音も、漏れ聞こえてくる。
久々に文明の音を聞いて、安堵を感ずる。

 しかし、ここから現道へとエスケープするのは、やはり困難そうだ。
近づいてみてみないと、可能か不可能かを決めることは出来ないが、いまはそれを確かめる時間も惜しい。
それに、わざわざ行ってみて「使えない」となったら、精神的にもダメージが大きすぎる。
最悪、この先で旧道を突破できなくなったら、ここに戻ってくれば現道に脱出できるかも知れないという「期待」は、残しておきたかった。



 右岸橋台附近から振り返った、船ヶ沢橋(仮称)跡地の様子。

左岸の道路が完全に破壊され、全く原形を留めていないことがお分かり頂けるだろう。

画像にカーソルを合わせると、橋の位置を想像して私が描いたパースが現れる。
橋台の高さを考えれば、この程度の大きな橋が存在した可能性が高い。
ただし、墜落した橋桁の残骸が全くないことを考えると、ここは木橋だったのかも知れない。
「境橋」の偉容と較べれば、ここが木橋だったというのは違和感があるが、橋台の幅もせいぜい3mほどであり、ごく狭い橋だったように思われるのだ。




 浸潤… 「赤崩れ」  


 16:05 船ヶ沢 渡谷完了。

船ヶ沢直前では、己の無計画ぶりに唖然とした私だったが(帰る時間がない?!)、原因はこの旧道が予想を遙かに超えて困難だったからに他ならない。
昼過ぎには南側から最初のアプローチを開始しているのだから、たかだか5kmの旧道を探索するに半日も有れば十分と考えるのは、何も無計画だと自分を責める事ではない。
最初の誤算は、南側から一気に二居まで通り抜け出来なかったことで、ここで一気に時間を食ってしまった。
それでも、二居側から入山した時点でもまだ午後2時過ぎだったから、余裕が無いとは思われなかった。

 全線に亘ってここまで荒廃しているというのが、最大の誤算だったのである。
まして、一級国道として使われていた道の旧道である。 それがここまで酷いとは……。



 ともかく引き返すことはせず、ご覧の通りに、速やかに前進を決定したのだった。

勿論、勝算はあった。
右の図の上の隅のあたりで、等高線はかなり緩やかである。
そこまでたどり着ければ、闇雲に藪を掻き分けて斜面を登っていっても現道に脱出出来るだろうと、そう踏んだのだ。(前回撤退地点はこの図のもう少し上である)

ただ、唯一の不安は目の前の船ヶ沢の渡谷と、その先、清津川の蛇行によって著しく等高線が密になった部分を突破できるのかと言うことだった。

船ヶ沢を攻略したいま、残された障害は、ただ一カ所となった。

そして、それこそが赤崩れだった。




 ボロボロになった地形図を手に、私は関門の出現を覚悟した。

「白崩れ」は思いのほか容易に私を通したが、この先の2〜300mに及ぶ「赤崩れ」は、等高線の密度からも、全く楽観視できる要素はない。
最悪、道自体が全く谷へ呑み込まれ、撤退を強制される畏れがあった。
ここでの撤退は、最悪だった。


 谷を渡ってから100mほど藪を掻き分けて進んだ辺りから、案の定、始まった。

見るからに赤色を帯びた岩が、道を埋めている。





あ…

道がない。

畏れていた状況だった。

向かって左はそのまま清津川へと滑り込むように落ちる、岩の崖だ。
全体的に緑が多く、高度から来る恐怖心を抑えることが出来たが、斜面に沿ってどうにか歩けそうな箇所も怪しい草付きと、不安定そうな瓦礫の山に過ぎない…

ここは、写真を撮りながら横断する状況になかった!




 もう夢中になって斜面へはばり付き、ただただ前進した。
立ち止まっていても何ら妙案が浮かぶはずもなく、とにかくこの危険地帯を突破してしまいたい一心で。
再び雨が強くなってきたが、首に巻いたバスタオルも全体が湿っており、カメラのレンズから水滴を拭き取るのも難しくなっていた。
そのうえ、時間的にも薄暗くなってきていて、手ぶれと露光不足とレンズの曇りによる、多くの失敗写真を生んでしまった。

 私がいつもこんな事をしていると思う読者もいるかも知れないが、ここまで酷いのは稀である。
あくまでも、本分はチャリによる旧道や廃道の走破であって、林鉄跡ならばいざ知らず、旧国道でここまで苦労させられるのは、本当に稀である。
これが頻繁なら、とっくに私は廃道歩きに殉じているか、或いは嫌になって引退しているかだろう。

危険すぎるのだ。
ここは、笑えないくらい。




 数十メートルに亘って道が斜面に一体化し、しかも格子のように灌木が茂る所を突破した。
だが、まだ辺りの地形には幾分の弛緩も見られず、なお「赤崩れ」を突破し得てはいないようだ。
ここには、僅かだが本来の道の痕跡が残っていた。
苔と灌木に覆われた、コンクリート製の駒止めの数基である。

 (写真右)
しかし、身を乗り出して路肩の状況を探ろうという気持ちには、遂に成らなかった。
これ以上自ら危険を冒すのは、ばかげている。
路肩のこっちと向こう側の色の違いだけで、もう十分にその高さは想像できるし。


 …ここは、“緑の日原”かよ……。




 いま、このへん。

ちょうど、現在地の下の辺りに“餃子”のような「土崖」の記号が見えるが、この“何となく穏やかそうな”記号に、いったい何本の等高線が隠されているのか?

お暇なら、隠された等高線と同じ数だけひいた“青線”の数を数えてみて欲しい。
一本に付き、10mの比高が有る。




 そこからまたにさんの中崩壊を乗り越えると、非常に薄暗かった景色に明るさが戻った。

船ヶ沢を渡って以来、初めて視界が開けた。

赤崩れの終わりなのか。

少なくとも、もう一カ所は崩壊があるようだが… 
尻尾が見えている。




 まだ泥が付着したままの岩石が、道を埋め、そのまま清津川へ雪崩れ込んでいた。
泥付きの岩は大変滑りやすく、積み重なった角度もかなりキツイ。
ここが、まだ崩れたばかりなのは明らかだった。

だが、ここを越えれば「赤崩れ」も終わると思えば、私の気持ちは晴れやかだった。
緊張感の中にも、岩を乗り越えて進む楽しさが感じられるようになってきた。





 って


まだ
あるし!!







次回で終わる。