国道45号 旧道 三陸峠 第四回

公開日 2006.09.17
探索日 2006.04.08

いにしえの峠…されど「新峠」

【新峠】 標石の導く峠路

 いよいよ新峠へ挑むわけだが、その前にもう一度、新峠について解説しておきたい。

 三陸沿岸には古くから浜街道と言われる道が拓かれていたが、大船渡から釜石方面へ向かって最初に越える峠が生江峠(海抜450m)であった。
詳細な記録は残っていないが、江戸末期の嘉永年間になってこの路線の一部が付け替えられたと見え、嘉永5年(1854)に仙台藩主十三代の伊達嘉邦公が、この新しい峠を越えたと記録されている。
この路線の付け替えによって、生江峠は古峠と称されることになり、新峠が本道となったことから、街道筋の約4km毎に築かれていた一里塚も、生江峠筋から新峠筋に移し替えられている。
新峠の海抜は約400mと、生江峠よりも50mほど低いものとなった。
その後、新峠もまた新しく拓かれた大峠(海抜390m)によって旧道化し、いまに至る。

 次に、地形的な要素から三つの峠を見てみたい。

 古峠(生江峠)と大峠はいずれも、大船渡と越喜来を隔てる綾里(りょうり)半島の鞍部を越える峠である。
内陸側北上山地の一山である夏虫山と、半島側の最高峰である今出山を繋ぐ稜線上にある二つの鞍部を、これらの峠は並行して越えている。
そして、この二つの峠路の中間地点同士を結んでいるのが新峠である。
新峠が前者二つの峠とは全く別の鞍部を、無理矢理に見いだして越えている様に見えるのが面白い。
もし等高線だけが描かれた真っさらな地図があって、そこに出来るだけ楽な峠路を見いだすとするならば、古峠ないし大峠が模範解答であり、新峠付近は等高線が相当に密であるから不適としか思えないのだが、なぜ、この峠が抜擢されたのだろう?

 私の新峠への興味は、こんな「腑に落ち無さ」からも来ていた。




 一つの峠を終えた私は、そこに次なる峠の入口を見いだした。
さらに古く、謎に満ちた新峠への道だ。

 だが、その登り口は、大峠への旧道によって大部切り取られていて、やはり二つの峠は同時に存続しなかったのではないかという疑いを深くした。しかし、切り取りによって急傾斜となった部分を登り切ると、そこには明らかな道跡が現れたのである。

 写真右奥に見えるのが大峠への旧道であり、目の前の道が新峠道である。



 午前11時52分、再出発。

 出発間もなく、大粒の雨が落ちてきた。
こんな悪条件下でも撮影が続けられるのは、『現場監督(DG-5W)』のお陰であるが、このデジカメの美点であり欠点でもあるのが、レンズカバーが存在しないという所だ。
このカメラにはレンズカバーはおろか、レンズの沈胴動作がまるっきり無い。
こういった外部に触れる駆動部分が無いことは、故障のリスクを大幅に軽減してくれているのだが、一方で常に裸のままの大きなレンズが風雨に晒される訳で、傷が付いたことこそ無いものの、雨天時にはどうしても水滴が付着して撮影画像を乱れさせるのである。

 これについては、私の場合ある程度まではタオルで拭う等して対処するが、この日のように濡れていないパーツが体や荷物のどこにも無いようになってしまうとお手上げである。せめて水滴を指で拭う事しかできず、こんなピンぼけ画像が大量に撮影されてしまうことになるのだ。
だが、そもそも現場監督無しでは確実に写真を撮れなかった天候であり、機材を非難するには中らないのである。
ようは人間力…、私に常に乾いたタオルを持参するという注意力さえあれば… ね。



 初っぱな、杉の植林地の沢筋を、左の斜面に従って登っていく。
すでにその勾配は車道としての限界すれすれであり、狭すぎる幅を勘案すれば、やはり新峠は車道化に浴さなかった峠であったと考えて良さそうだ。
また、チャリといえども厚く堆積した杉の落ち葉のために漕ぎ進むことは出来ず、押し歩きとなった。
倒木も進路を幾度となく邪魔した。



 分岐から150mほどで、沢底から道が離れ始める。
左斜面に取り付く。
この辺りにははっきりとした路面の痕跡が無く、なんとなく木が生えていないラインが道なのだと仮定すると、相当の急勾配である。
進路に不安を覚えたが、そんな私を救ったのは、足元へ伝わる固い感触であった。
地面を覆う杉の枯葉の下に埋もれているのは、ジャラジャラとした黒っぽい砕石の地面であり、明らかにかつての路盤の名残である。



 そして、砕石の痕跡以上に不動なる道路痕跡が存在していた。
しかも、多数。

 チャリや歩きで探索するオブローダーならきっと目にしたことがあるだろう、「謎の県標柱」である。
「よく見るのに謎なのかよ?」とツッコマれそうだが、恥ずかしながら私は未だにこの各地で見られる標柱の正体を知らない。
ただ経験則的にこの標柱は、県道や国道といった県の管理している道の道路敷きを示す境界表示だろうと理解している。

 そして、いままで様々な旧国道や旧県道、それに不通県道と言われている様な山中にて、これと同様の標柱を発見している。
今回の発見だけが例外であるとしないならば、すなわちこの新峠の道筋がかつての国道、或いは県道だったという証拠になる。
これは、私にとっては非常に重大な発見であった。


 新峠が国道か県道だった?!

 そのようにして描いている地図を私は未だ見たことがないが、順当に考えれば、現在の国道45号の旧路線だったのだと思う。(昭和28年に二級国道111号として初めての国道指定を受け、昭和40年に一級国道45号に昇格している。昭和28年よりも以前には、県道だったと考えるべきだろう。)
 しかし、大きな疑問点がある。

<疑問点>
 明らかに国道の旧道である大峠は、遅くとも大正5年までには開通しており、開通と同時期に、より交通性に優れた大峠が、新峠に代わって県道の座に就いたと考えられるのだが、この新峠に散見される標柱の中の「県」の文字は新字体であり、大正期以前の標柱ではない。
一体、どの時期まで新峠は県道、或いは国道の指定を受けていたのだろうか?
特にこの写真のように、新峠のルートは近代的とは言い難い険路隘路であるから、不思議なのである。
まさか、大峠と新峠が別々の路線として県道・国道指定を受けていたとは考えにくいではないか。

 この謎を解くべく、現在山行がでは旧版地形図の取り寄せを準備している。
何か進展があったら、ここに報告したいと思っている。



 上の写真の場所を起点として、地形図にもないつづら折れが始まっていた。

 二つ目のカーブは、その中でも最も険しいカーブとなっている。
右の写真がその全てなのだが、何も言うまい。
こういう場所なのだ。
決して、カメラをいたずらに傾けて撮影しているわけではないゾ。
こういう場所なのだよ。


 急である。
もの凄く急な斜面に、無理矢理九十九折りの道をへばり付けたような場所だ。
しかも、一度は掘り返された瓦礫の斜面は重力に任せて変貌を遂げており、道の跡は僅かな凹凸になって残っているだけである。
ここを、チャリで通過する。

 アツイが、 怖い!



 時刻はいつの間にか正午をまわって0時15分。
斜面へチャリを慎重に押し進め、やがて三つ目のヘアピンカーブへ。
ここは一つ目のカーブのほぼ真上であり、谷底を見下ろせば下段が見えた。
この、いかにも古道然とした浅い掘り割りが残るヘアピンカーブにも、しっかりとした県標柱があって、途絶えた往来を見守っているようだった。



 カーブを切り返すと、そこで景色が一変した。
周囲が明るく、空が一気に近くなった気がする。

 現在地の海抜は380mほどで、500mに満たない僅かな距離で、一挙に高低差100m近くを詰めたことになる。高度の上ではもはや峠はすぐそこだ。
これらの数字が物語るとおり、ここまでの道中はつづら折れといえ、車道に決して適応しないワイルドなものだった。
おそらく荷馬車であっても通行できたかどうか…。
それだけに、意味深に立ち並ぶ県標柱がなおさら気になるのである。


「キター!」

 これはキタしょ。
標高が上がるとともに、浅い笹藪が地表全てを覆い尽くし始めた。
それに伴い林全体が明るく見えるようになり、気持ちも少なからず昂揚した。
標高の上昇を理由にして景色が明確に変化し、いよいよ最大の目的であった新峠への逢着も現実味を帯びてきた。
堪らず嬉しくて、前出の叫びが口を突いたのである。


 たった二段のつづら折れで、高低差60mを一挙に詰めた。
見下ろせば、もはや下の段は杉林の下に隠れて見えなかった。
この強引な道は、約150年前に拓かれ、仙台藩主も公に通った。
“伊達”という言葉の語源という説もあるほど、仙台藩主伊達家は代々派手好きであって、その行脚に際しては多数の従者を引き連れていたという。
この新峠にも、幾たびか厳かで絢爛豪華な一行が通ったのであろう。
笹原風に揺るる現の景色を見るにつけ、隔世の感ありというよりない。



 つづら折れ以後勾配は緩んだが、峠の一点を目指し登りは続いている。
部分的に掘り割り道となった古道を往く。
どれほどの期間を閑道として過ごしてきたのか分からないが、並木として植えられたようにも見える桜の古木が立する道は、なお十分に歩行に耐える状態にあって、思わず嬉しくなった。

 峠は、もうすぐそこだ。



 0時21分、峠に到達。
今朝降ったと思われる雪が、雨に打たれながらも少しだけ解け残っていた。
入口からは約600m程の道のりであったが、高低差は100m以上もあり、中盤の九十九折りに勾配は集中していた。
 



 峠の鞍部には、期待してはいなかったものの、立派な木製の標柱が立っており、「歴史の道 浜街道新峠」「平成六年八月一日」などと書かれてあった。
だが、それ以上に私が嬉しいのは、ここにも「岩手県」と書かれた標柱がいくつも残っていたことだ。

 幸いにして、このとき雨は小康状態になっていた。
私は、二つ目の峠へと無事にたどり着き、この日の最大の目的を達したことを素直に喜んだ。
まだ、河内側へ下る道が残っているが、峠の立派な標柱の出現は、ある程度の道がこの先にもあるだろうという安心感を、私に与えてくれた。



【新峠】 四望開豁 

 ここで問題が発生。
峠から河内側へは、二手に道が分かれていた。
左の写真には、笹原へ伸びる二本の道が写っている。
おそらく峠なのだから、左に下る道で間違いないであろうが、あまりに踏み跡らしきものが無いので、不安になる。
万一間違ってしまうと、登り直してくるのは相当に困難そうでもある。

 私はいつも以上に慎重になり、チャリを峠に置いたまま右の道を少し偵察してくることにした。
この行動からも、私がこの時どれほど無駄足を嫌ったかが分かる。
体温が低下し、我が身に危険を感じていたからにほかならない。

 しかし、この行動が私に、思わぬ歓びをもたらすことになる。

 新峠が、大峠とともに私の中で “永遠” となる瞬間が、迫っていた。




 こいつは… …すげーとこだ。

 右の道を少し行くと、笹原の明るい稜線に出た。
そこは、豁然たる原野だった。
風わたり、雲越ゆる、広大な笹原に、私はたった一人いた。
きっと、このときの私は、ぼけっと惚けて口を開けて、突っ立っていたに違いない。
それも、しばらく。

 たましい抜かれたかも。
凄いよ、ここは凄い綺麗。
「言葉で言い表せない」なんて言葉でこの感動を皆さんに伝えることを安易に放棄したくないのだが、ここは勘弁してくれ。
 言葉で言い表せません!


 上の写真は稜線から大峠方向を振り返って撮影している。
そして、左の写真はこれから下っていく先の、河内の谷。
 一望千里! 最高!!

 このまま笹原を豪快にチャリで突っ走っていったら、どこへでも自由に行けちゃうのではないかと、そう錯覚させられるほどの、圧倒的フリーダム感!
トリになれそう!

 そして、向かいの夏虫山は、いままさに雪が降っている。
雪国に住む人ならみんな知ってる、雪を落とす雲の色だ。
地に我あり、我思う、 嗚呼、嗚呼、ああッ!!



【新峠】 雨水零れる峠路


 右の道は稜線上に掻き消えており、峠から下る道はやはり左であると確信。
心洗われる眺めに後ろ髪を引かれながらも、再び落ちてきた大粒の雨に意を固め、峠から下り始める。

 現在時刻は12時32分。



 浅い掘り割り道は、ほぼ直線的に峠を駆け下っている。
やはり、この峠は古い峠道なのだと思う。
軽やかな雑木林の中を下っていくと、次第に木々の幹が太くなり、森らしい景色に変化していく。
これから向かう河内は標高320m付近にある山中の小集落であり、かつて生江峠と新峠の道が分かれた追分である。



 一気に下ると、三方から小さな沢がその一点に集まってくる谷地へ達した。
ここから一本の沢となって流れ、越喜来で海に注ぐ浜浦川は、この探索のスタート地点だった。
道は、築堤の痕跡で谷地を渡り、今度は左岸へと続いている。



 谷地から峠方向を振り返る。
水苔の揺らめく小さな流れが、雨水を集め些か逸脱しブナの巨木の根元を洗っている。
しかしその流れに濁りはなく、力強く根を張ったブナも何だか嬉しそうに見えた。

 築堤の上では、旅人達の踏み足が集中したせいだろう。
そこはいまなお笹が生えず、僅かに砕石の覗く固い路面が見えていた。
古道の風格を感じさせる光景だった。


 沢の中に見つけたのは、昔懐かしいコーラの500ml瓶。
拾い上げて見ると、綺麗な瓶はどっしりと重く感じられた。
ペットボトルのジュースが当たり前の今日では、僅か500mlのために重い思いをするなんて、信じられないだろうな。
昔は水筒が当たり前だったもんな。



 沢が右下方へ離れていっても、相変わらず浅い掘り割り道が続いている。
勾配が急な箇所が所々あるのだが、もはや私の愛車はブレーキが殆ど効かず、
1.サドルを低くして足ブレーキの使用を開始。
2.ブレーキレバー近くのツマミを調整し、無理矢理ワイヤーの張りを強化。
以上二点の、良くない調整を施した。
私はブレーキ周りの不調はしょっちゅうなので、こんな事はお手の物だが、根本的な解決である替えのブレーキパッドに交換するという対処を取らなかった理由は、単に、六角レンチを忘れてきたためであった。
これもよくあることだ。


 ブレーキについて、チャリ乗りにしか分からない大きな不安を感じつつも、足ブレーキの多用で何とか下り続けた。
そして、0時40分、やや深さを増してきた笹藪に辟易しはじめたところで、鹿除けのネットに行く手を遮られた。
ネットの向こうには牧場のような草原が広がっている。
ネットはその周囲を取り囲むように長く続いており、迂回不可能、通り抜けるより無い。

 辺りに人目がないことを確認した上で、チャリを寝かせて下を潜った。
絡み付いて来て意外に難儀した。



 牧野を横切った道は、そのまま小さな沢を渡って、今度は上り坂に転じているようだ。
あの坂の上に河内の集落があるはずだ。
もう一がんばりで、ひとまず安心できる中継地に到達だ。

 しかし、私の肉体的な状況はかなり良くなかった。
時が経つにつれ強さを増すような冷たい雨に、手足だけでなく満身震えていた。後ろ髪から落ちた水が背中を濡らし続けた。
バイタルレベル低下。
リュックの中の地図を取り出すことも出来ず、記憶の中の地図を頼りに進んでる状態。


 浜浦川のまた別の源流河川を小さいが頑丈そうな木橋で渡る。
写真は峠を振り返って撮影。
牧場には人影、馬影牛影共になく、寒々とした景色であった。

 本当にこんなところに人が住まう町があるのだろうか…。
出来れば、温かい珈琲が飲みたい……。



 橋を渡ると、突然鋪装が始まって驚かされた。
しかも、道は狭いものの鋪装は真新しい。
現在は市道になっているようだ。
この市道がもしかしたら、指定上では新峠を越えているのかも知れない。

 河内まで、あともう一歩。
 残る峠は、あともう一つ。
 私のブレーキパッドの効きしろの残り、……!


 次回!

  稀に見る整備不良車に訪れた、当然の報いを見よ!