国道49号旧道 藤峠   第2回

所在地 福島県耶麻郡西会津町〜河沼郡柳津町
公開日 2007.8.20
探索日 2007.5. 9


輪廻の峠路

 藤峠への旧国道


 14:57 【現在地:旧道分岐地点】

 この藤峠は、それほど険しさを感じる場所ではない。
それは、現道を車で走ってみても感じられるし、地形図からもそうだ。
実際、ここまで登ってきた私も、その地勢の穏やかな事を肌で感じていた。

 この時点ではまだ、藤峠の比較線として長く主導権を競い合った「束松峠」を経験していなかったので、どちらが優れた峠であるかの判断は出来ないが、少なくともこの藤峠のある地形は、険しさとは無縁の、人馬往来に適したものであると感じた。




 三島通庸は、馬車交通に耐える道を得るべく、福島県令就任早々広大な県土を見渡したのであろう。
そして、就任から会津三方道路計画発表までの数ヶ月間に、この地形の易を見出したことになる。

 もっとも県令には、先の山形時代に万世大路の開削を通じて得た、強力な右腕たる土木技師達がいた。
福島赴任にも彼らの一部を伴っており、真の眼力は彼ら実行部隊にこそあったのかも知れない。
いずれにしても、三島の人を選ぶ眼力と活人術には、天賦の才があったといえるだろう。

 写真は、旧道への分岐地点だ。



 前回レポの最後は、旧道が現道によって切り崩され、跡形もなく消失した場面であった。
そこから100mほど現道を進むと、再び旧道が左に分かれていく。
正確には、旧道は消失時と同様に切り立った法面の上から再開しているのだが、その一段高い旧道へとなだらかに合流するスロープ状の連絡路がそれだ。
上の写真も右の写真も、この連絡路の入口と途中の景色だ。
本来の旧道は、右の写真の左奥に、築堤のように見えている。

 この連絡路の部分は土嚢置き場になっており、工事車両の出入りがある。
その設置現場は、あとで紹介するが、峠の向こう側の藤集落付近にある。



 砂利敷きの新旧連絡路は30mほどで旧道の高さに至り、その先は同じく砂利敷きの旧道となる。
この先、現道が藤トンネルに入る直前まで、新旧道は20mほどの高低差を維持したまま平行する。
現道の工事によって旧道の景色は一変してしまったことだろう。
案の定、この区間には一切古色を匂わせるものは見られない。ただの林道の風情である。

 なお、写真前方の山並みでいちばん低い部分が、旧道が目指す藤峠鞍部である。
非常になだらかな峠であることが分かる。



 15:01 

 現道から別れ500m弱で、右下方に現道の大きなトンネル坑口を見る。
直後、旧道は行き止まり。
地形図と照らし合わせると(峠前後の旧道は現行版1/2.5万地形図に記載あり)、峠へ向かう旧道はこの辺りで進路を反転させて南へ進むはず。



 そこで、行き止まりから南の方を見ると、まず目につくのが乱暴にコンクリートを流しただけの、作業道路の跡。
これは、確信はないが位置的には現道の坑口脇に続いていそう。
よくある工事用道路だろう。

 しかし、本命の旧道もまた、この工事道路に遮られながらも、辛うじてその姿をとどめている。
ここもまた、季節を誤れば想像を絶する激藪の難所になっているかも知れない。
チャリを伴って、この斜面の道跡へ進む。




 明治の風香を留める藤峠


 これは、私にとって予想外の展開と言えた。
藤峠の旧国道は、現在の地形図にも車道として描かれているもので、よもやこのような藪に包まれているとは思っていなかった。
元一級国道の旧道であることも、この沿線で経験済みの「惣座峠」「鳥井峠」「車峠」などが一応通行可能であることも、そんな先入観の根拠となった。

だが現実は異なっていた。
その幅広の路面を地形として留めたままに、車道は廃道となっていた。



 しかし、重ね重ね言うが、訪問の時期がよかった。
新芽がようやく緑を帯び始めたばかりの藪は視距に恵まれ、これだけの密度で灌木が茂りながら、どこか開放的でさえあった。
うるさい笹やススキが発生しておらず、しかも路盤にはまだ堅さが保たれており、顔を打つ小枝にさえ気をつければ、そのままチャリで走行することも可能だった。
ある意味、奇跡的なバランスが保たれた廃道だと感じた。
チャリに乗ったまま、轍の消えた車道の廃道を走れる機会は、非常に稀なのである。

 私は、次に現れる景色に、期待した。



 行き止まりと思われた地点より、浅藪の道を400mほど進むと、道は呆気なく峠の気配に包まれた。

それまで緩やかに上りながら真っ直ぐ南を向かっていた道が、急に東へ進路を変えた。
その先には、遠目に見たとおりの、何ともなだらかな鞍部のシルエットがあった。

 藤峠直前である。





 藤峠は、春の下午の淡い日差しのもと、限りなく穏やかな表情で私を迎え入れた。

車上でこの景色に出会ったとき、なぜか私はチャリから降り、あとは押しで、その最も高いと思う場所へ進んだ。
峠の風景が、私になにか、神妙な心持ちを芽生えさせたのだろう。
聖域へと土足で踏み込むことを躊躇うような心境から、私は敢えてチャリを押したのだと思う。


いま、写真で見てもこの景色は十分に美しいが、実際の空気には、

  鳥のさえずり

  遠くで聞こえる車の音

  微かな水音が あった。


役目を終えた峠の、あらゆる風情が、ここに集約しているような感じさえした。



 水音…

そう。
この峠には、古くから知られた、名水があった。

峠の法面の一角に、祠のように凹んだ一角があり、そこが水源である。
流れ出した小川の水辺は、萌え立つような春草の楽園となっており、そのまま車道部分も潤していた。


 湧き口へと近づいてみる。

旅の喉を潤す人や馬が途絶えた今も、涼しげな音を伴って、なお滾々と湧き続けていた。

昭和50年に初版が発行された『会津の峠(上)』の藤峠の項には、この湧き水のことが触れられている。
これは想像だが、人口に膾炙したこの清水で最初に舌鼓を打ったのは、馬車道を切り開いた明治の工夫たちだったろう。




 それは、いつまでここにあったのか。
その記録は残されていないが、清水の隣の峠敷地内に、取り壊された小屋の残骸が、山と積まれている。
残骸の中には、立派な自然木の柱や、巨大な味噌桶らしきものが見て取れる。
おそらくこれは、峠の茶屋の残骸であろう。

 ほぼ同時期に旧道となった車峠にも、やはり大きな茶屋があったと記録にある。
また、ライバルだった束松峠でも、昭和30年代後半まで、もと茶屋だった二軒が峠に暮らしていたという。
水戸黄門のドラマなどでしか目にすることのない峠の茶屋だが、会津地方の人々にとっては昭和の頭頃まで、なお日常風景だった可能性がある。



 藤峠は、前述の通り険しい山地にはないから、それほど眺望に恵まれた場所ではない。
しかし、鞍部を貫く100mほどの直線部分の東端部が、ちょうど下藤川の源流谷に面しており、この方面の眺望だけは優れる。
もっとも、高度が足りないため、それほど遠くまで見えている感じはない。
空気の澄んでいるときならば、北東方向に磐梯山が見えるであろう。

 しかし、眺望の不足を補うに十分なほど峠自体の風情が優良で、また近景の山々が自然のままの雑木林なのも、明るくて心地よい。

私は、三島がらみの峠となれば自然高評価を与えがちだが、ここは掛け値抜きで素晴らしいと思った。
訪問は容易ながらも、隠れた廃道の名勝地ではないか。






 15:13 【現在地:藤峠】

峠西側の旧道は短かったが、ここから東の藤集落へと下る旧道は倍以上の距離がある。
峠の標高が約海抜340mで、藤集落が220m附近に位置する。
この程度の高低差を埋める道に3kmを超える道程があり、このあたり、いかにも三島らしい(笑)。
殆ど明治のルートのままに、昭和46年までは車道として使われていたのも頷ける。

 峠の直線の東端まで来ると、そこから道はやや北寄りに進路を変えて下り始める。
そこはもはや藪道ではなく、何ともいえない“不思議な路面状況”である。

この路面がまた、私に藤峠旧道に対する強い好印象を残すのだが、詳しくは次回に述べたい。



 振り返ると、なだらかな鞍部の先に、藪へと呑み込まれゆく道が見える。

清水と茶屋の跡だけが残るこの場所は、昭和46年まで、表裏日本を結ぶ幹線国道上であった。
しかし現在の国道を知るものにとって、このギャップは隔世に過ぎる感じがする。
幅の広い路面には殆ど轍も残っておらず、明治大正は分かるとしても、昭和の高度経済成長などと呼ばれた時代を、この道が現役で過ごしたとは信じがたい。
峠と言うには地形がなだらか過ぎて、ガードレールとか落石防止柵とか、そういう近代道路らしいものも必要とされなかったし、たまたま行政界にもあたらなかったために白看版などの道路構造物が残らなかったのも、より、そのような感じを強めている。


 …時代劇のロケ地として、 どうっすか??   ここ。





 ようやく私が紹介したい峠の景色が紹介できた。

だが、これで終わりではない。


次回、 
近代道路の厳しき父であった三島通庸のにこにこ顔を、あなたは目撃するだろう!