道路レポート  
国道113号旧線 宇津峠 その1
2004.5.16


 あなたは、三島通庸という政治家をご存じだろうか?

鹿児島県出身の彼が、山形県の初代県令(知事)に任命されたのは、明治9年のことである。
彼は先ず、四方を山に囲まれ、中央との結びつきが絶対的に弱かった山形県の弱点を克服せんと、壮大な道路網の構想を持った。
そして、彼の凄いところは、それらを構想だけに止めず、豪快な決断力と統率力で、実際に次々と実現させていったところである。
その強引とも言える手腕は、「土木県令」「鬼県令」などと畏れられたほどだ。

彼が山形の地を去るまでの10年間に、幾多の道が生み出された。
一部を挙げれば、“万世大路”こと栗子峠に、雄勝峠、関山峠、宇津峠などである。

ここに挙げた峠はどれも、山形市と、隣接県の中心地とを結ぶ、最短の道であることに注目したい。
(栗子峠は福島と、雄勝峠は秋田と、関山峠は宮城と、宇津峠は新潟と山形とをそれぞれ結ぶ) 何よりも驚くのが、これだけの峠を一から開削、もしくは馬車や自動車が通れるまでに改良したのが、全て一人の男の決断であったと言うことである。
これらの道のどれ一つとして、現在利用されていない道はない。
それどころか、山形県の生命線と言える道ばかりだ。


 幾多の峠を拓いた男の名は、永遠のライバルを連想させるものだ。
 幾多の峠に挑んできた私にとって、三島の拓いた峠ほどに、熱くさせるものはない。

三島の野郎が、一体何を考え、どんな気持ちで、なぜそこに道を開いたのか、一つ一つのカーブに、どんな想いがあるのか?
そんなことを拾い集めながら往く峠は、私にとって、至福の瞬間にして、最大のバトルである。

先に挙げた峠の中で、雄勝と栗子に次いで、三番目に挑むことになったのは、宇津峠であった。



飯豊町 手ノ子
2004.5.12 8:27


 山形県南端の都市米沢から北西に約25km、私が輪行を解いた最寄りの山形新幹線は赤湯駅からだと西へ約20km。
宇津峠の東の口である「手ノ子」と言う変わった名の集落に着く。
ここは、西置賜郡飯豊町に属する。
そして、これから挑む宇津峠の反対側は、やはり西置賜郡小国町となる。
小国町は山形県では唯一、新潟県は岩船郡で日本海に注ぐ荒川の水系にあり、どういった経緯で山形県に属するかは分からないが、不自然な感じがする。

いずれにしても、これから挑む宇津峠とは、東北最高峰を有する飯豊山地と、やはり東北有数の朝日岳の山塊との間の、唯一の橋渡しとなる稜線を越えるものである。



 写真の交差点を直進すれば、国道113号線宇津峠。
左折は、主要地方道4号線で白川ダム方面。
そして、右折は旧国道となる。

当然、私はここを右折する。
このまま峠に至るわけではなく、ここからの旧道はまだ、峠へのアプローチ部分に過ぎないが、なかなかに良質な旧道だ。


 すぐに踏み切りを渡り、登りが始まる。
踏切は、JR米坂線のものだ。
この路線も、日中は殆ど列車の通らない、東北有数のローカル線である。

東北地方でも豪雪地と言われる地域の古い路面には、よくこの赤さがある。
かつて、地下水を路面に撒いての融雪が成されていた証拠である。
狭い雪道に小さな噴水が連なる姿は、ロードヒーティングが主流になった最近では殆ど絶滅したと言って良い、雪国の冬の風物詩であった。


 宇津峠付近に源流を持つ狢沢は、白川、ひいては最上川の支流の一つである。
狢沢の対岸には、ガツガツと法面を切り開き続く現国道が見える。
三島が、「小国新道」として開削した道は、今私が走っている旧道である。
また、この辺りは藩政時代からの越後街道にも一致している。
通称十三峠街道とも呼ばれ、大小の峠が連なる街道で、米沢から数えて二番目にして最大の峠が、この宇津峠であったという。

日本的な、なんとも好ましい旧道の景色は、夜通しのチャリで疲れた脳味噌をリフレッシュしてくれる。



 この辺りは私の探索範疇ではないが、立派な街道の松が根を下ろしている。

もう、このまま長閑に峠を越えていきそうな、そんな錯覚すら覚える。
しかし、実際は、三島との命をかけたバトルからは逃れられないのである。
私が、山チャリを放棄せぬ限りは。

今は、戦い初め前の、束の間の平穏である。


 緩やかな登りを主体に、ときおりヘアピンカーブを織り交ぜながらの道は、峠まえの里山を満喫できる。
鉄道らしく坦々と高度を上げていく米坂線とは、旧道は何度も上となり下となり、それでも離れずに寄り添って進む。
今年初めて目にする新緑の鮮やかさは、一年に一度だけしか味わえない、かけがえのない感動だ。
その美しさは空気までをも、より透明感のあるものに変えている。
呼吸するだけでも気持ちがよい。



 約2.5kmで現道に合流し、快適な旧道は終わる。

そこには、国道が峠の長大トンネルへと続く場面にありがちな、地形を無視した道路の姿。
このバイパスは、新宇津トンネル(延長1335m)が平成3年に開通した時より、これまでずっと三島の意志を継いでいる。



宇津峠 旧道へ
8:47

 そして、ここが旧道と、現道との分岐点である。
先ほど現道に合流してから、まだ100mくらいしか走っていない。
3桁国道の平日にしては、通行量が多い宇津峠の喧騒から、早くも離脱できる。

そんな、いつもなら嬉しいはずの旧道入りも、今回は微妙。
なにせ、正面に立ちはだかる、まるで屏風のような山肌を、トンネル無しで越えねばならないのだ。
そのうえ、一番の不安材料として、私の地図にはその道は記載されておらず、地形図にやっと、点線が描かれているに過ぎないと言うことだ。
さらに言えば、その現状を記したサイトなどに出会ったことがないし、とにかく、行ってみないと何とも言えない未知の旧道なのである。
もとは、自動車が通れるようにと整備を受け、永くその用に供された道であるから、まさかそれほど酷いと言うことはあるまいが…、主寝坂の例もあるし不安は尽きない。

なお、写真にも稜線上に写っているのが、NTTの電波塔であり、あそこまで小国町側から車道が延びていることは間違いないだろう。
問題は、この飯豊町側の道だ。



 写真外の右脇には、米坂線の長いロックシェードがあり、その先は間もなく宇津トンネル入りしている。
丁度そこを、勢いよく下ってくる上り列車が通り過ぎていった。
しばし、鉄道ともお別れだ。
また無事に、小国側で出会えることを期待しつつ、旧道を現道の右に降りる。
しかし、この後すぐ旧道は橋の下をくぐり、向かって左側の山中へと向かうことになる。
ここで狢沢を渡る。



 旧道に入って100mほど、まだ現道の喧騒が届く場所に、山肌の一画を切り開いた社がある。
これは、「宇津大明神」といわれ、かつてはこれから目指す峠の近く稜線上にあったというが、国道の新道工事に伴って現在の場所に遷座した。
開け放たれた社殿内は狭いが所狭しと飾り付けられ、また、良く管理されているようだった。
それも集落から遠くないお陰であろうから、遷座は正解だったのだろう。
境内に目立つ石碑は二柱あるが、写真に写っているのが古いものに見え、そこには力強く『階段記念●●(二文字読めず)』と陰刻されている。
また、もう一柱はやや新しく、『御遷座記念碑』の文字の他、1965年の国道改築によって、などといったことが記されていた。



 急な階段を下りて、車道へと戻る途中に撮影。

側には水田などが見えるが、旧国道が農作業に利用されている気配はない。
見慣れないオリジナル標識が目を惹くが、次の写真を見て頂ければ、この様に大きく注意を喚起する必要性が分かる。




 今来た道を振り返って撮影したものだが、現道との合流部分は、峠からの長い下りの終点にある直角のコーナーの先にあり、その危険性は容易に想像できる。

ところで、先ほどから私が随分と“峠への不安”を煽っているわりに、意外に立派な、現役と見まごうほどの旧道じゃないか?
そういうツッコミもあるかと思う。
そのツッコミは正しい、というか、スルドイ。
実は、私がこれから挑もうとしているのは、旧・旧道なのだ。
今私が立っているのは旧道。

旧道は、さっきの石碑にもあったように、昭和40年代に新たに改築された道で、平成に入って間もなく廃止されている。
つまり、目指す宇津峠というのは、廃止後40年近く経ているだろう道なのだ。
不安の理由、分かって頂けるだろうか?



 キツい勾配だが、直線的なカーブを幾つか経て、旧道の峠。
旧宇津トンネルへと登っていく。
ここまで、特に通行止などという案内はなかったが、「山形の廃道」のfuku氏の探索などにより、この旧トンネルが既に封鎖されていることは知っていた。
だが、この春のアンケートでも探索要望のあった旧宇津トンネルを無視するわけにも行くまい。
この辺りのどこかで旧旧道は右に分かれるはずだが、まずは敢えて、旧トンネルへ行ってみよう。

写真に写っている白い標識には、「この先トンネル 幅狭し通行注意」とあった。




 なんか、見つけるのが恐かったが、見つけられなくてももっと恐いので、一応見つかってくれてほっとした、旧旧道の入り口らしき脇道。

うーーん、微妙。

一応轍が続いているようだけど、前夜まで雨だったせいか何ともマディー。
そして、期待してはいなかったけど、すぐそこから未舗装。
まあ、何はともあれ発見できたのは幸いだったが、やはり微妙。
苦戦必死の予感がした。




 ますます勾配の度を強める旧道。
所々、路肩が弱り、ガードレールが宙に浮き気味だったりするが、もとの道幅が充分にあるせいで、まだまだ往来に支障はない。
というか、立派なもんだ。
これで旧道なんて、ちょっと贅沢だぞ。山形よ。
やはり、最大の問題は、この先のトンネルにあったのか…。

距離青看も健在。
そこには、「新潟101km 小国20km」と、チャリ乗り的にはちょっと軽く目眩がする距離。
まあ、新潟まで行く訳じゃないけど、いずれ日本海岸まで出ないと帰りの電車に乗れないので、遠い。


旧宇津トンネル 飯豊口
8:56

 ゆっくり走っても、ものの10分で旧道口から到着。
旧宇津トンネルの飯豊口である。
パッと見、新しいトンネルである。
というか、今までの廃トンネルでは見られなかった新しさだ。
まあ昭和42年竣工だが、この時代のトンネルなど、今でも各地でバリバリ現役だし。

上部に雪崩分けのコンクリ構造物を備え、スノーシェードも兼ねた流線的且つシンプルな坑門は都会的で、と同時に、宇津峠を一本で貫く主トンネルとしての威風を伴っている。
悪くない姿だ。

なのに、廃道。
とても、いつもの調子で「廃隧道」などと呼べる雰囲気ではない。
少なくとも、外見は。



 急な下りの右カーブを登ってきたが、振り返るとこの標識が。

“さか道”と、敢えて平仮名なのは、どんな意図があるのだろうか?
ちょっと、分からない。
別に崩れているわけでもないのに著しくひしゃげたガードレールは、みんな雪の仕業だ。
小国町は毎年積雪2mは下らない、日本有数の豪雪地であり、山間部となれば5mを越えることも珍しくないという。
ここはまだ飯豊町だが、小国町山一つ隔て接するあたりの豪雪も相当のものだろう。



 それにしても、この峠の新旧交代には、何か特別な事件でもあったのだろうか?
そんなことを勘ぐりたくなるほど不自然に、あらゆる物が旧道に残りすぎているのだ。
この、一式で数千万もするらしい電光掲示板も、雨ざらしになっている。
いや、もともと雨ざらしで使う機械だから、別に保存環境としては悪くないのだろうけど。
でも、もう使わない場所に置き去りというのも…。
どっかに移設して使えばいいのに。
簡単に移動できるものなら、絶対に盗まれてるだろうな、これ。



 ほかにも、とにかくあらゆる道路標示物がのこってる。
ありがちな国道の峠越えトンネルが、そのまんま捨てられている姿には、違和感を禁じ得ない。
将来、まさかまた使うつもりもないだろうし。
ただ単に、飯豊町で撤去費用がないだけなのだろうか。
国道113号線というのは建設省(今は国道交通省)直轄国道なんで、デリネーターにも誇らしげに「建設省」の文字が。



 トンネルが早々に廃止された最大の原因と目されるのが、ここまで何度も標識が予告し、ここにも幅員減少の標識があるように、その絶対的な幅の少なさである。
数字で言えば、幅5.5m。
それが、このトンネルのスペック。
これは、そのさらに30年も前に建設された栗子峠の栗子隧道よりも狭かったりもする。
しかも、延長だけは一丁前に915mもある。
よく考えてみると、これ、車道の廃トンネルとしては破格の長さでは?
栗子隧道(約800m)も越えているし…もしや東北最長クラス?


しっかりと通行止にされた坑門の奥は、果たして?







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