明治県道 仁賀保線  最終回 
公開日 2005.12.1



 明治県道の跡
 2005.10.24

3−1 一合目 篭立場

10:17

 鳥海山の1.5合目に位置する花立牧場から、いまは林道化されている明治時代の旧県道を、麓の矢島市街地まで下る。
途中、尾根の上の広大な牧草地を過ぎると、大きな松の木が目印の分かれ道。
この分岐で、右を選べば、いよいよそこから、明治県道の本領発揮。

 かつて、鳥海登山の修験者達が通った道であると同時に、高原を越え浜と山を結んだ商業街道の、ありのままの姿が、現れ始める。
この先に、無粋な轍はもはや存在しない。

 林道を分かれ100mほどで、再び道は二手に分かれる。(写真の箇所)
尾根に続く左の小道と、勢いよく下っていく右の大路。
どちらを選ぶかと問われれば…、 
相当に悩んだが、街道は右と踏んだ。


 

 路傍に佇み、木漏れ日を浴びる石版。

よく見ると、文字の代わりに、なにやら絵が描かれている。

よ〜〜く見ると、それは、如来様とおぼしき人物画であった。

あたりに、その由来を示すような物は何もないが、この道が歴史深いものであることを、無言で物語っているようだ。

軽く頭を下げ、尊前をチャリにて通過させていただく非礼をわびた。




 幾らも行かず、草色の道は日向の小さな平場に降り立った。
そこには、朽ち果てた木柱が立ち、消えかけたペンキでこの地の名前が書かれていた。
 「一合目 篭立場」とある。

各地の古い山道に、これと同じかよく似た地名が散在している。
これは、「休憩場所」という意味合いの地名で、実際にこの地名の場所には喉を潤す銘水が湧いていたり、胸のすく見晴らしがあったりするが、鳥海山一合目の篭立場は後者である。



 海抜400mの同地点からは、まだまだ遠き鳥海の頂を見晴らし、反対に目を遣れば、矢島の街並みが見渡せる。
時期があえば、矢島盆地に輝く金色の稲原や、きらめく子吉川などが、足元に広がることだろう。
古き旅人もまた、旅の疲れをこの景色に癒し、上る人も下る人も、それぞれの英気を養ったに違いない。

 いまはもう鳥海登山道の本道からも外れ、誰も立ち止まらなくなった一合目。
便利を追求した現代は、登山についても効率が優先され、いまや五合目まで自動車で一気に上れる。
人知れず枯れ果てた松の老木が哀れを誘っていた。
松は、道しるべというお役目を、全うしのたのだろう。

 私は、再びこうべを垂れ、本格的になった下りに足を向けた。



 矢島市街地にて現在の県道に合流するまで、高低差は300mにも達する。
しかし、その距離は現在のツヅラ折れの県道よりも遙かに短く、かなり直線的に結んでいるから、その勾配は言わずもがな。
車ではとても辿れないような小刻みなヘアピンカーブを連続させつつ、チャリのブレーキパッドが悲鳴を上げる下り坂が、続く。
明治時代に県道に指定され、昭和29年までは県道であり続けたこの道を、当時自動車が通っていたという記録はない。
しかし、道幅から言って、馬車やリアカーは勿論、バイクも通っていた可能性はある。
周囲の山林には笹藪が目立つが、路面の大部分は今も薄い草地になっているのみで、結構歩きやすい。


10:25

 当時の道のご多分に漏れず、ここもまた、基本的に路面は少し地表から掘られた窪地の底に設けられている。
このような道は、水はけが悪いという弱点があるものの、日影のため草地化しづらく長持ちしやすいのだろう。
下りも平坦な場所も問わず、この明治県道についても、その道中の大半が、浅い窪地の中にあった。

 さて、林道を分かれて下り始めて約10分。
杉の林が現れ始めるとすぐ、行く手に木橋が現れた。



 こ… こいつは…


 大丈夫なのか…。

渡っても、平気なのか。

まだ、そう腐ってはいないようだが、丸太はか細く、一歩踏み出しただけでよく撓る。
谷は狭いが結構高く、チャリごと落ちればただでは済まなそうだ。

 しかし、急斜面に迂回路も見当たらず、行くしかない。



 チャリと渡ると、幅は一杯一杯。

こんな写真を撮る余裕があったのかと言われそうだが、

わたしにとって、記録しない旅は旅ではない。

それは言い過ぎかも知れないが、とにかく、写真撮影は旅の目的の大きな部分であるから、ちょっとくらい無理はする。




 特にトラブルもなく、無事に丸木橋を突破。

もともとこんな道が県道だったのか、あるいは橋が落ちてこうなったのか…。

たぶん、前者である。
辺りには、橋脚や橋台の痕跡は見当たらなかった。

ともかく、この橋がネックになり、徒歩とチャリ以外では、この道は通れなさそうである。




3−2 分断する林道

10:28

 植林された杉林の中、明治県道は浅い掘り割りの猛烈な下り坂で、鳥海高原から駆け下っていく。
何処か遠くから、チェーンソーの唸りが聞こえてきて、里からそう遠くはない場所にいるのだと言うことを実感できる。


 この山中を歩くと、頻繁に水路と出会う。
街中で見かける側溝と同じようなコンクリ製の溝であったり、直接地面に掘られた凹みだったりするが、水の通っているもの、通っていないもの、様々な水路が、張り巡らされている。

 これらはみな、現在のように灌漑の技術が発達する以前、各村々や個人レベルで、山中の水源地から自らの耕す水田に引いた水路の名残だ。
現在は大規模な水路が建設されており殆ど利用されてはいないが、旧道筋には沢山の水路が交わり、また何処ともなく消えていった。

 

 急な下りが止み、車道と見紛うばかりの幅広の道となった。
法面は地肌のままで、明治県道と通してみても石垣など、大規模な構造物は見られなかった。
比較的穏やかな地形にあって、それほど地形に逆らわない道だったと言うことであろう。



 走りやすくなった道を進むと、突然日の当たる場所に出たと思えば、そのまま道は丘のようなものに遮られてしまった。
周囲は、再び杉の人工林である。

いったい、私は何所に出たのだろう。
また、麓には早いような気がするが…。



10:35

 そこには、明治県道を完全に分断する林道が通っていた。
これは、花立に登るときに資源開発道路に起点があった「篭立場林道」である。
この合流地点の海抜は300m、明治県道を約1km下ってきた。

 このまま林道を下っても麓に下りられるが、明治県道を辿るには、いったん林道を30mほど下ったのち、分岐を右に行く。
この写真の分岐だ。


 が、まだ油断してはいけない。
分岐を右に行くと、そこにも砂利道が続いているが、このまま辿っていってもいけない。
分岐からまた30mほどで、左に入るべし。

 しかし、ここに入るにはちょっと、勇気が要る。
とても分岐があるようには見えないからだ。
しかし、正解はここ一箇所しかない。



3−3   八 坂 


 夏草に隠されてはいるが、道は確かに存在している。
しかも、これまで以上に広い。
これは、かなり広いぞ。

 私も、これには驚いた。
これまで、各地の大きな国道の旧道なんかを見てきたが、これはなかなかのものである。
この辺鄙な矢島の地に、こんな立派な「大路」が隠されていたとは、意外である。



 そのさきは、まさに「楽園」の様な道だった。
チャリ旅をしていて気持ちがいいと思うことは色々とあるが、最近の私にとって一番嬉しいのは、「まだ知られていない道」を見つけた瞬間である。
この道も、確かに地形図には描かれているものの、それは何の変哲もない点線に過ぎず、おそらく明治県道などという事を地図から想像することは決して出来ない。
そして、現地にもこれといった案内があるわけでもなく、まさに、自分の力で発見したという誇らしい気持ちがある。

 こんな瞬間があるから、山チャリ… いや、別にチャリでなくても構わない…オブローダーというのは辞められないのだ。

 快晴の空のもと、静かなそよぎの森につつまれて、私だけの大路は、どこまでも続いているかのようだった。
それは、自動車やバイクの轍ひとつない、無垢なる明治道の姿であった。



 広い道は、まるでなにかの神術に守られているかのように、雑草に隠れることもなく美しい姿を保っていた。

かつて、どれだけ多くの旅人や村の人たちが、ここを行き来したのか。

昔を想う贅沢な空気が、ここにはある。

周囲の雑木林も、いかにも里山といった風情があり、
なんだか、優しいムードだ。
なんて居心地の良い道だろう。




 途中、下りが緩み、広くなった場所があった。

こんなにいい道なのに、なぜ轍が刻まれていないのだろう。
行く先にある景色をまだ知らない私は、そう思った。

なにやら意味ありげに広がる山間の小さな広場は、かつて何かがあったのではないかと、色々な想像をさせる。
昔話に出てくる、お爺さんとお婆さんの家は、こんな場所にあったのかも知れないな、などと。




 再び下りが急になり道幅をやや減らした明治県道は、一際深い掘り割りの底に蛇行しつつ続いていた。
足元にはぬかるむ箇所もあり、洗掘によって深く穿たれた場所もある。
ボブスレーのコースを巨大化させたような、不思議な掘り割りカーブの景色が続く。


10:48

 不思議な場所に出た。

そこは、またしても広場になっていたが、ひょっこりと現れた水路がこの場所で幾筋にも分かれ、それぞれ別々の坂へと下っている。
透き通った水が、苔生したコンクリートの溝のなかを、早瀬となって駆け下りている。
広場の片隅、ちょうど私が下りてきた明治県道の脇に、白い木製の細い標柱が立っているが、文字は完全に消えてしまっている。
また、水路が通る草地には、沢山のコンクリの標柱が立っていた。

 ここは、なんだろう。



 標柱には、「秋田県」と刻まれていた。
これは、県用地とその他の土地との境界を現したものだろうと思う。
これと同じものは、各地の県道や国道の傍に見られる。
相当に風化したものもあれば、そうでないものもあるが、全てが苔生しており、新しいものではあり得ない。
一部などは、「県」の字が、旧字体であった。

 この、水路を分ける場所が、県の所有と言うことなのか、あるいは、これぞ明治から昭和29年まで県道であったことの証しなのか。

その気になる答えは、もう少し進むと自ずから判明した。




 幾つもの水路が、道よりも高い場所を通って何処かへ消えていた。

道は、またも捻り込むような掘り割りヘアピンで、ますます激しく下っている。

この有様では、やはり明治県道は、車の通る道ではなかったのかも知れない。
道幅だけは、立派だが…。




 ここまでは、意外なほど倒木や雑草に邪魔をされずに進んで来れたが、いよいよ麓が近くなり、なんだか雑多な感じになってきた。
足元も泥濘が深く、チャリと自身の体の重さに任せ(いやはや、仕事を辞めたら体重が増えちゃったよん)、ぐいぐいと下っていく。
それでも、殆ど速度は出ない。
この付近にも、道に沿って点々と「秋田県」と刻まれた標柱が立っており、ここが県道であったことを、これで確信した。


10:53

 土地の人たちが「八坂」や「象坂」と呼んでいる篭立場の坂道は、遂に針ヶ岡のはずれにある水田に行き当たった。
日向に戻ると途端に深い夏藪が行く手を遮り、私のチャリや両足は、まるでジャムの中に突っ込んだようになった。
いや、それは本当にジャムみたいな粘着度合いで、ちょうどイチゴジャムには黒いイチゴの種が沢山入っているのに、黒い雑草の種がよく似ていた。

 これは、幾ら取っても取っても取れず、帰宅後遂にそのズボンを封印するに至ったのである。
(後日母親に発見され、その怒りに触れる。)

恐ろしいジャムもあるものだ。


3−4 最後の下り

10:55

 水田から、その持ち主のお宅と思われる場所まで50mほどの区間は、農耕車が通れるように砂利道となっていた。
その先は、おそらく個人の敷地だが、明治県道を下ってきてしまった以上、引き返せずやむなく通らせていただく。
母屋と農機小屋の間に、明治県道は真っ直ぐ突っ切っていた。
よく手入れされた庭の向こうには、針ヶ岡の家々が見えている。
私が出発した場所も、あの中の一つだ。
ジャムまみれになった私は、このままゴールへ近道したい衝動に駆られたが、ここまで来たからには、明治県道と現在の県道の分岐まで辿ることにした。
残りは僅かだ。


 農機小屋の前を失礼して…。

その奥にある、最後の区間へと進入。

道は塞がれており、車は通れない。



 やはり、そこにも綺麗に整地された道が続いていた。

いまも辛うじて歩く人がいるのか、轍はないが踏み跡は残っていた。

急で滑りやすい土の下り坂で両側の溝に落ちないようチャリを慎重に操りつつ下る。



 最後のハイライトは、この3次元カーブ。

あの黒森峠を彷彿とさせる、滅茶苦茶な角度の下り坂である。
しかも、路面は常時しけっており、とても滑りやすい。

ここを抜ければ、やっとゴールが見えてくる。



 水上地区最奥の民家が現れた。


 最後は、ちょっと通るのが申し訳ない庭化した道。
県道用地はすでに町や個人に払い下げられているのだろう。


 逆から見ると、こんな感じの場所に出る。

ちょっと、こちらからでは入る気になれない。
とても4kmも続いていて、花立牧場まで行けるようには思えないだろう。

なんか、あんまりにものんびりした景色で、口を酸っぱくして「かつて県道だった」などと騒ぐのも虚しくなってきた。

実際、昭和29年の道路法改正以前の県道などと言うものは、名前だけあって身の伴っていない路線が相当数含まれており、車で走行できることはあまり問われなかったようである。
故に、「稀に見る荒れた旧県道だ!」などと言っても、そもそも比べるべき道は、現在の県道ではないわけで。

 ま、それを言ってしまうと、オブローダー的にはちょっと寂しいか。



 この先、現県道までは軽トラスペックのコンクリート舗装路が、100mほど。
県道沿いまで、他の民家はない。

小さな一本杉とこじんまりとした墓場が目印の、県道旧道合流地点に、いま2時間半ぶりに戻った。
ここは、海抜100m。
鳥海山の、0合目だ。



 この写真の分岐地点は、2時間30分前には雨に煙っていたが、いまは秋の日差しに照らされ陽気なムード。

分岐地点の木柱には、「鳥海山旧登山路入口」と書かれていた。
木柱は、さっきコンクリート柱が並んでいる場所で見た、文字の読み取れなかったものと同じ形である。

 いまはもう、この道を登山道として使う人はおらず、ましてや、県道だったことが語られることも殆どない。




 私は、その辻分けに置かれた、小さな石の道しるべを、今度は見逃さなかった。
2時間半前の私は見逃していたし、おそらく、今回の探索を行わなければ、永遠にこの道しるべに気がつくことは無かっただろう。
そこにあるにもかかわらず、余りにも存在感が薄れてしまった道しるべ。
県道のコンクリに半ば埋もれた、道しるべ。
でも、道しるべは、今も役目を果たしていた。

 気がついた者だけが、その案内を受けることが出来る。


       
    針   仁
    ヶ    賀
    岡    保




 このレポートを、旧矢島町の親切な住人の皆様に捧げます…。









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