千葉県道296号和田丸山館山線旧道 旧遠藤隧道“おかめぼら”

所在地 千葉県南房総市
探索日 2008. 3.15
公開日 2008. 3.22

 平成18年3月に、に房総半島南部にある6町1村が合併して誕生した南房総市。
東本州では最も温和な一帯として知られ、冬でも菜の花が咲き、街路樹にシュロや椰子が使われている。
西は東京湾、東は太平洋に面する広大な面積を擁するが、その大部分は細かな起伏の丘陵地帯になっている。
そして、随所にトンネル・隧道が存在している。

 『明治工業史 土木編』によれば、明治時代に新たに掘られた全国の隧道は358本(この数字は、県道以上と思われる)。
その20パーセントを越える76本が千葉県域にあったというから、当時間違いなく日本一の隧道保有県であった。
半島の地質が隧道を掘るのに好条件であったことはもちろん、江戸時代から“川廻し”というトンネルによる河川改良を民間レベルで多く経験してきたこと、また、古くから山間部にも人里が開けて里々を繋ぐ交通路が多く拓かれてきたことなどが理由にあると思う。

 「山行が」でも、半島内のレポートとしては、多数の明治隧道を含む『道路レポート 国道127号』を公開済だが、今回約1年ぶりに房総を訪れて、またいくつかの隧道を探索した。
この日の探索は鉄道廃線がメーンであったのだが、旧遠藤隧道は前々から来てみたいと思っていた場所だったので、無理矢理計画に組み入れた。
ネット上に事前情報らしいものもなく、地図と町史だけが頼りのオイシイ隧道探険だ。

 【mapion 周辺地図】

 隧道の経緯などはのちほど紹介する事として、まずは早速旧道から旧隧道へと辿ってみよう。

 私を房総へと招いた鉄道ファンの友人、「湯島のとも」氏および「R28」氏が一緒に歩いてくれた。
二人とも「廃道」は初めてだと言うが、現在の地形図にも旧隧道は点線道の奥にしっかり描かれているくらいだから、さほどの苦労はないと思う。
そんなことよりも、坑口の安否が気になるのだ。
現存しているかというのはもちろん、変な改築で原形を失っていないか… だ。



 旧遠藤隧道の坑口には、珍しい “ある意匠” がある筈だ。





春めく野山に漆黒の穴

 遠藤隧道という名の明治隧道


2008/3/15 11:01

 現在の遠藤トンネルの東側200mほどの地点で旧道が左に分かれる。
分岐地点には。丸山町がかつて町の各所に立てた風車のモニュメントがあって分かりやすい。
2車線で舗装された現道に対し、旧道は未舗装でしかも轍のあいだに草が生えた、如何にも畦道だが、廃道ではない。
それこそ、両側の田畑の耕作路として現役である。


 気付いた?




 新・旧遠藤トンネルは、現在では共に南房総市に合併した安房郡丸山町と同郡三芳村との境になっていた。
100mほど歩くと、右手の現道は丘の向こうに隠され、前方には濃緑色の山並みが近づいてくる。
森の木々には落葉しないものが多いようで、早くも若草が一面に芽吹いた畦の様子と共に。いかにも房総らしいと私なんかが感じる景観である。


 ねえ、 気付いた?



 イイ感じの木陰の下をくぐり、アールいくつなんていう数式で表現できない微妙なカーブがいくつも現れる。
狭まりつつある谷筋に道は依然動じる様子もなく、穏やかな轍を連ねていた。

 ここに、近代道路が強制した効率の道は無い。
交通が、いまよりずっと“地面と仲良し”だった時代のままの、自然の道が続いている。

 地図を見る限り、もう遠くなく隧道は現れよう。
そうすれば、今の蜜月の関係も劃されることになるだろう。残念である。
隧道は楽しみだが、この短い旧道の風景に… 私はあっという間に虜となっていた。



(左写真)
 分岐から250mほど進んだところで、遂に道の状況は車輌交通に適さない荒廃を見せた。
依然として、畑の畦が整備されて続いているが、本来の道は私が写っている右の濠のようになっている場所だ。

(右写真)
 それにしても、道は相変わらず緩やかなままで、峠へ登ろうという気迫が全く無い。
それどころか、この小さな沢の中の最も低い場所を道が陣取ってしまっている。
しかも、行く手には薄暗い右カーブが…。
どうやら、登りらしい登りもなく隧道に達したようだ。



 今回の記録係は私ではない。
商業誌にも登場しているプロのカメラマンである「湯島のとも」氏が撮影してくださったものを拝借している。
画質は落としに落としているが、その表現力の(いつものレポートとの)違いに気付いた人もいると思う。
今回のレポートは、彼の写真をデフォで使用させて貰った。私が撮影したものは注記を添えた。




11:07
事前調査では安否が不明であった旧遠藤隧道は、下手に手を加えられた様子もなく、全く健在な姿で光を通していた。
ここまで一滴の汗もたらさず、余裕綽々の到達だ。
そして隧道健在と言うことで、私が期待する発見への、“第一にして最大の関門”が突破された。

 どことなく胎内を連想させる艶めかしい岩盤の波紋様によって自然と視線が奥へ誘導される。
自然のままだがとても美しく、整った印象を受ける坑口だ。




 (もうばれたか? ここから少し私の撮影)

 『丸山町史』には、明治19年の竣工とある。
明治隧道が多い房総の中でも古い部類に入る。
昭和9年に現在位置に新道が出来るまで、房総半島を横断する重要な県道として盛んに利用され、大正時代には登場したばかりの自動車も往来したという。全長などの諸元は記録されていないが、地図や現地の目測を総合すればちょうど100mくらいだ。幅は2間(3.6m)、高さは4mと見る。
今日的な車道トンネルとは較べるべくもないが、一車線のものと考えれば結構ゆったりしている。

 地山そのものが露出する内壁には波紋のような凹凸と、鑿の跡と思われる擦過創が見られ、外光がつける陰影が美しい。。
また、その路面は公園路を彷彿とさせるような美しい玉砂利敷きであり、両側に水を湛えた側溝まで完備しているあたり、現役でないことが不思議に思えるほどの「完全状態」である。
その気になれば、普通自動車で容易に通行が可能だと思う。




 隧道自体は「完全状態」だが、我々が接近した丸山側坑口前の線形はよろしくない。
ご覧のように、70°くらいのブラインドカーブに直結していて、洞内で車同士がすれ違えないことと合わせ、モータリゼーション下におけるユーザビリチーには問題がある。



 風蝕に晒されて角が大分取れた印象の内壁。
房総の多くの素堀隧道で見られるものと大差ない、海洋性の堆積土壌である。
天井の一部に崩壊によって高くなったと思われる凹みがあるが、落下した土砂は処理されており、前述の通り現役さながらの「完全状態」にある。



 だが、この遠藤隧道にはいくつか謎の部分もある。

その一つは、通常の素堀隧道に較べて圧倒的に石灰分の析出が多いことだ。
地山から沁み出た水が、壁にクリーム色の鍾乳石を無数に形成している。
コンクリート製の廃隧道でよく見られる「コンクリート鍾乳石」と似ているが、しかし壁はコンクリート製ではないはずだ。
とはいえ、素堀隧道に天然の鍾乳石というのも如何にもおかしい。

 地山の成分に秘密があるのか。
ともかくこれは本隧道の謎である。
房総は酸性雨の被害が多く発生してきたエリアだけに、関連性を想像することも出来る。




 隧道内には照明などはないが、かつてそれがあったかも知れない痕跡はある。

写真は、壁に取り付けられていた合板と思われる板の切れ端。
電線、電話線、照明機器、このいずれかが取り付けられていたものと想像する。




 洞内生活者もいる。

私が目撃したのは、この余り美味しく無さそうなサワガニと、さほど多くないカマドウマである。
空気が良く流れているので、廃隧道にありがちな陰鬱としたムードはほとんど無い。




 もうひとつ、謎の構造物。

壁に 鼻輪 のような穴。

穴の直径は5cmほどで、目線くらいの高さの側壁に“く“の字形に穴が通されている。
見たところ、同じようなものはあたりに見られず、これ一つだけである。
しかし、前に伊豆半島の某地底石切場に連れられて潜ったときにも、似たようなものを見た憶えがあるし、他でもどっかで見た気もするんだが…。
いずれ、この構造の意味はいままで解らないままだ。
何かロープを通していたような穴にも思えるのだが…。
心当たりのある方は、是非教えてください。




 人面の浮き出た …呪いの隧道?


 この左右の写真は、ふたたび「湯島のとも」氏による。
 いずれの写真も、 洞内の「完全」な状態が良く切り取られていると思う。
「そうだよ! 俺たちはこんなイイ景色を見て探索してるんだよ! だから廃隧道って良いんだよ!!」
 そんな説得力のある写真だ。

 廃隧道だって、こんな風にちゃんと写真に記録として残して貰えば嬉しいだろうにねー。
俺もゆくゆくは一眼レフ欲しいけれど… どうも壊しそうでね…高いしね。




 で、また私のカメラに戻って…。

 写真は、三芳側(西側)の坑口直前にある、内壁を一周するような溝の跡だ。
左の写真が両側の側壁部分で、右の写真は天井部。
厚さ15cmくらいの板状のものが嵌め込まれていたように見えるが、支保工でも無さそうだし、なんだろう?
町史にも現役当時の写真がないので、いろいろ謎を残す探索になってしまった。




11:14
 延長100mほどだから、いかにのんびり歩いても数分で三芳側の出口へ着く。
早くもすぐ先に人家が見えているが、道はその敷地内を突っ切っているようだ。
また、イイ感じの草道になって続いてる。

 それにしても、ここは峠越えという感じが全然しない“山の町村界”である。
今回は新旧道の分岐地点から歩いたが、数キロずつ離れた旧三芳村、旧丸山町役場から見ても、30mも高低差は無いのではないか。
ほんとうに、穏やかな地勢である。
そんな中、侵食しきれなかった尾根筋だけが線のように切り立っているから、明治期をして山裾の根元から隧道で貫かれることになったのだろう。
明治隧道というと、峠のてっぺん近くまで登るだけ登って、いい加減もう登りきれなくなって申し訳程度に掘られる印象が強いが、ここは全然違う。
その証拠に、現トンネルとの高低差は10mもないし、延長もさして変わらない。




突然ですが…






おかめ です。

朝の食卓でお馴染みですね。
ちょっと目線にボカシ入れましたけど。




旧遠藤 隧道 です。

三芳口です。





おかめ + 隧道 = ???





 実は、この隧道には“別名”があるのです。
そのことは、『丸山町史』に書かれています。
一見、房総にあってはさほど代わり映えのしない素堀隧道ですが、私がずっと来たいと思っていた訳は、そこにありました。
ちょっと、引用してみましょう。

 この隧道の三芳側入口の上部に、稲都小学校の一女生徒の絵を下絵にしたというおかめの面が彫られており、一名“おかめ洞(ぼら)”と呼ばれている。


 でた! おかめ洞(ボラ)!



 何ともそそるネーミング!!

お面恐怖フェチの私にとって、おかめひょっとこは苦手の二大双璧ですから、ただでさえ不気味な廃隧道に“おかめ”がプラスされたと有っては、これはもう、「廃隧百戦錬磨」と自惚れる私がちびり倒す(?)くらいのインパクトがあるかも知れないと、…そう踏んできたわけですな。
いわゆる、怖いもの見たさの心境ですよ。





 …そんなわけで、この三芳側坑口なんですが…


おかめさん、いない?



 もしかして、拡幅とかで壁ごと消えてしまったの?

すぐそばで畑仕事中のおばあさまがいたので、おかめの消息を聞いてみることに。

 「…すみません。お仕事中。」

 「あの……。 おかめの面は、今もう無いんでしょうか?」



  ……。

 …ふむふむ。 

そういうことですか……。





 恋い(怖?)こがれて来たおかめ洞のおかめさんですが、

風化してほとんど消えてしまったとのことでした。


 残 念 !

でも、まだ微かに痕跡があるということで、「あった」という場所をよーく見つめてみると……

  … … ・・ ・ ・ 。



 ちょっとあるかも?




 たしかに、ほぼ平板な坑口上部の壁面に、孤を描く溝が一本見えている。
これが“おかめ”さんのふくよかに下ぶくれた“右ほっぺ”だとすると、これは想像していたよりも遙かに巨大な、大顔面であることになる。
きもいような、かわいいような…。

 おばあさまの話でも、実際カオはかなり大きかったという。
だが、もう何十年もちゃんとした姿を見ていないそうだ。
雨で風化したとも、ツタに隠されてしまったとも言っていた。


 こうなったら……









近くにあった竹竿で、壁に張り付いた雑草(ツタ)の除去を開始。

おかめさんの救出作業だ!

しかしこれがまた、思いのほかに大変だった。
剥がれた土の塊とか枯葉が、全部私の顔面に落ちてくるんだもの。




 うーーーーむ。


なんとなく、それらしいカオのパーツも有るような気がするといえばするが、やはり明確なのは「下ぶくれの右ほっぺ」のみだな。

しかも、表情を書き加えたら、余計に気持ち悪くなってきたよ orz。

…おかめへの苦手意識を克服するための探索でもあったのに、やっぱりおかめッて苦手だわー。




11:26

 10分ほど格闘したが、おかめらしきほっぺを確認したのみで退散することになった。

 それにしても、なんでおかめだったんだろう?
そもそも、どうして隧道の坑口上部に、こんな巨大なカオを表現してみようと思い立ったのか。
おそらく明治の竣工直後から有ったんだろうけれど、扁額ではなく“おかめ”というところに、非常な謎を感じてしまったのだった。

 こんな考えは少し大袈裟かも知れないけれど、おおむね明治維新以降の土木技術は西洋を教本にして発達したし、隧道技術についても坑門のデザインなどというのは西洋建築の模倣が色濃く表れている。
今日に至るまで、日本独特の坑門建築というものを確立したという話を聞かない。

 そんな中にあって、日本独自の川回しあたりから発達しただろう千葉の隧道に、坑門の意匠として日本古来のおかめの面をデザインしたというのは、図らずも独自性を発揮してしまったようで面白い。
もしこんな坑門が日本式だと広がっていたら、今頃我々の周りには、政治家や有名芸能人、果てはアニメキャラのカオをデザインした坑門で溢れていたかも知れない…。





 明治の旧道は、坑口から50mほどである民家の敷地内を横断する。
そこから先は舗装されているが、この区間は公道なのか私道なのかも分からないし、かなりプライベートな雰囲気の道である。
我々が確認しただけでも、この道に対しては数え切れないほどのニワトリと、最低3匹のニャー、相当数のべご、1匹以上の良く吠えるワンコが領有権を主張している。
彼らのうちにどれか一つでも苦手がある人は、通過は諦めた方が無難だ。




 軒先を過ぎると、すぐに広い道にぶつかる。

 地図を見ると、これはまだ現道ではなくて、たまたま旧道の一部が能面農免農道に呑み込まれて使われているだけである。
写真はこの合流地点を振り返って撮影した。
真っ直ぐ行く狭い道が「おかめぼら」へ続く。
隧道が貫く背景の山が意外に高くて切り立って見える。
確かに、隧道で抜くには効率的な形である。

 さて、事実上これで旧道らしい旧道は終わりだ。
あとは現道との合流までもう150mほど、単調な舗装路になる。



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 オマケ 現在の遠藤トンネル 


11:33

 能面農道になった旧県道を200mほど行くと、広々とした現県道にクロスする。
その先にも旧道は里道のようにして続いていたが、我々はここで引き返した。
あとは、遠藤トンネルをくぐってクルマの元に戻るだけだ。

 なお、丸山町史にておかめの面の原作者の女生徒が通っていた稲都(いなみや)小学校というのは、ここから1.2kmほど西に進んだあたりにあったのだろう。
今は小学校はないようだが、稲都という字がある。




 踵を返すようにして進むと、登りとも言えないようなささやかな上りの先に、路幅よりもひとまわり小さなトンネルが見えてきた。




 昭和9年に竣工したという、遠藤トンネルだ。
トンネルをくぐった旧丸山側の最寄りバス停の名前がそうなっている。
昭和9年にしては立派な断面だと思ったが、調べてみるとどうやら昭和35年に改築されているようだ。
「隧道リスト」(ORJ公開『隧道データベース』より遠藤隧道)にも、昭和35年竣工、延長139mと出ている。

 ちなみに、扁額の文字は平仮名で「えんどうずいどう」。




 洞内は真っ直ぐで、内壁は房総で最も一般的な素堀吹きつけだ。
白線は敷かれていないが、ギリギリ2車線の幅はありそう。
そのぶん歩道はない。
記録上の幅員は5.5mである。

 まあ、これといって印象的なトンネルでもないのだが、最後の最後に一発カマしてくれた!

それは、丸山側にトンネルを出てすぐ、坑門を振り返ったときにあった。





 おかめ …じゃなくて
銘板の名前が違うよ〜。

 遠道隧道って、ずいぶん自虐的だな(笑)。

 なにより、字面のインパクトが凄い!!!
4文字全てがしんにょう(shin-nyo)だし。




 バス停や、隧道リスト、町史などの表記は間違いなく「遠藤」なのだが、いったい銘板制作者に何があったんだろう。
そもそも、遠藤というのも、この辺りにそんな地名はないようだし、由来が分からない謎の名前なのだが。


 …“おかめ”といい、銘板といい…

なんだかおかしい「えんどうずいどう」でした。

こういう隧道、大好きです!