隧道レポート 五岳荘隧道 <後編>

所在地 神奈川県鎌倉市
探索日 2008.6.27
公開日 2011.1.31

塞がれた隧道は、世にも奇妙なものだった!


※大変お待たせしました。 本当は再訪してからこの「後編」を書く予定でしたが、
 いつまでも再訪の目処が立たないので、とりあえず書ける範囲で書いちゃいました。
 いつか再訪編をやるかもしれませんが…。


2008/6/27 12:58 【現在地(マピオン)】

鎌倉市大町三丁目の一角。
普通に大通りを通っていては絶対に気づかないような場所に、新旧の関係と思われる2本の隧道が並んでいる。
目指していたのは右の石造りの隧道で、扁額に「五岳荘」と右書きされているなど、十分な古さと重厚さを感じさせる一本だが、残念なことに最近役目を終えて埋め戻されたばかりだった。




埋め戻された隧道の反対の坑口を確かめるべく、裏へまわることにした。
そのために使うのは、当然この隣にある隧道だ。

旧隧道に対する新隧道にあたる存在だが、大仰過ぎる旧に対し、極めて現実的な姿をしている。
扁額は存在せず、というか意匠自体が何もない、ただの素堀にコンクリートを吹き付けただけの隧道である。


外見以外での旧との違いは、自動車の通行に対応する横幅があることだ。
しかし天井はむしろ低くなっているようにも思われ、断面積は旧新あまり変わらないかも知れない。

そもそも、自動車が通行できるとはいっても、超ギリギリだ。
完璧な車体感覚を身に付けていないと、うっかり擦ってしまいかねない極限の狭さである。
一般道ではないようで、特に通行規制のようなものは見られないが…、面白半分で突撃するのはやめた方が良いだろう。

あともうひとつ、この隧道はかなりの急坂で登っている。
外は平坦なのに、隧道内だけ急坂なのである。
そのせいで、路面は特殊舗装になっている。




隧道の長さは目測20m程度ととても短く、急な登り坂とはいえ、あっという間に通り抜けられる。

そうしてたどり着いた出口だが、こちらも全く飾り気のない坑門だ。
坑門の両側にあるコンクリートの壁とは明らかに風合いが異なっており、それが後から掘り直したことによるのか、隧道自体は前からあったが、コンクリートの吹き付けのみ新しいのかは、はっきりしない。

さて、次は出口から進行方向を撮影したいところだが、ここで問題が発生した。
ひょっこり外へ出た私を待っていたのは、住民による誰何の声だったからだ。

隧道の先には、この隧道でしか出入りできない数軒の民家があるだけで、住民と業者以外が通り抜けることは滅多に無いのだろう。
どうかしましたか?」という言葉と少し怪訝そうな表情で迎えられた私は、素直に「隧道が見たい」と答え、すぐ隣に口を開けている旧隧道の裏口拝見を請うた。
それはなお一層の戸惑いの表情を与えたが、すぐに了解を受けて安堵する。
しかし、私の行動はすでに暗黙の監視下に入っており、この状況で住居が入り込んでしまう進行方向の撮影は気がひけたのと、防犯上の理由から、進行方向および引きの写真は無しです。あしからず。




13:02 《現在地》

上の写真のところから、左へ10mほどスライドすると、同じ並びにこれがある。

五岳荘隧道(仮)の南口というか裏口というか、ともかく反対側の坑口である。

嬉しいことに、こちらは開口していた!

そしてこちらの坑門は、裏口という表現がやはりぴったり来る気がする。
それはアーチだけが地山から突出したような至ってシンプルなもので、扁額も存在しない。
通常の隧道では両坑門の意匠は同じであることが多いが、ここは明らかに表裏のある立地ゆえ、こういう格差が生まれたのだろう。

しかし、これはこれで綺麗な坑門だと思う。
断面に比べて大きめな石材でアーチを作っただけで、十分に機能美を発揮している。
反対の坑門ではコンクリートのべた塗りに置き換えられてしまっていたアーチ部分が、ちゃんと石造のまま残っていたことが最大のポイントである。




なんと!

洞内には照明が点灯していた!


う、 埋め戻されているんだよね?

後で私の挙動を見守っている住民の人にも確認してみたが、確かに反対側は埋めてあるという。
ではなぜ照明が?
そう聞きたい気持ちを抑えて、住民さんの気が変わらないうちに洞内探索を優先することにした。

入ることが出来ないと思っていた洞内に、入れる喜び。
顔に感じる、ひんやりとした空気。
重厚な石組み坑門も実は飾りで、洞内はさっそくコンクリート巻き立てだったことにも気づかないぐらい、興奮していた。





え?

な、なんだこれ??





洞内分岐

だと…?!


か、完全に予想外の展開…!

これは変態的展開!!!




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なんと五岳荘隧道には洞内分岐があった。

こんな短い隧道に、どうして洞内分岐があるのか、意味不明。

そして、枝分かれした隧道にも照明が点灯しているが、5m足らずで埋め戻されている…。
私の脳内のコンパスが正しければ、この埋め戻された先には新隧道が横切っているはずだ。

この件について立ち会いの住民さんに聞いてみたが、今ひとつはっきりしなかった。
というのも、こちらの隧道の方が古いらしいが、向こうもそれなりに古く、建設当時の記憶が曖昧であることと、封鎖後の隧道にはほとんど立ち入ったことが無く詳細は分からないということのようだった。

たとえ自宅の敷地内か、それに類する場所に隧道があっても、とりたて興味を感じない人もいるのだ。
また、それだけ空気のように馴染んでいると言うことも出来るだろう。




これは上の写真の所から、すこしだけ本坑(かな?)を表口の方に進んでから、振り返って分岐を撮影したもの。

ただ洞内分岐があるだけでも驚きなのに、表口から裏口へ抜ける場合でも直進は出来ず、分岐の前後でカーブしている。
むしろ直進すると支坑に入り込む感じもする。

いや、実を言うと本坑や支坑などという区別はないのかも知れない。
少なくとも坑道のサイズはどちらも一緒で、照明も内巻きも同様に施されている。
普通に考えれば、出入り口を最短で結ぶ「裏口←→表口」が本坑のように思われるものの、3つの坑道が洞内の一点に収斂するような高度な線形を意図した可能性もある。
もちろん、単なる測量のミスで各坑道がずれた可能性もある。






それともう一点。

この閉塞地点直前の右側(裏口側)側壁には、四角く切り取ったような横穴部がある。
しかしこちらは残土で埋め戻したようになっており、奥行きも不明である。

隧道内の横穴といえば、まずは防空壕を疑うところだが、住人さんに心当たりがないとのこと。




そしれこれが99パーセントの確率で、埋め戻された【表口】の裏側である。

99パーセントといったのは、もしかしたら私の空間把握が間違っていて、支坑のほうが表口に繋がっている可能性も捨てきれないからだが、多分間違いないとは思う。

こちらも終点まで照明が取り付けられており、しかも点灯したままだ。
何かに利用されている様子はないが、消灯しない理由は不明である。(私がお話しを伺った住人さんが管理しているわけではないらしい)




13:05

少々人目を気にしながらではあったが、無事に洞内の全貌を把握することが出来たので、脱出する。
3本の坑道を全てあわせても、せいぜい30〜40mのごく小さな隧道である。
むしろここでは短いことが驚きで、これほど短い隧道に洞内分岐がある例を、私は他に知らない。




そしてこれは、完全に私の目測で作った洞内の地図である。

やはり疑問が残るのは、3箇所の埋め戻しに関することである。
その第一は、支坑がどこへ通じていたのかと言うこと。
もしかしたら新隧道を乗り越え、北東方向に別の坑口があった可能性もゼロではないが、さすがに可能性は低いだろう。
再調査があれば、その辺は改めて確認したいが…。

第二は支坑の側壁にあった横穴の正体である。
この隧道を利用した全世帯の全員にお話しを伺えれば、何か分かるかも知れない。

第三は本坑が表口の坑門と直線では結びつけられないように思われることがだが、これは私の見込み違いかも知れない。
しかし、埋め戻された区間が実は1mとかではなく、カーブひとつ分くらいあるのかもしれない。
やはりこれも、埋め戻した張本人に聞かないと分からないだろう。




隧道が出来た経緯について、住人さんのお話しを伺う事が出来た。

まず、扁額に書かれている「五岳荘」という名前だが、これは隧道の名前と言うよりは、隧道の先(つまり住人さんお住まいの一角)にかつてあった同名の建物に由来するという。
そしてこの「五岳」というのは鎌倉を取り巻く五つの峰の総称で(鎌倉は周囲を山に囲まれている)あり、ここはかつてとても見晴らしの良い場所だったということ。
さらにこの旧隧道は、五岳荘へのアクセスルートとして建設されたものである。

以上のような情報を入手したが、謎も沢山残ってしまった。
まずは「五岳荘」とはいかなる建物だったのかということ。
雰囲気的には、文人に愛された料亭や社光クラブのような感じを受ける。
そしてこの五岳荘の成立や旧隧道の竣工した時期である。
これも、相当に古いというニュアンスは伝わってきたが、戦前なのか大正なのか、或いはもっと古いのかは、はっきりしない。
また、新隧道の竣工の時期も同様に判然とはしなかった。
旧隧道は内壁がコンクリート巻きで、石組みの坑門も内壁と同じサイズで施工されていることから、明治生まれではなく、大正以降だろうと私は思う。


街角の奇妙な隧道。

謎があるから面白いという感じもするが、それでも私はこの隧道の謎を全て解き明かせる日が来ることを、願っている。
何かご存じの方がおられれば、ご一報いただきたい。