ま ん ぼ の へ ぐ り
二階層洞穴
山形県東田川郡朝日村

 『 へ ぐ り の ま ん ぼ 』

一度聞いたら忘れられない名。
それは、どこか呪術的な響きがある。

古い土地の言葉で、“まんぼ”は坑道などの隧道を表す言葉で、「へぐりのまんぼ」とは、現代語で言い表せば「川の洞窟」ということになるのだろうか。

この特異な洞穴は、自然に生じたものではなく、人工物である。
その竣工は、なんと、1730年頃と伝えられており、おおよそ竣工後270年が経過している。
これは、間違いなく、山行が史上最も古い隧道の記録となるだろう。

その名を初めて知ったのは、『山形の廃道』内の「旧名川橋」のレポートであり、その奇妙な名に興味を覚えた私は、管理人氏に情報を頂いて、現地調査に赴いたのである。

山行が史上初の、江戸時代洞穴。
それでは、ご覧下さい!!




 現地は、山形県東田川郡朝日村、村役場のすぐ傍である。
鶴岡から国道112号線を10kmほど南下すると、大鳥川を名川橋で渡るが、へぐりのまんぼが口を開けているのは、この橋のやや下流側の河床部分である。

私は、2004年夏、暑い盛りの8月25日に、チャリにて現地を訪れた。
朝に鶴岡を発し、午前9時前には、名川橋が見えてきた。
へぐりのまんぼを攻略した後には、その足で、朝日スーパー林道を越えて村上市を目指す予定である。

国道の名川橋のとなりには、目立つ鋼鉄のトラス橋が残されている。
言うまでもなく、これが旧名川橋である。




 旧名川橋は、これぞ鉄橋というような説得力のある姿をしている。
奇跡的に銘板が親柱と共にほぼ全て現存しており、竣工昭和6年6月と知れた。
橋の鶴岡側袂はT字路になっており、国道としてはどうしょうもなく悪い線形である。
脇の現橋に取って代わられたのも止む無しであるが、旧橋も取り壊されるどころか、車輌通行さえ許している。

この橋の上から眺める、朝日山地を背景にした大鳥川の広い川原の景色は素晴らしく、思わず川遊びに興じたくなる。
村役場は、ほんの数百メートルの距離であり、朝日村の環境の良さは、鶴岡都市圏近郊でありながら、特筆に値する。



 旧名川橋の鶴岡側袂のT字路の一方(下流側)はすぐに現国道にぶつかるが、上流側に続くのが、通称“ヘグリ道”と呼ばれている、間道である。
大鳥川の河岸崖を削って設けられた砂利道が、1kmほど先の本郷集落まで続いている。
この道が、穴への入り口となるが、私は最初その場所が分からず、本郷集落まで行ってしまうことになる。

正解は、T字路から50mほど進んだ場所にある、河床へ降りる鉄階段だったのだが、写真の通りの気持ちのよい森の道ゆえ、思わず通り過ぎてしまった。
レポも、寄り道にもう少しおつきあい願いたい。



 ヘグリ道の中間地点の小さな峠。
両側に石垣が築かれ、古い道であることを感じさせる。
また、川側の法面には、赤い手摺りのついた急な階段があって、その上の、川を見下ろせる高台に、龍神社がある。

なんとも、良いムードの道である。
砂利道であることも、法面が石垣のまんまであることも、明らかに村の作為と感じられるのである。
敢えてコンクリに覆わせない配慮。 粋と言うより他はない。



 急な階段の先は、小さな龍神様のお社。
ヘグリ穴は、この下の崖を貫いているのだが、関連性は不明。
社はちゃんと清掃されており、好印象。
階段が急すぎて、少し恐いが。



 そして、下っていくとそもまま、本郷集落に至る。
この辺りの河床にも、「弘法穴」と呼ばれる、奥行き2mほどの人工的な穴があるというが、これもまた、へぐりのまんぼと同様の由来を持つものの名残なのかも知れないと思う。

さらに集落を進むと、一本の橋が、大鳥川を渡っているのに出会う。
対岸は、村役場のある下名川集落である。
 



 かつては主要地方道余目温海線に指定されていたこともある本郷橋。
現在は100mほど上流に、県道は移動した。
1車線の長閑なコンクリート橋は、10トンの重量制限が敷かれているが、その下の補助標識には「自主規制」の四字が。
なんとなく、標識まで長閑やね。
自主規制というのは、義務のない規制と言うことですか?

一部親柱が、改修によって全くののっぺらぼうとなっていて、残念ながら竣工年は不明ながら、昭和初期と思われる造り。
欄干が、何やら波打っているのは、仕様??
自主規制でなくて、ちゃんと重量制限しないと、危ないんでは?!


 旧本郷橋から眺める、へぐりのまんぼのある川原の様子。

あの緑の山の中に、どんな地底空間が眠っているというのだろうか。

いよいよ、興奮してきたぜ。

再び、来た道を辿り、今度こそ穴への入り口となる階段を、発見するに至る。




 ヘグリ道から急な鉄の階段を下る。
写真は、河床から階段を見上げて撮影。

実はこの階段は穴のためにあるものではなくて、川原にある水路の管理用の物なのである。
ちょうと旧名川橋の下から取水する水路があって、灌漑用に使われているようだ。
階段の入り口には、立入禁止の表示があるので、注意。
また、鉄階段は濡れていなくても滑りやすいので、警戒。


 そして、取水口から、旧名川橋を振り返る。
現在の名川橋も、陰に隠れて見えている。

水路は、勢いよく澄んだ水を通している。
まるで、へぐりのまんぼから続いているように錯覚するが、全く別のものだ。

大鳥川の取水堰が、小気味のよい水音を立て、清涼感を奏でている。




 この日は水量が少ない上に、堰上の水流は極限まで分散される為、極めて浅くなっており、スニーカーのままでも川の真ん中まで来られた。
そこから、ヘグリ道のある斜面を見る。
道は森に隠されているが、川原に面した崖の、白い岩肌には、何やら微妙な違和感を感じる。

穴 の気配が、する。




 取水口から10mほど上流の、まさに河床部に接する崖に、穴が口を開けていた。

これが、へぐりのまんぼである。

270年目の真実とやらを探るため、私は、おもむろに坑口へと歩みを早めた。
そこに道はなく、川に落ちないように木々を糧に斜面をへつる必要があった。




 水面から40cm程度の位置に、高さ2mを越える穴が、口を開けていた。
立ったままで進入できる大きさがある。

このへぐりのまんぼだが、事前情報収拾によって、その目的は判明してる。

今からおおよそ270年前。
下流一帯の庄内平野を灌漑するべく、大鳥川から取水する新しい灌漑用水路計画が、鶴岡市の科革屋仁兵衛という商人によって成された。
当時から既に庄内平野の灌漑は、青龍寺川といった人工河川によって行われており、一定の成果が上がっていたものの、限られた水量を奪い合う利権は高騰し、新しい水利が期待されていたものと思われるのだが、残念ながら、この仁兵衛の「まんぼ計画」は、失敗に終わったようである。
その原因は、まんぼを掘った後に河床のが下がり、満足に通水できなくなったからだなどと、伝わっている。

そして、その灌漑用水路の隧道の名残が、このへぐりのまんぼというわけである。
もとより、人が通るための隧道ではなかった。





 水路の名残とのことだが、坑口の様子を見る限り水没しているわけでもなく、良く締まった砂の洞床に微かに流紋が見られる程度である。
増水した時だけ水没しているのかも知れない。
これでは確かに、水路としては、失敗だろうな。
でも、270年間でどの程度、河床って低くなるもんなのだろう?

とりあえず、長靴に履き替えて、入洞してみる。
風はなく、かといって土臭いわけでもない。
出口の明かりは、とりあえず、見えない。



 どうやら、川に沿って進んでいるようだ。
ほぼ真っ直ぐ、大鳥川の流れの方向に進んでいる。
おそらく、少しでも上流から取水しようとして(物理的に、灌漑用水は高い位置から取水しなければ広い範囲に給水できない)、わざわざこのような地中を穿って、河道とは別の水路を設けたのだろう。

江戸時代に掘られた人間のための隧道というのはそれこそ全国中にも僅かにしか存在せず、この時代の隧道は専ら、水を通すための水道、そして、坑道といった類に限られる。
それも考えてみれば当然のことで、当時の交通手段は主に徒歩なのであるから、相当の難路でもなければ、敢えて地中を穿ってまで、人がそこを通る必要はない。
わざわざ人力で隧道を穿つほどの大層な目的としては、鉱石掘りと、黙っていては決して山を越えてきてはくれない水を得るため、ぐらいだったのだろう。



 なんと、横穴である。
入り口から20mほど進んだ地点がT字路になっていて、左に折れると、すぐに外に出ることが出来た。
やはり洞床には流紋が見られるが、現在は乾いている。
また、横穴は狭く、中腰でないと進めない。

ここで初めて、壁という壁に、びっしりと鑿の痕が刻まれていることに気がついた。
仁兵衛が計画した隧道だが、実際に掘ったのは、彼が雇った名も無き人達であった。

鑿と鏨だけで、この大規模な水路隧道を掘った先人の努力に敬意を表するなどと言うのでは、余りにもありきたりな感想だろうか。
私の感想は、正直ちょっと違う。

当時の農民達は、きっと長閑で、長閑すぎて、あくびが出るような生活をしていたのだ。
無論、そうでない時もあったろう。
飢饉だ、年貢だと、現代では考えられない苦悩もあったに違いない。
だが、太平の世と良く言われる江戸の中期、比較的作物に恵まれた庄内地方の農民達は、そこそこヒマだったのでは?
そこに来て仁兵衛さんが穴を掘るって言うもんだから、農民達も、意外に楽しんで参加していたのではないだろうか??

ノーテンキ過ぎるかな、私の想像。
なんか、外の景色が穏やかなだけに、どうしても、苦痛と絶叫の人力隧道という印象は、受けないんだな。



 横穴から出ても、そこには川が流れているだけで、何処にも行けない。
対岸には、小学校か何かの建物があって、日常の景色そのまんま。


何か自分の姿に場違いなものを感じ、
私はそそくさと、洞内に舞い戻った。




 さらに進むと、相変わらず天井は無駄に高い。
余裕で立って歩ける。
一方、幅は狭くて、50cm程度しかないだろう。
壁は、全て岩肌で、鑿の傷跡が無数にある。
ゴツゴツしているというよりか、モコモコした手触り。
花崗岩っぽいかな?
築270年というのが本当なのだとしたら、驚きの現存具合なのではないだろうか?
というより、地質に恵まれていたと言うべきか。
一切の支持物もないままに、隧道は原形をしっかりと保っている。

しかし、そこは手彫り隧道。
なにやら意味ありげなシケインがあったりして、退屈はしない。

そうこうしながら、30m。
いや、40mは歩いただろうか。
またも、明かりが見えてきたのであった。


まだまだ、へぐりのまんぼは、色んな顔を持っていた…。

その2へ

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2005.2.15