細く入り組んだ宿場町の風情を残す津川町の南縁をバイパスで通り抜けた国道49号は、少し狭い麒麟橋で阿賀野川右岸に取り付く。
そこから本尊岩隧道までは西進すること約3.5km、ほぼ一本道である。
道はずうっと阿賀野川に沿っているが、進むにつれ両岸の山並みは険しさを増していく。
対岸は早々に沿う道もなくなり、緑茂る斜面が直接水面に触れるようになる。
やがて此岸も似たような景色になっていくのだが、その入口に、元一級国道らしからぬ交通規制表示が現れる。
本尊岩隧道を間に挟む揚川ダムまでの4km区間の通行規制の表示である。
現在は磐越自動車道という有力な迂回路があるものの、数年前まではこの通行止めは県経済に事あるごとロスを与えていたものである。
この阿賀野川沿いの国道の両側を挟むように、南に越後山地、北には飯豊山地という、いずれも海抜2000mを越える高山が控えており、実質的に迂回路は存在しない。
このような交通規制箇所が、国道49号線若松〜阿賀野市間には何箇所かあるものの、迂回路の少なさはこの本尊岩がダントツである。
今は大人しい阿賀野川だが、流域に恵みと脅威を共に与え続けてきた大河である。
まるで水墨画のような景色の中に、ちょこまかと車が往来する国道がいやに目立つ。
自然の風景としては道路は邪魔なのかも知れないが、道路好きの目にはむしろ、その存在感が嬉しくもある。
雄大な景色の中、あくせくした日常を詰め込んだ小さな車が、忙しなく走りすぎていく。
まさに現代の道の風景ではあるまいか。
やがて、赤い鉄橋と共に岩棚にぽっかりと口をあけた本尊岩隧道が現れる。
どうやっても迂回できなそうな、この強烈な存在感を持つ岩脈が本尊岩だ。
昔の人には何か神々しく、ご利益のあるような岩に見えたかも知れないが、今日交通にとってはまさに鬼神・悪神の如き障害である。
特に交差点でも何でもないにもかかわらず、トンネルの100mくらい手前に信号機が設置されている。
岩盤に何らかの異常があれば、即座に通行止めとなる。
一面の落石防止ネットに覆われた大絶壁。
その麓には2つの坑口が並んでいる。
向かって左が国道49号本尊岩隧道、右はJR磐越西線の隧道である。
この両者に挟まれ、立ち入り禁止の細いコンクリート橋がある。
橋は国道橋に近接しているが、歩道橋というわけでもなく、渡りきっても何所に通じているでもない、不思議な存在である。
これらの橋の下には阿賀野川を堰き止めた揚川ダム湖があるのだが、橋が並んでいるために水面は見えにくい。
用途不明の橋を対岸へ向けて歩いていくと、いよいよ本尊岩の袂に近付く。
見上げると、そこには冗談のような足場が見上げる限り続いており、まるで積木崩しのように崩れては補強が繰り返された本尊岩と交通との苦闘の歴史を物語っている。
工事用足場なのに、工事が終わっても取り外されていないというのは、また使う事を予期しているのか……。
『sunnypanda's ROADweb』の調べによれば、この本尊岩付近での落石や土砂崩れによる国道及びJRの通行止めは、この道が一級国道に指定された昭和39年の新潟地震による被害に始まり、近年まで6回以上も発生している。
幸い死傷者こそ出ていないものの、落石によって通行中の自動車が破損しているケースもあり、いつ人死にが起きても不思議はない状況なのである……。
現在はセンサーを稼働させ、24時間態勢で僅かな土壌の動きも監視しており、突発的な崩壊にも備えているが、ここにこの大岩がある限り、そして道がここを通る限り危険は絶えないだろう。
橋の行き止まりには、何本かのチューブが引き込まれた、トンネル型の坑口がある。
一部にはこれを旧本尊岩隧道の名残だとする考えもあるようだが、見たところこれはそのような謂われのものではない。
暗がりの中を覗き込んでみると、ものの2mほどで岩盤に遮られ行き止まっており、そもそもこの坑口は何ら掘削によるものではなく、ただ岩盤にセンサー類を取り付けるためだけの鉄の覆いと考えられるのだ。
それでも穴好きとしては立ち入らぬ訳にもいかず、路面より1mばかり低い足場へ滑り込んだ。
背後は凹凸の乏しい灰褐色の地肌があるばかりである。
こうしてみると、この用途不明の橋はまさしくこの穴(センサー所?)に達するためのものであり、地形険阻なるためやむを得ず架けられた贅沢な橋だという結論になる。
実際、この橋には銘板など、一般の利用を想定したような一切は備えられていない。
それでは、この場所にあったという会津三方道路時代の本尊岩隧道はどうなってしまったのだろうか。
周囲を見渡してみても、それらしい坑口はおろか、そこに繋がるような道の存在も窺えない。
まるっきり現道と重なって消滅してしまったのであろうか……。
実は、その痕跡はすぐ傍にあった。
だが、夏場などはまず人目に付かない状況にある。
道路橋と鉄道線の間の、写真に写る僅かな緑の隙間に、それはあったのだ。
そして、崖にへばり付くようにして、草木を掻き分け接近したその場所には、残念無念、頑丈に塞がれた坑口の跡が眠っていた。
明治15年頃に三島通庸によって初めて拓かれた本尊岩隧道の、今日見られる唯一の痕跡である。
『東北の道路今昔(東北建設協会発行 1989.3)』には、まだいくらか奥行きを持ってこの地に残存していた同坑口の写真が記載されており、悔やまれるところだ。
なお、その記述によれば、隧道は幅3.6mほどのものであったといい、現存するものはその上半分だけと言うことになる。
また、内部は現・本尊岩隧道にぶつかっていたために閉塞していたという。
おそらくコンクリートの壁が内張されていたのだろう。
少なくともそこまで20mくらいの奥行きはあったと想像され、なお悔やまれるところである。
短い落石覆いの先に石組みの重厚な坑口が控えるJR磐越西線の隧道。
この隧道もまた、本尊岩が吠える度に被災し、特に坑口部分は繰り返し補修されている。
磐越西線は東北でも古くから建設が進められた鉄道であり、大正2年にはこの隧道を含む馬下〜津川間が信越線の支線として建設されている。
坑口付近を見た限りでは、内部は竣功当時の姿のままのようだ。
なお、現在は崖に直接その坑口跡を向けている旧・本尊岩隧道であるが、明治当初の道形は当時の絵図を見る限り、崖にへばり付くようにあったようだ。磐越西線の線路によって旧道路敷きは掻き消されているかのようだが、現隧道が完成する昭和39年以前の自動車交通がどのような道を通っていたのか興味深い。この僅かなスペースで平面交差をしていたのだろうか?