奥羽本線 小繋の廃隧道群 後編
県内最後の長大旧線遺構
秋田県ツ井町 〜 鷹巣町

 奥羽本線の二ツ井・前山間には、かつて4本の隧道があった。
昭和46年に長い日本の新トンネルで短絡する現行ルートが開通するまで、そこは単線ながらも重要な路線として活躍してきた。
廃止後約30年を経て、すっかりと姿を変えてしまった線路跡を、二ツ井側から辿ってみた。

今回はいよいよ最終回。
残る隧道は一本だ。





 

 国道から線路跡の細い砂利道へと降りると、そこにはホームがあった。
これは、駅なのか??
予想だにしなかった廃駅の出現に、興奮度はマックスに!
ホームの隅には、竣工年度を示すプレートが残されていた。
見てみよう。



 そこには『1965.■』の文字。
最後の一文字(竣工月だろう)は判別できないが、このホームの竣工年度が1965年だということだろう。
ここに初めてレールが敷かれたのは1901年、廃止は1971年である。
となると、このホームが現役であったのは、僅か6年間ということだろうか。

ホームは両面にあり、複線の幅があった。
北側のホームにはホッパーの跡のような物も見受けられたが、荒廃しており判然とはしない。
ホームの長さは僅か車両一両ほどしかなく、駅というにはお粗末過ぎる。



 南側のホームからの、二ツ井方向の眺め。
まっすぐの線路の向こうに見える山並みは、米代川の対岸に聳える七座ななくら山だ。
きみまち坂の眺めには欠かせない七座山だが、この場所から見る景色も、なかなかだ。




 丁度ホームの上を国道が跨いでいて、その橋台にはまだ、当時の注意書きがペイントされていた。
『左右指差確認』の必要はもう永遠に無い。

種明かしだ。
このホームは、七座信号所の跡である。
この信号所は複線の新線には移設されることは無く、未来永劫に廃止されたのだ。
ちなみに、この信号所のある場所の地名は、小繋だ。
或いは、隣接集落の小泉だろう。
しかし、対岸であり、集落名ですらない「七座山」の名を、信号所に付けた風流が、なんか好きだ。
あと、素朴な疑問だが、信号所にホームは必要なのだろうか?
しかも両面の。
客扱いは無かったと思うが、謎は残る。

個人的にはこの遺構が、今回の探索では最も印象に残った。




 信号所跡を過ぎ、国道の下をくぐると、道はなくなってしまう。
この先はまっすぐな切通が国道に沿って続いている。
いや、これが切通しだと言う確証は無いのだが、なんせ余りにも大規模なので。
ただ、当サイトからリンクしている『地形図閲覧システム』からでも、この部分の地形図を見ていただきたい。
どうみても、自然地形とは思えないのだが…。

やはり、もともと沢状の地形だった部分を拡幅し直線化したものと思う。




 切通の底辺の部分は、幅30m以上ある。
一帯はすっかりは自然に還っており、一部は湿原に、一部はご覧のような密林と化していた。
切通の北側に国道が、南側は切り立った山林があり、その境には写真にも写るコンクリの擁壁が存在している。
いかにも、鉄道的な地形ではあるまいか。
信号所に接した部分であり、ここも複線だったのだろう。




 さらに進むと、ますます森は深くなる。
奇怪に捩れ絡み合った木々が行く手を遮る。
時期がよかったが、夏場などは探索は困難を極めるだろう。視界が利かないだろうし。

さて、奇妙な物を発見した。
南側の擁壁に沿うようにして、煉瓦の残骸が多数散乱している。
各々が、直径50cmくらいのサイズであり、自然に崩落したものにしては、余りにも荒廃している。
むしろ、重機などによって、何か煉瓦造りの建築物を破壊した残骸のようである。

これは、なんだろうか?





 進めども景色に変化は訪れず、ここにあると推定していた第一小繋隧道の坑門も一向に現れない。
チャリを信号所跡に置いてきたので、余り離れたくは無い。
一段上を平行している国道からでもこの廃線跡は十分に観測が出来ると判断し、引き返すことにした。
これは引き返す途中で撮影した写真だ。
地形からのみ、鉄道の痕跡が感じられる。



 国道に戻り、跨線橋…いや、現在ではただの陸橋だが、そこからの眺め。
はっきりと残っているのは、向かって左側の擁壁だ。
向かって右側の擁壁は、原形をとどめていないように見える。
この部分が、さきほどの煉瓦の残骸だ。

推論だが、この切通の先にはやはり、隧道があったのでは無いか。
そして、発見できなかった坑門から、その内部にかけては、すでに取り壊されてしまったのではなかろうか。
この推論では、残骸が、なぜ切通内に細長く存在しているのかは、説明できないが…。 いずれ、第一小繋隧道の二ツ井側坑門は終ぞ発見できなかった。



 そこを歩いているときには、終わりの無い物のように思えた切通だったが、国道をすいすいと進むとすぐに終わりを迎えた。
切通は消滅し、写真の広場が出来上がっていた。
ただ、埋め立てたのか、それとも元々あった地形を削った結果がこれなのかは分からない。
切通の終点にも坑門らしきものは無く、これにより二ツ井側坑門の捜索は諦めた。
せめて、前山側の坑門を見たい。


 で、やっと発見しました。
第一小繋隧道(延長243m)の前山側坑門だ。
国道からは少し離れていて、薬師山スキー場に面している。
小さなゲレンデの最下部に場違いな坑門。


 その坑門にさらに接近。
普段、廃止された隧道は森に呑まれるケースが多く、このように視界の利く光景は珍しい。
冬はスキー場。夏は放牧地として利用されているらしい長閑な草原の坑門。
今までどのガイドブックにも紹介されたことの無いと思われる、変った日本の景色がここにある。
これは、必見だ。



 さらに接近。

これは、畜舎だ。
隧道はすっかり畜舎として改造され、内部からは「モーーーゥ」という低い声が聞こえてきた。
人の気配は感じられなかったが…、侵入することは諦めた。
できれば、内部の様子を確かめ、発見できていない二ツ井側の坑門のヒントでも得られればと思ったのだが。
廃隧道の転用先として、倉庫というのは多いし、中には栽培地や酒倉として利用されているケースも在る。
しかし、畜舎というのは聞いたことが無い。
実際、住み心地は、どうなんでしょうねぇ?




 これにて、長かった旧線の探索は終了。
第一小繋隧道を最後に山あいの区間は終了し、この先はしばしの田園風景が続く。
それは現在の線路も同じで、ご覧の太平トンネルの先、間も無く前山駅が田んぼの中に現れる。
旧線との合流点もこの辺だが、判然とはしなかった。


 
 以上で今回のレポートは終了だ。
それぞれ異なる余生(いや死後か?)を贈っていた4本の隧道と、それだけじゃない魅力の詰まった、 盛りだくさんの旧線であった。

長い旧線跡としては珍しく危険な箇所は少ないので、是非あなたも自分の足で探険してみては??
新たな発見があったら、当サイトにも教えてくださいね。




第一小繋隧道   延長 243.41m  1901年竣工 1971年廃止

一方の坑門は未発見、取り壊された物と思われる。
あるいは、坑門のみではなく、一部は解体された可能性も。
前山駅側の坑門は現存し、内部は畜舎として再利用されている。

※なお、上記二隧道の隧道名や延長などは、書籍『奥羽鐡道建設概要』内の表記を、 『NICHT EILEN 「ニヒト・アイレン」』 の管理人 TILLさま よりご紹介いただいたものです。
ありがとうございました!


2003.7.15


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