隧道レポート 都立長沼公園の明治隧道捜索作戦 考察編

所在地 東京都八王子市
探索日 2014.12.30
公開日 2015.01.16

考察1: 「戦車トンネル」と「明治隧道」の関連性は?


現地での証言により、下柚木の明治隧道南口擬定地点付近には、太平洋戦争中に陸軍が戦車を格納していたトンネル(ここでは「戦車トンネル」と仮称する)があったという衝撃の事実が判明したのであるが、はたして「戦車トンネル」と明治隧道の間には関係があったのか。
より具体的には、明治隧道を再利用したものが戦車トンネルであったのか。
まずはこの問題を考察してみたい。


左図にカーソルを合わせるかクリックすると、画像が同じ場所の迅速測図にチェンジする。
こうして見てみると、戦車トンネルの陥没によって出現したと見られる“大穴”と、明治隧道の擬定地点とは、思いのほか離れているという事実が判明した。

もちろん、迅速測図の正確性には疑問があるのは確かである。隧道を正しい位置に描いていたとは限らない。
だが、これらの地形図に見られる等高線の変化が、土地の造成によって生じたものであると考えれば、明治隧道の南口は既にそれがあった谷ごと、造成地に埋め立てられていると判断せざるを得ない気がする。
また、“大穴”の位置より南側に明治隧道が口を開けていると考える理由も乏しい。
それでは明治隧道を必要以上に長くする必要があるし、工務店裏手の戦車トンネルの坑口擬定地点と大穴の位置を直線で結んでも、明治隧道の擬定ラインとは重ならない。

これらの情報を総合すれば、戦車トンネルと明治隧道とは、別個のものであったと判断して良いように思う。

戦車トンネルは、長沼峠を貫通する目的のものではなく、あくまでも地上から戦車を隠すための格納庫として、行き止まりの坑道だったと考える事が出来る。



そもそも、戦車トンネルとはどのような背景で建造されたものなのか。
現地の証言者は、「戦車道路で使われた戦車を隠していたようだ」と話していた。
戦車道路について少し説明しよう。

左の資料は、国立公文書館アジア歴史資料センターでデジタルデータが公開されている、「土地買収に関する件」という文書の表紙画像である。
この文書は、昭和17年に陸軍省が発行した機密文書で、本文に「実施手続中ニ係ル 相模陸軍造兵廠戦車類運行試験場 (中略)ノ残部ニ対シ 別紙図書ノ通 所有権者ト協議成立セシニ付 臨時軍事費築造費令達予算内ニテ支弁シ」とあるように、相模陸軍造兵廠戦車類運行試験場(いわゆる戦車道路)を建設する為に行われた地権者との買収協議の途中経過を報告したものである。

右図は、この資料に綴じられている図面に少し加工を施したものである。
原図は、当時の5万図を縮小したものに、戦車道路の計画ルートと相模陸軍造兵廠の位置が書き加えられているだけだが、便宜のため、当時の主な市村名や、実際に戦車道路が建設された区間、そして今回の「戦車トンネル」の位置を書き加えている。

この図を見れば分かるとおり、戦車道路は多摩丘陵上に複数の環状道路を設ける壮大な全体計画を有しており、全長30kmにも及んだが、終戦時点で完成していたのは忠生村〜堺村間の約8kmほどで、それ以外の区間も大部分の土地買収は済んでいたとされるが、完成はしなかった。

本文に戦車道路の計画ルートは、「本買収地ハ南多摩郡堺由木多摩鶴川忠生ノ五ヶ町村ヲ貫ク環状道路トス其ノ通過スル所主ニ村道ノ拡張ニシテ或ハ山頂ニ出テ水田ニ入リ畑地ヲ走ル」とあるが、実際に先行して整備されたのは、中でも「山頂」すなわち稜線を走る部分であったようで、戦後残された約8kmの既成区間は、昭和35年頃から防衛庁(現防衛省)が再整備して約10年間使用された後、一般に開放され、現在では町田市などが遊歩道「尾根緑道」として整備を進めている。

さて、今回の話題の戦車トンネルについてであるが、この戦車道路の計画ルートからは1kmほどの至近距離に位置している。
ただし終戦までに整備されたとされる区間からは3kmほど離れるが、堺村〜由木村の間には既に村道が存在していたから、最低限の整備で戦車が通行できた可能性はある。
実際に戦車トンネルに戦車が格納されていたかは現時点で不明だが、地元の古老の多くが戦車トンネルで遊んだ経験があるということだから、戦車トンネルと信じられていたトンネルが下柚木に存在したのは間違いないだろう。


なお、この戦車トンネルについても、明治隧道と共に情報の収集を現在進行形で進めている。
明治隧道とは別のものであったというのが私の見解だが、そもそも戦車を格納するためのトンネルというのが、戦跡に疎い私にとっては未知の領域である。
その規模や坑道の数や面的な広がりなど、想像だけでは語れない部分が多いので、これについてはもう少し具体的な証言を得てから追記したい。


早速にして、追記第1号である。
これは、Facebookを通じてYuki Dobuchiさんから寄せられた、下柚木在住の80代で戦車トンネルを遊び場として使った事があるという方の証言だ。

「下柚木に住んでる80代の方に、例の戦車格納庫で遊んだことがあるという方が居ました。
 その方が入った時点で下柚木側しか入り口はなく長沼側にはぬけていなかったとのことです。」


戦車トンネルが明治隧道とは別のものであったという説を裏付ける証言である。





← 古い              (空中写真)              → 新しい
昭和16年撮影
昭和23年撮影
平成20年撮影

ところで、戦時中から戦後間もない頃の空中写真にも、戦車トンネルや明治隧道の状況に関するヒントが隠されていた。

右図は。戦時中の昭和16年、戦後間もない昭和23年、最近の平成20年に撮影された3枚の空中写真の比較である。

まず、昭和16年の時点では、大規模な戦車道路の建設は始まっていなかったはずで、戦車トンネル自体存在しなかったと思われるが、それでも明治隧道の両側の坑口位置を容易に特定しうるほど、はっきりとしたラインが空中から見て取れる。
地形図からは明治隧道が消えて久しいこの時期でも、なお坑口前に至る道は鮮明に残っていたのではないかと思われるが、その理由は不明だ。

次の昭和23年の写真では、南側の道が非常に鮮明に現れており、終戦まで戦車道路が実際に利用されていた事を彷彿とさせる。
周辺の山林も大規模に伐採され、道沿いに建造物や、穴のような影が見えるなど、一帯は施設化していたものと推測される。

そして平成20年の写真と較べると、明治隧道の南口の位置は、間違いなく造成地に被っていることが理解される。
これは大きな収穫であるが、同時に新たな謎も生じている。
現在ある“陥没穴”の原因と考えていた戦車トンネルの位置が、よく分からないのである。
昭和23年の写真では、戦車トンネルが現在の工務店付近に口を開けていたという形跡が確認出来ず、むしろ、これらの空中写真を見る限りにおいては、戦車トンネルとは明治隧道の再利用なのであって、陥没も地中にある明治隧道(=戦車トンネル)の南口を原因に発生していると考える事が出来るのである。

このように、空中写真を重視する場合と、迅速測図や現地証言を重視する場合とで、戦車トンネルや陥没穴に対する評価が大きく変わってしまう可能性があり、これは難しい問題となっている。
この問題を解決出来るのは、やはり多くの証言によるしかないだろう。



考察2: 明治隧道が存在した、“長沼峠”の正体について

さて、ここから再び本題の明治隧道に話しを戻したい。
残念ながら現地調査では、明治隧道そのものに関する如何なる痕跡も見出せなかったが、明治14〜18年の迅速測図には立派に描かれていた隧道が、明治39年の地形図では消えた事実をもとに、長沼峠(仮称)越えの道が、一帯の交通路の中でどのような位置を占めていたかについて、歴代地形図や「八王子市史」の記述から考察してみたい。


← 古い                (歴代地形図)                  → 新しい
明治14〜18年
迅速測図
明治39年
昭和4年
昭和42年
平成12年

これは、歴代の地形図の比較から導かれた私の推論であり、明確な資料を根拠にしたものではないが、長沼峠は、野猿峠に対する「明治新道」として誕生したものではなかったろうか。
明治新道とは、明治の新しい交通手段である馬車や人力車、荷車といった、人畜力動力車両による交通を念頭に整備された道の事である。

野猿峠と長沼峠の道は、共に八王子を起点にしており、峠を越えてすぐに下柚木で合流する。
先ほどの戦車道路の地図では八王子を含む広い範囲が俯瞰できるので見て頂きたいが、長沼峠も野猿峠も由井村と由木村の間の峠であり、並行路線に他ならない。

歴代地形図を概観してみよう。
まず迅速測図では、長沼峠の隧道が幅をきかせており、野猿峠にはいかにも旧道らしき道が描かれているに過ぎない。
それが次の明治39年版になると、長沼峠の隧道は忽然と姿を消し、峠道も旧に復したかのように頼りなくなる。対して野猿峠にはしっかりとした二重線の道が通じるようになるが、これが現在「野猿峠」と呼ばれている道のベースである。以後の版は見ての通りで、長沼峠は峠道としての体裁を失っていく。

さて、野猿峠と長沼峠。
このうち野猿峠は、「角川日本地名辞典」にも採録されている著名な峠である。そして野猿街道という名前が現在まで都道の愛称として残る。同書による解説文は以下の通りだ(一部抜粋)。

野猿峠。古来丘陵一帯に野猿が多かったことから峠名となる。八王子より多摩市に至る野猿街道が通じる。峠の丘上は戦国期の滝山城(八王子市)主大石定久が切腹した所と伝えている。


なお、野猿峠を通っていたのは、野猿街道と呼ばれた道だけではない。中世からもうひとつ、小野路道と呼ばれる往還路がここを通っていた。
これは八王子から現在の町田市小野路へと至る、多摩丘陵の横断路であった。

明治以降の野猿峠や長沼峠にも、この野猿街道や小野路道の交通量が引き継がれたに違いない。
そればかりか、明治以降の八王子を中心とする養蚕業の大発展は、生産地と集散地の連絡路として、また八王子と横浜港を結ぶシルクロードの脇道として、小野路道にかつて無い盛況をもたらしたであろうことが容易に想像出来るのである。

「八王子市史」を通読すると、明治時代の記録としてこれらの路線名を見る事は出来ないが、大正4年の府支弁道(道路の格としては里道だが、東京府が維持整備費の一部を負担した)一覧の中に、小野路道の名前がある。当時から重要路線であった事が伺える。

その後の経過も追って見ると、大正9年の旧道路法実施に伴って南多摩郡が指定した郡道に、南多摩郡道3号小野路八王子線の名がある。だが、郡制の廃止によりこれは数年で廃止され、従来の郡道は重要路線が府県道に、ふるい落とされたものが市道や町村道となったのだが、昭和6年の府県道一覧を見ると、そこに東京府道191号下柚木八王子線の名がある。
これが現在も存続する野猿峠の道、東京都道160号「下柚木八王子線」の路線名が見える最初の記録である。
そして、野猿峠がトウキョウの一翼を担う重要路線として整備される、そのゴールデンルートに乗ったのであった。



華やかな峠の歴史。

だが、

これらの変遷は全て、野猿峠に関わるものだ。
「八王子市史」のどこにも、長沼峠の記録を見る事は出来なかった。
この道を語る余白が無いのか、資料そのものが乏しいのか。野猿峠の旁らに隠れるような小さな峠の悲運を思わせた。



考察3: 「明治隧道」の正体が、遂に明らかに!!

先日、大きな展開があった。
私はこのレポートを書きながらも、自らの机上調査が、古い文献に偏りすぎていたことを反省している。
これから述べる情報は、本レポートの前編公開以降、地元在住という2名の読者さまから相次いで寄せられたものである。
これがものの見事に、私の机上調査範囲外だった。

次の文章は、八王子市内で活動するFUSION長池というNPO団体のサイト内の「由木村人物伝聞き語り」コーナーで、平成13年に公開されていた記事「井草甫三郎翁/明治のベンチャービジネス」から引用している。
これは極めて核心的な内容だった。


多摩地区における酪農はここ松木より始まったことのお話しです。
この事業の先頭に立って活躍されたのが由木村の井草甫三郎翁でした。翁は、明治2年に生まれ、 昭和26年83歳でなくなるその生涯を通じて、「一牛よく家を興し村を守る」ことを実践されました。
翁の父孝保氏は野猿峠にトンネルを殿が谷戸・長沼間に掘ることを試みました。トンネルを貫通させたものの多額の借財を残しその負債を受け継いだ翁は家運挽回のため質屋を開き、養蚕を行い、豚を飼うなど鋭意努力されたようです。(中略)
明治25年に子牛を千葉より入れて以来,この道沿い町田, 八王子は酪農のメッカとなり,多摩のシルクロードはまた,多摩のミルクロードとなりました。(中略)
井草翁は、このように優れた事業家だけでなく、政治家としても地域に尽くされました。翁は明治末年と大正末の2度由木村村長になっています。(中略)
このように翁は、「先ず信ずるところを自ら実践し、その成果を確認した上でそれを近隣郷土に普及させ、当時貧しい農村を振興させようと不動の決意をもって酪農に取り組んだ」(井草甫三郎伝)のでした。(以下略)


由木村は、明治22年から昭和39年まで南多摩郡の村として存在していた。
この由木村で二度村長を務めた井草甫三郎氏の尊父、井草孝保氏が、野猿峠にトンネルを殿が谷戸・長沼間に掘ることを試み、そして貫通させたものの多額の借財を残したというのである。

「井草孝保」のお名前でネットを検索すると、八王子市立由木中央小学校の沿革に、「松枝学校が、井草孝保宅の旧習字所で開設」とあり、同校の前身である事が分かる。
次にWeb八王子事典「松枝学校」の項目を見ると、「1873年(明治6)5月10日,井草孝保旧習字所に創立.75年医性寺(院)廃跡に移転,86年ころ松枝尋常小学校と改称.94年廃校」などとあった。
隧道建設の記録はないものの、同氏が多方面で地域の発展に尽くしていたことが伺える。


殿ヶ谷戸の地名は、現在の野猿街道沿いに同名のバス停がある。場所は後編スタート地点の500mほど東側であり、野猿街道が通る下柚木の谷全体が殿ヶ谷戸と呼ばれていたようである。
そこと長沼の間に野猿峠のトンネルを掘ったというのだから、今回調査したトンネルに相違ないだろう。
また、こうした表現方法からしても、トンネルは野猿峠の新道を意識していたことが伺える。
幻の隧道名は「野猿隧道」としても良いのかも知れない。

八王子市松木に今も井草家のご子孫がお住まいかは分からないが、明治隧道の詳細な設計図や当時の写真などが残っているかもしれない。
それは、このレポートの冒頭でも述べた通り、多摩地区最古の道路隧道であり、最古の交通用隧道であった。

おそらくこの事業は、経営的には失敗と呼ぶべき顛末を迎えたのであろうが、それでも迅速測図を作る軍人たちは、測量をしながら隧道を通行したが故に、地図という明確な記録を残すことになった。
完成から数年間は地上に隧道が存在し、多摩丘陵の里々が新たな文明を受け入れる、その重要な役割を担ったろう。
そして何より、隧道そのものが、新たな文明の象徴であったと思う。



幻の明治隧道は、間違いなく実在した。

その姿は、未だ濃い霞の遙か向こうにあるけれど、

私には、そんな先人の心がこもった明治隧道ゆかりの土地に住んでいることが、とても嬉しく感じられる。





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