笹立隧道 その3(最終回)
地中に眠るバイパス
山形県鶴岡市 湯野浜

 約250mの漆黒の世界を、私は耐えた。
僅かな隙間から、再び地上に戻ることが出来た。
私は、全身に沸き起こる歓喜に打ち震えた。
閉塞していると思っていた隧道を突破できたことの満足感は、なにものにも代えがたかった。

 だが、現実を前に熱狂はすぐに醒めた。
実は、チャリを遥か麓に置き去りにしての探索であった。
この先は、進めば進むほどに、自身を苦境に追い立てることが明白であった。
その上、私の足はもはや、これ以上山中を彷徨えるような状態になかった。
隧道内で氷水に漬かり、さらには膝まで泥に沈んでいた。
指先はもう、感覚が失われはじめていた。
長靴という窮屈な箱に肉を締め付けられるような、曖昧な鈍痛が、あった。
もう、早く靴を脱ぎ、乾いた靴と交換したかったが、替えの靴は、自転車に置いてきているのだ。
私には、余り時間は残されてはなさそうだった。




 この先の探索をどうするかは、少し先の道をみてから決めようと思った。
しかし、登ってきた善宝寺側とは、まったく景色が違かった。
私が今立っている崩れ堆積した岩山は一際高い位置だったので、先をある程度見通すことが出来た。

 そこにあった景色は、小川の流れる谷、そのものであった。
しかも、厳冬の。
この景色を見た瞬間、すぐに引き返した方が良いと感じた。
これは、もう歩いて進むにも大変に苦労しそうだし、前述の通り、先に進んでも結局引き返すことになるのだ。
余りにもリスクが高い。



 とりあえず、いったん下に降りて、この崩れ、今にも閉塞しそうな坑門を、見ておきたかった。
写真にそれを収めた。
このとき、突然の吹雪に目の前が白くなった。
今日、旅立ってからはじめて、雪に見舞われた。
『前門の虎 後門の狼』とは、まさにこんな状態を言うのだと思った。
進むは地獄…しかし、あの暗闇に引き返すのも、やはり、気が進まないのである。





 もしすぐそこに湯野浜の集落があったとしたら、そこまで行って、隧道だけでなく「笹立新道」にも決着をつけてしまいたい。
そんな欲から、どう見ても容易ではない廃道を、突き進み始めた。

 もう、足元の濡れなどにまったくの躊躇は無かったから、少しでも雪の浅い小川の中を堂々と歩いた。
しかし、ここに本当に道があったのか?
どうしても、信じられないような荒廃振りであった。
幾重にも折り重なった倒木が、私の侵入を拒む。
かつてこの場所に道が通っていたというのだろうか?
車も通ったという道が?




 いつの間にか雪は止んでいた。
そればかりか、今日はじめて晴れ間を見た。
天候には見捨てられなかったが、私の探索も、いよいよ終わりが近付いていた。

 幾分両岸の傾斜は緩み、山裾に近付いている実感があった。
ここまで坑門から300mほど歩いていただろうか。
途中、じつは道は谷底を離れ、両岸のどちらかを巻いているのではないかと目を凝らしたが、そういう形跡は見つけられなかった。
逆に、ついに、ここに道が通っていた当時の遺構を発見することになる。

 それにしても、足がいたい。





 写真では分かりにくいのだが、明らかに人為的な石組みが、あった。
正面に、対岸の斜面が写っているが、私の立っている位置は、水面からは10mくらい高い位置である。
非常に小さな河岸段丘的な平地の上に、この遺構と思われる石組みを発見した。
石組みは、垂直な崖を作っており、その高低差は3mほどあった。
谷側に開き、崖側を閉じた、コの字型で、同じものが、二つ並んでいた。
 この切り立った石垣を下ると、戻ってくることは不可能と考えられた。
エスケープするルートを模索したが、狭い谷間に、もうこれ以上余地はなかった。




 進める限り最も川下側から、さらに下流を撮影した写真。
この先も谷川は続いているが、明らかにそこは自然地形のように思える。
残念ながら、この先に伸びる道は発見できなかった。
しかし、私がこの「笹立新道」に、一応の決着をつける決心を付けさせてくれるものが見えた。
 写真にも写っているが、500mほど向こうの雪の斜面に、明らかにガードレールが見えていた。
地図を確認すると、それは湯野浜温泉から始まり、さっきの隧道の上を通り、高舘山の山頂部を経て、加茂で国道112号線に合流する林道のようである。
「現役の道」が間近にあるのを見つけ、私の探索は、やっと決着したと考えることができた。
地図を読むと、この先、小川を下って行けばもう300mほどで、湯野浜温泉のホテル街に到着するはずだ。
もう500mほどで、海岸線だとはとても信じられない景色ではあるが…。




 ともかく、私はここで引き返すことにした。
もうひとがんばりして、湯野浜まで脱出し、そこからバスで善宝寺に戻ることも考えたが、自身は余りに泥まみれでそれは憚られた。
しかし、気が重い。
なんか、現実感に乏しいのだ。あの隧道をもう一度、通り抜けるということが。

 しかしもう、隧道との再開は避けえぬ現実になっていた。


 引き返しながら、さっき見た石組みが何なのかを考えていた。
決定的な証拠は無く、私の想像に過ぎないが、あの二つ並んだ同じ形の石垣。
谷側に開いたその形状。
ここは歴史ある、有名な温泉地である。
露天風呂の跡では、なかっただろうか?

 余りにも荒れ果てていた上に、雪が積っていて状況はあまり掴めてないので、違ってるような気もするが…。
いずれ、あそこに人工物があったのだから、坑門からあそこまでの小川が、かつての道路であったことは間違いなさそうだ。
それを裏付けるものも、この帰り道に発見した。
坑門のすぐ近く、谷に下りた辺りの両岸は非常に切り立っているが、よく見ると、それは人為的としか考えられない石垣であった。





 再び立った坑門。
やはり嫌な感じはしたが、時間を無駄には出来ない、引き返すと決めたからには、さっさと進むことにしよう。
背中に当たる太陽の明かりが幾分、気持ちを落ち着かせてくれた。


 這いつくばって、漆黒の地底に、今一度降り立った。

 帰りは早足で、一気に通った。
250mほどの隧道は、決して歩くには短くないが、焦っていたのか、帰りの記憶はほとんどない。
振り返ることもしなかった。
とにかく、明かりを目指して、進んだ。




 善宝寺側坑門に到達。

 ホッとした。
 本当に。

 余韻を噛み締めるようにして、一歩一歩、崩れた坑門を登った。
こちら側でも、穏やかな日光が迎えてくれていた。
やっと、生還したという実感が沸き起こってきた。
踏破の喜びも、一段と大きくなって、押し寄せてきた。



 坑門上部は、度重なる崩落によるものか、まるで採光窓のように、抉れていた。
そこから飛び込んでくる日光のなんと眩しいことか。
もう、この穴はごめんである。
本当に、怖かった。





 1時間前となんら変わらない坑門前の景色。

「生きて帰ってきたんだぞ」

そう報告する相手がいない。
相棒は、山の麓であった。
早く、会いたい。

 下り道、隧道の中の景色を、何度も何度も反芻してみた。
あの、滑らかに削られた白い壁面の無機質さは、逆に生々しくて不気味だったと、思った。
ほかにも、あの隧道が恐ろしい理由はたくさんある気がしたが、もうよい。

 早足で、山を下りた。




 入り口で、チャリに再会。
無事に、この笹立新道の探索を終えることが出来た。

 出発時とはうって変わり、気持ちの良い青空が、隧道の眠る稜線の上にあった。
築92年目の冬、数年ぶり(とおもわれる)に旅人を通わせた隧道に、もし心があるなら、何を思うか。
いつも私を虜にする廃隧道だが、今度のは少し深入りしすぎたかもしれない。
ちょっと、酔ってしまった。


 次はいつ、誰が、通うのだろう?
私が最後の一人とならないことを、祈っている。




   笹立隧道

竣工年度 1911年4月  延長 約 250m
幅員    約 3.0m    高さ  約 2.5m

*崩壊が進み、両坑門および内部にて閉塞寸前である。

本文では隧道の行く末を案じ、「私が最後の一人とならないことを、祈っている。」などと書きましたが、危険な場所であることは疑いようもなく、読者の方々による探索を啓発する意図はありません。
それでも行かれるという方は、くれぐれも自己責任で、ご探険ください。



2003.2.11

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