隧道レポート 国道52号旧道 下山隧道  後編

所在地 山梨県身延町下山
探索日 2009.9.17
公開日 2009.9.26


こうして地図に落としてみれば、確かに旧道は現道と別の場所を通っているし、「下山隧道」なる廃隧道を留めていたことも頷けよう。

この下山隧道の全長は、(前回も紹介したとおり)234mもあった。
現道にある古屋敷洞門が数十メートルに過ぎないことを考えれば、ちょっと頑張りすぎているきらいもあるし、はじめから川沿いの道を作れば良かったのではないかという感じがしないでもない。(素人考えだとは思うが)

だが歴史を調べていくと、やはり下山隧道にはさらなる旧道があって、それは川べりに付けられていたらしい。
この界隈における車両交通の黎明は、“道路県令”といわれた藤村紫朗(「日本の廃道 #27」収録「黒川通り」は彼の作道)治下の明治11年、下山村(身延町)〜中野村(南部町)の「南部新道」が開通したことによる。
(更に古い近世の「駿州往還(身延道)」は、右図左上にある杉山集落を通っていた)

南部新道は「県道一等 甲駿往還」の一部を構成していたが、大正8年の旧道路法制定、改めて「府縣道1号 甲府靜岡線」となった。
そして勃興しはじめた自動車交通を容れるべく、大正10年から「鰍沢(鰍沢町)〜身延間」の大規模な道路改良工事に着手している( 「山梨県南巨摩郡治概要」より)。
下山隧道もこの工事の一環として建設されたことは疑いないが、要するにこの時点では、川べりの明治ルートを廃止して山側に隧道を設けているのだ。
例によって川べりの道は洪水による浸食や落石など危険が多かったのだろう。


だが、こんなに狭い隧道では、

当然のように…



『身延町誌』より

←こうなってしまったので…、

昭和43年に再び道を富士川縁へ戻したのである。
それが現道だ。

なお、この間に道の呼称も変遷しており、昭和28年に「二級国道141号 清水上田線」へ昇格、同38年に「一級国道52号」へ更に昇格、同40年に現在名の「一般国道52号」へ改訂されている。

約半世紀の間、表裏日本を繋ぐ幹線のひとつとして重交通に耐えた下山隧道。
その静寂なる現状を、ご覧頂こう。





巨大扁額隧道の真価



2009/9/17 16:33

這いつくばって潜り込んだ洞内は、坑門に負けず劣らずズッシリとした質感を持った空間だった。
たかだか234mといっても、2車線&照明完備のそれとは印象が全く違う。
出口が見えていることは、最終的な決着への安心感を与えはするが、道程には見えない部分が大いに潜んでいる…。
そんな印象だった。

落ち葉と土の感触を確かめながら、洞奥への旅をはじめる。





出た。やっちゃった…。

・ドライバーが嫌うトンネル 第一位(当社調べ)

 「途中で狭くなる隧道」 だ。


しかも非常にさり気なく、幅60cm、高さ30cmくらい断面が減少している。
この“さり気なさ”がドライバー思いだなんて、
とんでもない!

もっとアピールしてもらわなきゃ、危ないのである!!





どんなに危ないかって言えば、右の通りだ。

このコンクリートのえぐれ方は、ちょっとただ事じゃない“ぶつかり方”をしたに違いない。

クルマの方も無事では済まなかったはずだ。

そして、この広範な角の取れ方は、くり返しくり返し衝撃されたのではないだろうか。


…せめて、段差の部分には蛍光板を付けて欲しかったのである。

現役当時から、照明は無かったようでもあるし…。
恐ろしい…。




そして、なぜかこの奥行き10mほどの「狭窄区間」の周りにだけ、沢山のカマドウマが発生していた。

彼らにとって、何かこの部分に特別な旨味があるのか、不思議である。
しかも、ここのカマドウマは妙に元気が良くて、私の物音や照明に反応して、ポトポトぴょんぴょんと落下してくるのである。
別に私を狙って飛んできているのではないはずだが、何匹かは私にぶつかってきた。
薄着だったので、首筋に入られたらと思うと、ゾッとした。

(ピョンピョンカマドウマの動画を撮影したが、「誰得?」だと気付いたので公開はやめた)




断面は、何事もなかったかのように坑口の同じ大きさへ戻った。

あとは最後まで断面に変化はなかったが、一体何のための狭窄区間であったのか謎が残る。
その区間の短さを考えると、掘削断面まで小さいとは考えられないので、覆工だけ厚くなっているのだろう。

ちょうどそこが断層帯で、異常な地圧への対応策か。
或いは、地下水帯からのガードか。
こればかりは、工事関係者から直接お話しを伺うか、残っているかは分からない建設資料を見るより他、解明する手はないだろうと思う。




フラッシュ無しで撮影したので、変な写真になってしまった。
何を写したのかというと、アーチに空いた小さな孔である。

形は正方形に近く、縦横20cm四方、奥行きは5cmくらいか。
幾つもあれば照明の取り付け痕のようだが、ひとつだけ。ぽつんと。

はっきりしたことは言えないが、覆工の強度や地山の状態を確かめるためのサンプルを採取した痕ではないだろうか。
煉瓦製の古い隧道などでは、煉瓦にこのような孔が空けられているのを見ることがある。
コンクリート隧道ではあまり見ないのだが、他にこのような孔を空ける理由が思いつかない。




はじめのうち、洞床には水が溜まっていた。
そんなに深くはないのと、隧道侵入の興奮が醒めやらぬ序盤であったこと、そしてすぐに「狭窄部」が現れた衝撃から触れることなく来てしまったが。

水が溜まっているだけではなく、舗装の路面も堅い凹凸のある土の下に隠れて、全く露出していなかった。
それが、中央に達する頃にはすっかり綺麗に片付いていた。

しかし、洞床が平静を装おうとするほどに、むしろ異様さは助長されるようであった。
それは、どうやっても現役の物件が醸す空気ではない。




洞内は、いまでも車が通行できる状況にあるが、両側には幾つかのゴミが置かれている。
それも、通行人が残していくようなゴミではなく、大型車のタイヤであるとか、チューブの切れ端らしきものが多く残されていた。

侘びしい残骸を見ながら、やや淡泊な心持ちで北口へ近づいていった。
威風堂々たる坑門の強烈な印象に比して、どうにも洞内は荒んでいる感じがした。
たいして崩れているわけでもないのだが、重苦しい。




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16:40

入洞して約7分。
ゆっくり歩いて北側の明かりの下へ辿り着いた。
トリ氏の報告を私は忘れてしまっていたが、こちら側からはたしか外へ出られないのではなかったかと思う。
南口と同じ金網の柵が、足元を含めて坑口全体を塞いでいる。




大きく剥がれた壁が写っているが、これは古い煉瓦隧道などでよく見かけるコンクリートモルタル吹き付け補修(補強)が破れた痕である。
しかし、幸いにして、破れているのは表面のモルタルだけで、内壁自体は壊れていないようだ。

私が意外に思ったのは、この僅かに見えている本来の内壁も、場所打ちされたコンクリートだったことだ。
竣功した時期(大正期)を考えると、煉瓦やコンクリートブロックではないかと思われたが、見えている範囲については普通のコンクリートの壁であった。

技術史についてはまだまだ疎い私だが、うろ覚えの記憶と照らして思ったのは、


もしこの隧道が、全て場所打ちのコンクリートで作られているとしたら、


それはかなり希少な、“初期の現存例”かも知れないということだった。



 わるにゃにゃにゃ にゃん




ネットの継ぎ目に隙間があったので、そこから洞外へ出た。
そして、私は真っ先にこのアーチリングを見た。

このアーチリング、よく見るとコンクリートブロックを組成したような線が見えるが、これは単なる意匠としての模様であろう。
また、アーチリングがスパンドレルに対して5cmほど手前に突出しているが、これがより重密な印象を高めている点も見逃せない。




さて、総コンクリートづくりである可能性が激高となった本隧道であるが、その希少性を測ってみたい。

永冨氏の『廃道を読む8(隧道詳説4コンクリート隧道)』(「日本の廃道 #8」収録)によると、「徳島県に大正10年竣工の松阪隧道が現存しており、目下現存最古のコンクリート製道路トンネルである」とあるし、「この他に現存するものとしては、東京都の本村隧道が大正10,11年頃に作られている」とのことである。ちなみに後者は近代土木遺産のBランクに指定されてもいる。

コンクリート造りの道路用隧道は、大正10年頃から出はじめたものであるらしい。
そして、この隧道は大正12年の竣功である。




そして、この隧道の文字通りの“顔”である扁額。

結構苦労してネットの隙間から外へ出ようとしたのは、慣例的な通り抜けを果たしたかったと言うこともあるが、それ以上にこれ。
扁額が見たかったからだ。

北口の扁額の近影は、おそらくこれがネット上の初出だと思う。

で、何か南の額と変わったところがあるのかと言われると、嬉しいことに「ある」のである。

「下山隧道」の題字に加え、[@:竣功年] と [A:署名]がしたためられているが、このうちの @ はこちら側にしかない。




竣功年部分の拡大。
右書きで「大正十二年十二月竣功」とあるのが読める。
この竣功“月”は現地ではじめて知った。
開通当日がどんな日和だったのかは記録にないが、何となく快晴ではなかったような気がする。

この竣功月の判明も嬉しかったが、もっと大きな発見というか気づきがあった。

この扁額、形の上では確かに“額”であるが、実際には坑門コンクリートと一体のものである。
隧道の扁額は多くが御影石や花崗岩のような石製で、石工が文字を刻んで題額としたものを坑門に据え付けている(嵌め込んでいる)のであるが、この巨大扁額はかなり例外的に、“型押し”であるように見える。
少なくとも扁額表面もコンクリート製であることは間違いない。

いまもどこかの倉庫に、このときに使われた扁額の“型”が所蔵されているかも知れない。




そして、これは南口にも刻まれていたのだが、題字を書いた人間の署名である。

現地では「 林 谷 題 」のように読んだが、帰宅後にこの名でいくら検索しても、江戸時代の書道家「細川林谷」がヒットするばかりで、大正12年の隧道工事と関わり合いそうなものが見出せなかった。

そこでまた例によって読者の皆様のお知恵を拝借した結果、これが実は谷 題 」であろうと言うことが分かった。(『電子くずし字字典』が役だった)

 梅谷 光貞 (うめたに みつさだ)

それは、第24代の山梨県知事(県令含む)の名であった。

後年ブラジル移民事業に名を残す彼の県政は、大正12年10月から翌年6月までの短期間であったが、たまたまに名を残す機会を得たのは幸運といえるのか。
しかも、日本中探してもベスト10に入るだろうという巨大扁額へ である。




うう〜〜ん!
 イイッ!!


これはとてもイイ扁額と坑門ですね!

願わくは、いまやその用を成さなくなった久しいネットを外し(この場所へ大きな廃品を持って入り込むことは、ほとんど不可能である)、今一度本来の開口を示させてやりたいと思うのだが、その前にまずはこの「お宝」の価値が知れ渡らねばなるまい。

こんな発言は余計な世話で好みじゃないが、貫禄(歴史&外見)のわりに、この隧道は露出が少ないようだったので、つい主張をしてみたくなった。
愛さるにはまず最低限、存在を認識される必要があるとは思うのだ。



…なんてな。

白状すると、私がこの隧道に惚れたという、それだけの話であったりする。





この北口が容易に立てぬ場所であるワケは、坑口から5mも離れぬところで道が完全に切断されているからだ。

左写真はその縁に立って見下ろしたもので、水の流れる谷が鋭く落ちている。
深さは5m以上もあり、対岸には確かに道の続きが認められるが、この河谷を上り下りすることは空手では相当難しい。

右写真は、谷に途中で切断された坑門から続く擁壁である。
道の左右は対称で、上流や下流へと迂回するということが出来ないようになっている。

つまり坑口前は、谷と擁壁と坑門によって外界から画された、5メートル四方ほどの孤立空間なのである。
私もこれを見て引き返すことにした。

残る旧道は、現道との合流地点まで50mもないので、反対側から試せば十分であると考えた。




引き返す最中、水の溜まった南口が “逆さ隧道” を見せてくれた。

どうやら、私もこの隧道に愛されたと見て良いだろう。




16:57 《現在地》

川べりに寄る現道を迂回する。

明治道の痕跡など、有るわけもない。



古屋敷洞門をくぐると緩い登り坂で、暗渠で沢を渡る。
この沢の50m弱上流に分断された旧道は有るわけである。

暗渠の先で、「立入禁止」のバリケードが立てられた軽トラ1台分くらいの小径が左から合わさってくる。
これが旧道だ。

いかにもヤブ蚊が多そうな、濃いぃムード。
しかし安心して欲しい。
道は長くない。




30mほど草道を歩くと、道は左に曲がるそぶりを見せたまま、シーツのお化けのようなマント群落(藪!)に視界を遮られて終わる。
だが、地形はこれに反して谷であり、すなわちまたしても「此岸は草生、彼岸は樹木」となったわけである。

谷の規模を見る限り橋が架かっていて然るべきだが、橋台さえ見あたらないというのは不自然で、ここは暗渠であったかと思う。
それが、洪水か土石流によって根元からイかれたのだろう。
いくら老体とはいえ、道路の擁壁まで一緒にもぎ取る膂力は恐るべきものだ。

…というわけで、北口からのアプローチは欲求不満なチラリズムをもって終了である。
一度立っているから悔しくなんてないが、冬場の様を見たくはある。


撤収。






蛇足気味だが、撤収の途中に【ここから】振り返った眺めが、ちょっと気になった。

旧道(赤)、隧道(黒)、現道(黄色)で示しているが、こうして遠目に見てみると改めて“難場”と分かる。

現道を走っていても洞門がポツンとあるくらいの印象でしかないのだが、実際にはその前後の山腹は50mも上の方までガチガチに固められている。
これだけの「地形改造」をする術を持たない我々の先祖が、これなら隧道を掘って迂回した方がマシだと考えたとしても不思議はない気がする。


で、あともうひとつだけ気になる点(蛇足!)が…。






あの茂み、まさか明治道じゃねーだろーな…







『身延町誌』より
下山隧道
全長 234m 幅 4.0m 高さ 3.5m 大正12年12月 竣功
(『道路トンネル大鑑』+α)

最後に、もし未だならば今後「近代土木遺産」的な視座から新たな評価が下されることを期待して、愛すべき下山隧道の「まとめ」を行う。
例によって素人見立てなので、大いに間違いはあるものと思う。

 <下山隧道の特徴 1>

・大正12年竣功当時からコンクリート造りと考えられ、これは道路用隧道の中では全国的に見ても初期に属すると思われる。
これより古くに開削された県内隧道は数本あるが、そのうち石や煉瓦を含めて覆工を持ち得たものとしては、同町内の「大野隧道」(大正11年竣功)、市川三郷町の「割石隧道」(明治44年竣功)以外に確認されていない。上記両者とも改修により原型は留めないので、本隧道は旧状を留める県内最古の覆工済み隧道の可能性がある。

・本隧道同様にコンクリート覆工を受けている隧道には、Aランク指定(国指定史跡)の「笹子隧道」(昭和13年竣功)や、Cランク指定「御坂隧道」(昭和6年竣功)があるが、これらよりも本隧道は古い。



 <下山隧道の特徴 2>

・洞内はコンクリート吹き付けによる補修を受けて原形を留めないが、両坑門はほぼ完全な形で残されている。
そのデザインは扁額が極端に大きい特殊なもので、類型が少ないか、ほとんど無い。

・扁額は、額も題字も全てコンクリートに型押しされたものであり、その大きさとともに、コンクリート隧道の初期における扁額デザインの試行を感じさせるものがある。

・山梨県内における未使用隧道(旧隧道)はその多くが坑門だけを残して封鎖される状況にあるが、本隧道は簡単な封鎖のみで貫通しており、行政に保存意識があるものと認められる。


 以上のことから…





私は、この隧道がいいなーと思いました。



「いいなー」で終わった私の下山探索だが、この超絶巨大な扁額の謎は宿題となった。
意匠に関わる事だから理由なんてないと言われればそんな気もするが、しかしこれほど見た目に大胆で前例が無い(乏しい)意匠を、天下の公道で披露するというのは、何かしらのモチーフがあって然るべきだと感じていた。そう考えなければ個人的に納得が出来ないほど、この扁額は特異に大きいのである。

そして、最初の探索から4年も経った今年平成25年10月になって、「もしかしたらこれがモチーフか?」と思えるものを遂に見つけたのである!

その場所はといえば、…これぞ「灯台もと暗し」なのだろうが、下山隧道から直線距離で3kmも離れていない至近の地。
同じ身延町内の古刹で全国的にもめっちゃ有名なお寺さんの久遠寺(身延山と言った方が通りがイイカモ)である。

久遠寺の入口に、「総門」と呼ばれる立派な「門」があるのだが、その門に掲げられた扁額というのが……

↓↓↓





マジで超でかかった!

さらに、現地にある解説板の一部を引用すると…

…三十六世日潮上人のとき改修され、その折りに日潮上人の開会関の大扁額が掲げられました。開会関(かいえかん)とは、妙法五字の尊い教えで全ての人々の心を開き…

といった具合で、この総門に掲げられている額縁を大扁額と呼び、一般的な扁額よりも大きいことを「ウリ」にしていたのである!

ちなみに「扁額」自体は元もとは隧道用語ではなく、こうした社寺に掲げられるものが起源であるから、名称が一致しているのは不思議ではない。隧道の意匠の多くは明治期に英国からもたらされたが、扁額は日本起源だともいう。問題は、ここにとびきり大きな扁額が存在している事実である。


近世以前から身延を象徴する存在であり続けた身延山の門前に聳える大扁額と、その最寄りの主要道路に県下最長の近代道路隧道として開通し、身延の新たな“総門”の役割をも果たすこととなった下山隧道の巨大な扁額。

この両者のイメージの酷似は偶然であろうか。
後者は前者をイメージのモチーフとた可能性が大であると考えるのだが、いかがだろう。


2013/10/31 追記






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