橋梁レポート 三好市池田の巨大廃橋跡(池田橋) 第3回

所在地 徳島県三好市
探索日 2024.02.26
公開日 2024.04.03

 ステージチェンジ 最初に見つけた右岸の橋台へ


2024/2/26 16:07 《現在地》

構造の細部に謎を残しながらも、左岸の橋台を堪能したので、今度は右岸橋台を目指す。
両者の違いから見えてくることがまたあるだろう。

両岸間の移動は、橋台に乗せられるべき橋桁が健在だったら300m足らずの至近だが、ないので隣の橋へ迂回する必要がある。
最短ルートは、池田ダムを渡って向かうルートで約2.8km。しかしこれは来た道を戻ることになるので、私はダムとは反対の下流側にある四国中央橋(しこくちゅうおうはし)経由を選んだ。こちらは右岸橋台まで約3.6kmの距離である。

写真は四国中央橋の様子。
この橋は国道32号の新道として平成15(2003)年に完成した、池田周辺で最も新しい吉野川横断橋である。ここ徳島県三好市の隣には、愛媛県の「四国中央市」がある。合併による同市の誕生は本橋翌年であり、当時この「四国中央」というネームのバリューが盛り上がっていたことが窺われる。
なお本橋は両岸間に大きな高低差があるのが特徴で、左岸からだと自転車に爽快な下り坂だった。景色も撮らないうちにほとんど渡りきってしまった。



四国中央橋を渡り、国道32号の順路にしたがって右折すると、国道192号(あとついでに国道319号も)との重複区間が始まる。
道は吉野川右岸の高い堤防上をしばらく走り、写真はそこから進行方向の池田旧市街地方向を撮影した。

まだ少し遠いので目指す右岸橋台は見えない(予め場所が分かっていればギリギリ見えるレベル)が、伝統的な池田の市街地が吉野川の水面から30m以上高い段丘面上に展開していることや、探索中の廃橋や池田ダムが共にこの段丘によって狭められた部分の吉野川にあることが見て取れる。
そして右岸橋台のすぐ上、段丘の突端に、地形図にも注記のある諏訪神社が鎮座する。現国道は、その真下を池田トンネルで貫いているが、昭和51(1976)年に同トンネルが開通するまでの国道は、旧市街地を貫通していた。現在の県道5号観音寺池田線の経路である。

こうして見ると廃橋は、現在あるどの橋よりも池田市街の中心に近い位置で対岸へのアクセスを提供していたことが分かる。
一方の対岸側は、先ほど探索した通り、川沿いに県道があるだけで集落はない場所だったが。



で、そのまま国道を池田トンネルへ近づいていくと、本レポート冒頭の写真の眺めとなる。
両岸相対する橋なき廃橋台の姿が顕わになり、私がこの探索へ誘われたのは、いまから1時間以上前、エクストレイルの車上でこの景色を見たときだった。
車上から撮影出来なった眺めをいま初めて撮影しつつ、右岸橋台へ近づいていく。



16:15 《現在地》

池田トンネルと、右岸橋台の位置関係。
いままで橋台にだけ注目していたが、橋台へ通じた道はどこにあるのだろうか?

観察すると、市街地側から橋台へ延びてくる道形が見えた。
ただ、その一部は池田トンネルによって断ち切られているようであった。
両者は同時に存在しなかったものだったようである。すなわち、橋は昭和51(1976)年時点で既に利用されていなかったと考えられる。

この見えた道形を辿って橋台にアプローチすることは当然考えたが、その前に、橋台を見上げられる河原に下りてみることに。



16:16

池田トンネルの約100m手前に、河原へ降りていける小道があった。
この道の行く手には、無人の水位観測所や、橋台の中腹に隣接して建っている民家らしき建物もある。一軒だけ堤防の外に暮らしているのは、なかなか剛毅な選択だと思った。どんな由来があるのか。
ともかく、この小道から河原へ向かう。左岸のような下降の苦労は今度はない。



現在地周辺の複雑な繋がりを見せる道の様子と、目指す右岸橋台の位置関係を、地理院地図を最大までズームした地図(ズームレベル18)で見ている。
赤色で描いた廃橋関係の全ては私が書き加えたものだ。
「現在地」から右折すると堤防の中段にある平場に降りて、そこからさらに河原へ降りる右の道と、そのまま中段の平場を進む道、そして堤防上に戻る左の道の三又になる。



これがその三又分岐から見た景色。
左の道が中段の道、右の道が河原へ降りていくスロープだ。
奥の民家の背後にそそり立っている黒っぽいコンクリートの“ビル”が、目指す橋台だ。
対岸のそれ以上に水面との比高の大きさを感じるが、障害物が少ないせいでそう見えるのだろう。でも本当に高い。

なお、ここには上記の地理院地図に描かれていない、しかし存在感のある道が存在する。
それが、河原と橋台のある高さを結んでいる、明らかに参道らしき雰囲気の石段だ。
橋台のすぐ上に諏訪神社があるので、これは諏訪神社の参道の一つなのだと思うが、集落や道ではなく、河原に始まっている点が非常に特徴的だ。
川から上がってきた人が直ちに参詣できるような配置といえる。
すなわち、ここに渡し場や河港のような水陸交通を結節する施設があった可能性が大だと思う。(特にそうした案内物は見当らないけれど)



当地の来歴を物語るかのように小舟が陸揚げされた、石段の始まりの場所。
ここから中段の道との交差部にある短い踊り場を挟みつつ、橋台の高さまで階段が続いているのが見て取れた。
これを使うことで橋台の上下を短距離に行き来できるので、便利そうだ。

なお、石段の周辺には巨大な石灯籠(赤矢印)、鳥居代わりのような一対の石塔と狛犬(黄矢印)、少し離れたところのお地蔵さま(緑矢印)など多くの信仰物が設置されている。特に石灯籠は立派なもので、集めた信仰の篤さを伺わせた。



石灯籠には達筆な文字が刻まれていた。灯篭本体の文字は「光塵」、台石の文字は「世話人 東甼若連中」とある。建立年が分からないのが残念だが、最寄りの池田東町の若連中(主に近世から明治頃までの地域コミュニティに存在した若者たちのグループ)が勧請したものなのだろう。
また、この後の石柱に刻まれた文字は達筆すぎて解読出来なかったが、「明治三十三年」の文字が読み取れた。

チェンジ後の画像は、中段にあるお地蔵さまの様子だ。
台石に「三界萬霊」と書かれているほか文字は見えないが、なんとなく慰霊のために建てたのではないかと想像されるような慈悲に満ちた表情が印象的だ。
この石段自体の通行人がとても少ないようで所々草も生えており、すぐ近くの国道は騒がしいけれど、ここは寂しげである。



労せず河原へ。そして、橋台の直下へ迫る。

橋台そのものの形状や構造は、先に見た左岸のそれとおそらく同一であり、特に違いが見いだせない。印象的な中二階の存在も同様で、そこへ降りるための階段もしっかり見えている(空中に張り出していて通るのがおっかなそうだ…)。橋台を隠すものが少ないだけに、際立つ高さがより強く実感される。

隣接する民家の存在も大きさの比較対象物として好ましが、敢えてこの場所に住居している理由が気になるところだ。住人に出会えれば何かお話しを伺いたかったが、叶わなかった。勝手な印象としては、伝統的な舟宿のような業種と関わりがあったのだろうかと思わせる立地だ。本橋の来歴についてこれほど近しく見てきた人も無さそうである。



16:20 《現在地》

崖のようだった対岸とうって変わって、広さがある右岸の河原。
とはいえある高さから下には灌木のような根張りのある樹木は全くなく、度々激しい増水に現れていることが察せられる状況だ。

対岸の橋台も、ここから見ると驚愕すべき高さである。
いつの時代の橋であるという明確な証拠が未だにないが、きっと昭和前半以前の古い橋だと思うし、この比高は当時の橋としてはかなりのものだ。
橋の高さが橋台や橋脚の高さに直結しており、そのことが施工を難しく、かつ高額にしていたことは想像に難くない。



そして、何回見ても得体の知れない不穏さを感じさせるのが、この広い河中に1本だけ露出している、破壊された橋脚の残骸らしき小島だ。
ちょうど河を三等分したときの右岸側の位置に建っているように見え、あと1本はこれが河中になければならなかったと思うが、それは見当らない。
もし廃橋の橋脚を疎水や洪水の支障になるという理由で故意に撤去したのであれば、むしろこのように中途半端に露出している残骸は問題だろうし、なんにしてもイレギュラーな出来事に関係していそうな存在だった。



うん! 格好いい!!

この城塞の如きマッシブな存在感、たまらん! 見上げてナンボの大迫力だ!

以前の回でも書いているが、この橋脚の形式上、架かっていた橋桁の型式が上路トラス桁であったことまでは、ほぼ確定。
その先の詳しい種類は、桁が残骸の一欠片も見当らないので分からないが、一つだけ言えるのは、その雄姿が、さぞや山峡の川面に映えていただろうということ。
これだけの橋ならさすがに現役当時の写真があるだろうから、いまから帰宅後の調べが楽しみである。



こうして見ると、今のところ細部に至るまで両岸橋台のデザインはそっくりだ。
この写真の部分の構造、左岸にもあった。ただ向こうは大量の倒木に埋められていた。こっちはそれがなく完全な姿で露出していた。

同じといえば、当然ここも……(↓)



未だに存在理由不明瞭の中二階を構成している、アーチ中腹の梁の集合体。
構造は左岸のそれと同じだが、その老朽の具合はこちらがよほど進んでいる感じ。
錆色をした鉄筋がほぼ全て露出しているだけでなく、一部貫通して穴が開いているのに戦慄する。

いまからあそこにも行くつもりだが……   だ… だいじょうぶか? 乗って。



 右岸橋台の突端と、中二階と


16:25

次は右岸橋台の先端と、中二階部分へ行ってみよう。この橋を巡る探索も、いよいよ最後のピースに手をかける時が来た。

私にとってお誂え向きな場所にあるこの石段を登る。
自転車を持ち上げるのはさすがにキツイので留守番してもらった。
宣揚文(せんようぶん)のなかに「明治三十三年」の文字が読み取れる両脇の立派な標柱(しめばしら)や狛犬さまに挨拶しつつ、まっすぐ30mくらい登っていくと……



16:27 《現在地》

石段が唐突に終わり、道にぶつかった。

出会った道の【左を向くと】、国道の池田トンネルの坑口直上を少し無理矢理嵩上げされるような形で越えており、また【振り返ると】登ってきたばかりの石段越しに吉野川の河原が広がっていた。
本来石段はここで終わりではなく、道とここで平面交差してから正面の斜面をさらに登って、真上にある諏訪神社に達していたと思うが、池田トンネル建設の影響であろうか、この上の斜面には大幅に手を加えられており、石段はなくなっていた。



私の進路は、石段を登り切ったところで右折だ。
そうすると、もう目と鼻の先に目指す右岸橋台の入口が待ち受けていた。
したがって、いまいるこの道こそが、廃橋に通じていた旧道の跡ということになる。

市町村道、県道、国道、それとも……、ここがどんな素性の道だったのかまだ分からないが、現状、半ば草生しながらも舗装された道としてここに健在である。
ただ、やはり池田トンネル建設絡みだろうが、旧道時代そのままの風景ではなさそうだ。コンクリート舗装の路面も、法面の蛇篭工も、路肩の歩道用手摺りも、全て後年のものという雰囲気だ。

果たして橋台は、無事だろうか? 左岸では、ちょっと踏み込むのに苦労したが…。



ここが右岸橋台の入口だ。
正面の柵の向こうに橋台がある…… はずだ、よく見えないが。
ここでも道が分れており、左折して岸に沿って進む道がある。
その行先や橋との関係性が少し気になるが、まずは橋台だ。



マジか! 封鎖超ユルい。

詳しい数字は分からないが、規模からして人口1万クラスはありそうな池田市街地を間近に背負う立地でありながら、断ち切られた廃橋に対する封鎖のこの緩さは、完全に予想外だった。
何年前に置かれたのかも分からないボロボロのガードレール以外、道幅を完全に塞いでいる障害物はないし、立入りを制限する警告看板なども見当らない。左端に見切れている柵にも余裕で隙間がある。
足元には舗装も残っているので、藪漕ぎをしなくても橋の上……正確には橋台の上に躍り出ることが出来た。

しかし、緩い封鎖で存在を許されているように見える一方で、この廃橋がどのような素性のものであったかということの説明板なども見当らず、この巨大で目立ちまくっている廃橋台の扱われ方は、どこにでもある目立たぬ平凡な廃橋台同然であった。
池田の人たち、この橋の存在から目を背けていたりしないよね? 認めてるよね? ねぇ??!



いざ、2度目の突端へ!

ってか、マジかよ〜〜!

このまま助走を付けて対岸へ Fly high !!! してくれと言わんばかりのフリーさじゃねーか。

もう柵とか警告とか一切なく、普通に断ち切られた橋台先端に行けちゃう。



16:28 《現在地》

右岸橋台の先端に到達!

先に見た左岸橋台と全く同じ感じで、ぷっつりと途絶えている。
橋台の入口から、この先端までの距離感も、左岸と同じ。たぶん綺麗な両岸対象の橋だったんだろう。
おそらく下の人家と関係があるテレビアンテナが、この巨大な人工物に与えられた最後の役割であったようだ。

……さびしい。



なお、橋に触れてはいないが、ほぼ重なる位置で送電線が川を渡っており、その被覆された電線が手を伸ばせば掴めてしまいそうな低高度に垂れていた。行く手に目を向けると、ダイナミックなカテナリー曲線が対岸に延びていた。索道のケーブルを連想する風景だった。

満足し、突端から退く。



16:29

最後に、橋の袂から“例の中二階”へ向かってみる。
左岸橋台では下流側にのみ中二階へ降りる階段があったが、この右岸橋台も同様で、下流側だけにそれはあった。
あると分かっていれば、見つけることは容易かった

が、実際に足を踏み入れるのには勇気が要った。

だって、橋台の側面からコンクリート階段が出っ張っているだけの構造なので、下は完全に空中である。
しかも、手摺りも高欄もないので、うっかり足を踏み外したら地面に落ちる。背の高い樹木が高さを幾分カモフラージュしてくれたが、私は既に下からこの階段の“高さ”を【見て】知っているので、落ち着かなかった。



しかも、降った先の中二階の地面に、老朽化によるものらしき小さな穴が空いているのが、また気持ち悪かった。
よもや私の体重程度で、この階段や中二階の地面が抜けることはないと信じているが……、気持ちは良くない。
まあ、いずれにしても長居が無用なのは間違いないだろう。さっさと見て撤収するぞ。
この中二階という目的不明の謎空間、その正体に繋がるものを、なにがしか見つけたいのである。



心ざわつかせながら、空中に張り渡された寄る辺なき廃階段を下りきり……、いざ



中二階!

注目していたその構造だが、おそらく左岸と完全に一緒だ。

やはり陸側に向かって謎の横穴が三つ開いていて、奥が行き止まりであることも同じ。
違いがあるとすれば、見える景色と、全体的に著しい老朽化具合くらいである。



凄まじい壁面の朽ちっぷり。
明らかに左岸よりも朽ちている。コンクリート表面のほとんどが剥離し、内部に埋め込まれた鉄筋の格子が露出しているうえ、その鉄筋も随所で破断し、垂れ下がってきている。
もはや梁や柱が本来の強度を保っていないことは明確だが、構造物としての全体の大きさに助けられているものか、倒壊に至るような大きな歪みの兆候は見て取れない。

なお、案の定、露出している鉄筋の形状は、丸鋼(丸形鉄筋)だった。
現在使われているのは、表面に細かな凹凸がある異形鉄筋である。より強度や耐久性に優れた異形鉄筋が使われるようになったのは昭和40年代以降とされ、それ以前はほぼ全て丸鋼だった。構造物が建設された時期を多少でも絞り込むことが出来る発見である。



左岸でも同じ感想を述べているが、ここだけまるでトンネルの中の風景だ。
外に道が通じていない、空中にぽっかりと浮かんだトンネル。
まあ、実際のトンネルの内壁に鉄筋が仕込まれることはほとんどないが(強い偏圧が掛かる坑口付近などは例外的に使われることもある)。

結局、両岸の橋台に特徴的な中二階があったものの、利用目的を特定出来る発見はなかった。



そうと分かれば、マジで長居は無用である。
こんな超絶薄っぺらいコンクリートの床は、周囲の老朽具合を見るにつけますます信用がおけない。
現地で知りうる事はだいたい把握できたと思うので、未だ名前も分からぬ巨大廃橋の探索を終えることにする。


なお、私はこの段階でもまだ橋の素性を図りかねていた。
私がこれまで体験したどの橋にも、似ていると思えるものがなかったのである。






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