橋梁レポート 定義森林鉄道 巨大木橋(大倉川橋梁) 再訪編

所在地 宮城県仙台市青葉区
探索日 2015.10.26
公開日 2015.11.04

現存最大級の林鉄用木橋、その(おそらく)最期の勇姿


【位置図(マピオン)】

今回は森林鉄道の遺構を愛する皆さまに、悲しいお知らせの“前触れ”を、お伝えします。

2004(平成16)年11月に探索を行い、同月中に全7回のレポートを完結させた、定義(じょうげ)森林鉄道。その探索の序盤に登場し、奥地探索への登竜門となって我々の前に立ちはだかった、1本の“伝説的木橋”を、憶えているだろうか。

水面からの高さは推定30m以上。
4径間を数える総延長は推定50m以上。
方杖形式の主径間で大倉川を跨いでいた、仮称「大倉川橋梁」。
またの名を、“定義の巨大木橋”

林鉄探索者のバイブル「全国森林鉄道」の著者で、全国の森林鉄道に精通した西裕之先生が、2014(平成26年)発行の最新作「特撰 森林鉄道情景」の文中において、「恐らくわが国最後かつ最高・最長の現存木橋」とのお墨付きを与えた、私にとってもあまりに忘れがたい、名橋中の名橋だ。

私が探索しレポートを公開したときから、今月でちょうど丸11年が経過しているこの橋が、ついに――


墜ちようとしている。





この偉大な橋については、2004年のレポート公開以来、ときおり親切な読者さまから現状の情報が寄せられることがあった。
また、自身でも“定期検診”と勝手に銘打ち、ちょうど5年が経った2009(平成21)年11月に再訪して確認している(レポート化はしていないが)。
さらに2011年3月に発生した東日本大震災では、この一帯も震度5強の激しい揺れに見舞われ、廃橋の安否どころではない災害となってしまったことは周知であるが、友人の柴犬氏が4ヶ月後の7月に現地を訪れ、驚くべきことだったが、「全径間が架かっている」と、教えて下さったのである。

定義森林鉄道が昭和38(1963)年に廃止されて以来、架け替えられた記録は見あたらず、廃止から50年を超えていることが明らかな木橋にも拘わらず、不死身のように架かり続けてきた本橋であったが、今年2015年10月19日に匿名の読者さまより送られてきたメールと、添えられた2枚の写真を目にした私は、いよいよもって橋の寿命に猶予のない事を「直感」した。
…いや、そんな主観的な「直感」などというものではない。
おそらくその写真は、誰の目にも明らかに、“死戦期”を迎えた橋の姿として映るはずだった。
これまでいくつかの廃橋の「架かっていた最期の姿」と「墜ちた姿」、その両者を並べ見る機会を経験してきた私の目がもし節穴でないなら、本橋に残された時間は6ヶ月以内と予察するものである。

かくなる上は、私の愛した橋の勇姿をいまいちどだけ、この目に焼き付けようと思い立ち、メール受信からちょうど1週間後の10月26日、三度6年ぶりに現地を訪れた。
残念ながら夕刻が迫り、写真のコンディションは今ひとつとなってしまったが、それでもよろしければ私と一緒に眺めてほしい。
森林鉄道という、わが国における一つのロストテクノロジーが、平成に遺した最大の遺物の(おそらく)最期の姿を。


(1)アプローチ (十里木集落〜大倉川橋梁)


2015/10/26 15:34 【現在地:車道終点】

しまった。ちょっと時間が遅くなってしまった。私が十里木に辿りついた時、既に太陽は西の山の端に墜ちていた。
本当はもう少し早い時間に訪れ、せめて陽光に照らされた橋を見たかったが、この前の探索が遅くなったために果たせなかった。
しかし、今日を逃せば、おそらく次に訪れるチャンスは早くとも1ヶ月後になると思ったし、その時まで橋が保つ保証はない。
まだ夜の帳が降りるまでは1時間そこらの時間があるし、今から橋へ駆け付ければ撮影は出来ると判断した。

ここは仙台市の奥座敷的立地にある定義如来のさらに奥、大倉川沿いの最奥集落である十里木の車道終点に車を停めると、最低限の荷物を背負って、すぐに山道へ駆け出した。
今回は3度目の訪問であり、ルートはよく知っている。目的の橋までは、徒歩で15〜20分というタイムスケールで、少しだけ急げば10分で行けると踏んだ。
もちろん、過去の訪問時よりも道の状況が悪化していないという前提だったが。
なお、これまでの訪問は全て複数の仲間と一緒だったので、一人きりには淋しさを憶えたが、そもそもが急な思い立ちであり、やむを得なかった。


2015年10月26日 2009年11月1日 2004年11月3日

15:35 【現在地:ゲート】

いつも橋へ向かうとき、軌道跡へ足を踏み入れると最初に出会うのは、このゲートだ。
常に封鎖されているが、常に脇が甘く、常にスルーされ続けている。
特に深い印象は与えないスルーポイントだが、こうして11年の隔たりをもった3枚の写真を比較してみると、微妙な違いに気付く。
巡り来る季節の順序は毎年変わらなくても、その移り変わりの中には“風圧”のようなものが確かにあって、“弱い”ものから自然と淘汰(風化)されて姿を消していく定めである。
ここでは、ゲートに取り付けられていた「不法投棄禁止」の張り紙が、その“弱者”であったようだ。



2015年10月26日 2009年11月1日 2004年11月3日

上の3枚の撮影地点は一緒ではないが、いずれもゲートから巨大木橋までの道中である。
この区間は定義林鉄の軌道跡に他ならないが、上流にある砂防ダムの工事用道路として林鉄廃止後に車道化しているらしく、全体的に道幅が広げられていて、枕木やレールも見あたらない。
随所に落石や路肩の決壊、それと深いぬかるみがあり、既に車は通れない状況になって久しいが、この11年の変化についてみれば特筆するような事は無い。
あらゆる崩壊は手付かずのまま放置されているが、一筋の明瞭な踏み跡はいつも敷かれていて、山の幸を求めるもの、川の幸を求めるもの、そして橋を求めるもの達に、程よい快適と緊張を与えている。
今回の探索では、はじめてこの区間で人と行き違ったが、その彼は山の幸を求めるものであった。



2015年10月26日 2009年11月1日 2004年11月3日

15:45 【現在地:巨大木橋 直前】

慣れた足どりで走り込むと、目論み通り10分で到着した。
3度目ともなれば、目指す橋が出現する直前の風景だけは鮮明に記憶されていた。
藪の背後に大きな空間の広がりを予感させる明るさが出てきて(これは此岸の道がこれ以上続いておらず、道が対岸に移動することの予徴)、続いて1枚の白い看板(船形鳥獣保護区案内板)が見えてくると、いよいよとなるのである。

なお、肉眼ではこの辺りからもう看板の背後の空中であるべき位置に、巨大な木造船のようなものの片鱗が見え隠れする。
それが目指す橋であることはいうまでもない。
11年前の遭遇では、限りない戦慄。
6年前の再会では、現存への安堵。
此度の再会では、旧友に対するような懐かしさが、最初に込み上げてきた。

なお、橋頭のこの地点は、11年の間で目に見えて藪が深くなった。
具体的には、灌木が生長して、大倉川の視界があまり開けなくなった。

さて、それではいよいよ “ご対面”である。



2015年10月26日
2009年11月1日 2004年11月3日

あぁ…

これはマジで限界来てる……。

実は2009年の時点で、既にこの橋には重大なイレギュラーが生じていた。

正確な時期は不明だが、2004年から2009年の間に橋の両端部の主桁材が切断され、橋が地上から切り離されていたのだ。

2004年の当時既に橋の老朽化は相当進んでいて、正直、いつ墜ちてもおかしくないと思っていた。
そこへ私を含む多くの林鉄ファンが訪れるようになり、中には私を含め、橋を渡ろうとする者もいた。
それを知った本物件の管理者である東北森林管理局仙台森林管理署(青森営林局仙台営林署の後身)は、管理上の危険を感じ、物理的に渡れないように対処したのではないかと個人的に考えている。
2004年の時点では封鎖されておらず、探索者としては自然な挑戦であったと思うので後悔はしていないが、この切断が橋の寿命を縮めたことは間違いなく、自身の行為との因果関係の有無を問わず、残念に思う。

とはいえ、一番の感想は、本当に良く今まで保ったなというものだ。
冒頭で述べたとおり、この橋は昭和38(1963)年に廃止された林鉄の橋であり、昭和13(1938)年の林鉄開通時点に架けられたものであるかは不明だが、少なくとも廃止から50年を経過している。
一般的に木橋の寿命は30年といわれ、それも適切な管理を受けた場合のものである。
本橋はその特別に巨大であるが故に、通常の木橋に較べて遙かに頑丈に作られていたことは疑いがないが、それにしても設計の必然であったとは信じがたい、何か超然的な神力に護られでもしていたのではないかと思うような長命であった。

だが、それも遂に限界。

私の前に三度現れた名橋は、目の前でリアルタイムに崩れ落ちるのではないかと思われるほど、あらゆる種類の歪みを全体に顕していて、重力との終わりのない戦いに絶望の死に息を漏らしていた。




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