橋梁レポート 華厳渓谷と鵲橋  第6回

公開日 2008. 5.25
探索日 2008. 5.10



封鎖された遊歩道「華厳渓谷歩道」を辿る旅も、残すは今回を含めてもう2回。
最大の踏査目標であった「鵲(かささぎ)橋」の踏査を終えた私が次に目指したのは「華厳渓谷」。

華厳渓谷は中禅寺湖から華厳滝となって流れ落ちた大谷(だいや)川が、観瀑台直下にある涅槃(ねはん)滝を経、白雲滝等支流を合わせながら下る、約2kmの安山岩峡谷である。
下部では国道120号「第一いろは坂」にぶつかる。

ここには、鵲橋がコンクリート橋に改築された昭和25年頃に「華厳渓谷歩道」が開設され、日光市街方面から奥日光へ入る最短の道としてよく利用されていたという。
しかし落石などの危険が大きかったためにやがて廃止され、今では地図やガイドからも姿を消している。
絶賛された華厳渓谷の風光も、限られた展望台(観瀑台や明智平など)から見下ろすだけのものへと戻っている。



華厳渓谷の道

 霧の谷底は文化財の宝庫?!


16:35 大谷川合流地点到達。

鵲橋直下の急階段を経て、流路いっぱいに飛沫を上げる白雲滝下部の瀬に沿う。
滝が運んできた瓦礫によって、歩道の路盤はほとんど埋没していたが、やがて水流と道を区切る古いコンクリートの仕切りが現れた。

先を見ると、滝の行く手が唐突に消えていた。
なんとそこには、大谷川に合流する手前で白雲滝の膨大な水量を全て横取りする、巨大な水門が存在していたのである。




大谷川との合流地点から振り返る、今来た道。
情報提供者の体験談とも合わせると、この苔生した階段が鵲橋を経て、華厳滝エレベータ地下通路にある“開かずの扉”まで通じていた事になる。
現在の観光ルートからは完全に抹殺された遊歩道である。

しかしそのことは、この先に連なる華厳渓谷歩道までが廃道であるということを意味しなかった。
これまでの行程を思えば、容易に辿り着く術の無い人跡稀なる場所を想像させた華厳渓谷であるが、そこには歴史の深い現役工業施設群があったのだ。




最後まで透明な水面を一度も見せることなく、名前通りの姿で地上から姿を消す白雲滝。
シースルーになった管理歩廊の真下に数連の呑口があり、全水量が消える。

そして、本来ならば合流するはずだった大谷川の流れもこの通り、ほとんどゼロ。
華厳滝となって間違いなく中禅寺湖から落ちていたはずの膨大な水量が、やはりどこかへ消えている。




大谷川本流の失水の原因も、すぐに判明。

白雲滝同様、やはり人工的に取水されていたのだ。

堤体の白化の度合いや、西洋の城を彷彿とさせる金属製水門の形状、水流部の石張りなどから、現地でも「かなり古そうだ」という認識をもったこの取水施設(ダム)であるが、帰宅後に調べ直したところ、大正13年に建造された近代化遺産級の古物件であることが判明した。
名称は、畏れ多くも「華厳ダム」というそうだ。




華厳ダムの堤体から上流には、ようやく本来あるべき水流が存在していた。

日本三大名瀑のひとつ華厳滝の滝壷までは約300mの至近である。
また、150m先にはその前衛たる涅槃滝が存在している。
両岸共に道の跡らしきものはなく、また未だかつてこの谷を遡行したという話を聞いたこともない。

霧の向こうからやってくる水の流れは平凡で、日本の水が体験しうるなかで最大級の“大事”を終えてきたというような、特別な表情は感じられない。
しかし谷の全体に川下へ流れる冷たい風が吹いている。これが滝によって運ばれた風であるかは分からないが。




「華厳ダム」までで上流側の観察を終え、白雲滝と大谷川出合いの地点に戻る。




そして今度は下流方向へ狙いを定める。

この地点に建つ一基の鉄塔は、ここまでの私の進路に度々現れた“垂れたワイヤー”の執着地である。
中宮祠と華厳渓谷の施設群とを結ぶ索道(ないしは単なる電線)のあった名残だ。


そしてもう一つ、霧の中に浮かび上がる大きな橋の姿が…。





地形図に描かれた奇妙な“道無き橋”の正体は、巨大な水管を抱いた鉄のワーレントラス橋であった。

確かに歩廊も“上路”として渡されてはいるが、それはあくまで水管橋の添え物のようだ。
遊歩道時代にもこのように渡っていたのだろうか?




水管橋は最近塗装し直されたらしくパッと見ではさほど古いものと思わなかったが、銘板を見つけて考えを改めさせられた。
これまた華厳ダム同様、近代化遺産級の土木構造物であったのだ。

 昭和拾年七月竣工

水管橋を渡ると、先ほど白雲滝から根こそぎ奪い取ったものと思われる水が、深いプールに集められていた。

プールの向かいは真新しげなロッジ風の小屋があり、通路に敷かれたゴムのマットなど、ここが現役の工業施設であることを強く感じさせるものだ。
とりあえず、一連の施設はすべて無人のようだが。




昭和10年竣工の水管橋だが、反対側にはさらに豊富な情報が刻まれていた。

橋門構の部分に「古河鉱業株式会社 馬道水源水路鉄管 製作 佐藤工業富山工場 昭和二十七年七月」。
また端材の銘板には「東京田原製作所 製造」とある。

水管部とトラス部の製造者も竣工年も異なっており、トラス部分は道路橋などの転用という可能性もある。




純粋な橋の名前は分からないが、取りあえず「馬道(まどう)水管橋」としておこう。

手元の資料によれば、先の華厳ダムを含めたこの一連の施設は、古河鉱業株式会社(現:古河電工)が大正13年に建設した「馬道発電所」の関連施設である。
同社経営の足尾銅山(日光市足尾町)で不足する電力を補うため、大谷川沿いに多数増設された水力発電所群のうち、もっとも上流に位置する施設であるという。

昭和25年に栃木県が「渓谷歩道」を整備するよりも前から、華厳渓谷はヤマの経営に関わる開発を受け入れていたことになる。




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 白雲荘


16:44 白雲荘着。

「謎の橋」もとい「馬道水管橋」を渡って道は大谷川の右岸へ。
ここには水路に関する施設に加え、小綺麗な小屋が一棟ある。
中にはまだ木の香りが充満していそうな真新しい小屋で、万が一の場合には私もここで夜明かしできるだろうかと期待したものの、しっかり鍵がかかっていた。

いまは一年で一番陽の長い時期であり、時刻はまだ午後5時前だが、霧雨が降り続く悪天候のため、渓谷には早くも薄暗さが忍び寄っている。
渓谷の探索が終わった後には鵲橋から「瀧壺道」をよじ登り、大平にてチャリを回収して、それからさらに「いろは坂」を駆け下って日光市街へ帰還せねばならない。
それを考えると、どんなに遅くとも午後5時半にはこの場所を離れたい。(瀧壺道で夜になるのは絶対に避けなければならない)

そんなわけで、華厳渓谷の探索は必然的に慌ただしいものとなってしまった。




小屋や水路のプールを見下ろす位置に、一基の古碑を発見した。
わざわざ参拝用に金属製のタラップまで用意されている。
道を探して、碑の前まで行ってみた。

碑は発電所らしく「水神」碑であり、両脇に小さな文字で建立年および建立者の名前が刻まれていた。
大正13年とあるから、一連の施設の竣工に合わせて奉ったらしい。
おそらくは、華厳渓谷沿いに初めて道が拓かれたのも同時期だろう。




白雲荘のすぐ下流に、半ばまで地面に埋もれたような建物がある。
これもまた地中の水管路に関係したプール(水圧解放用のサージタンクであろう)であった。
中を覗き込んでみると、地底湖のように真っ青な水が溢れんばかりに波打っていた。

下流へ続く道は、この施設と山の斜面の間の狭いところを階段で下り、奥の小さな岩場を回り込んでから渓谷の本番へと入り込んでいく。




もともとは発電所の管理歩道として作られた道であったろうが、
戦後間もなくして改良され、観光歩道として一般に開放された。


だがこの道。

浮かれた観光ブームには、いささか険しすぎたのかも知れない…。





 華厳渓谷歩道 三号吊橋


16:50

白雲荘から200mほど進むと、かなり大きな吊橋が現れた。
対岸へ渡るものではなく、右岸の険しい場所を迂回する桟橋代わりに架けられているのだが、初見では誰しもが驚くほどに急な勾配が付いている。

また橋の長さに対して踏み板の幅が狭い、いかにも事業用といった感じのする吊橋で、金属の主塔もワイヤーも橋桁も、全てが新しい風合いを持っている。




それもそのはず、この「3号吊橋」平成14年1月に架けられたばかりであった。(下流側主塔に銘板あり)

そして、遊歩道時代に使われていたであろう旧橋の残骸が

とんでもない姿で 河中に存在している!

まずこの写真は、上流側の旧橋橋台である。
5年前まで現役であったとは思えないくらい風化している。




水量のほとんどを水路に奪われ、広大な河谷が嘘のように静まり返った谷。

だが、たとえ川の流れが崖を削らずとも、華厳渓谷の不安定な火山灰地形は、容赦なく崩壊を繰り返していた。

広い河谷には、繰り返される対岸の崩落によってもたらされた膨大な岩塊がひしめいていた。
その中には、アパート一棟まるまる落ちてきたかのような巨岩も含まれている。


 そして、

この谷に散乱しているものは、そんな自然の岩ばかりではなかった!




瓦礫の海を渡る巨大な片勾配橋、3号吊橋。


その旧橋の痕跡は…。




対岸の粉々になった地面と一緒に、瓦礫の海に溺れていた。

現地の凄まじい崩壊の状況からは、旧橋の当初の姿を十分に想像することは難しい。

しかし、瓦礫の海の中に主塔を含む橋台一基と、別の主塔の一部が存在している状況を考えるに、旧道はここに2本の連続する吊橋を設けていたと思われる。

それは、右岸⇒左岸⇒右岸というふうに架かっていたと思われ、左岸が原形を全く失うほど崩れたためこの惨状を呈するに至ったのではないか。





「対岸経由の連続橋」説は、現橋の隣に現存する旧橋の橋台が、いずれも現橋に対し30度ほど斜行していることからも支持されるように思う。


それにしても…

瓦礫の海に紛れ込んでいた旧橋の橋台の姿にも驚いたが、改めて見ると現橋の勾配も凄いな…。

全体にわたってこんなに傾斜した吊橋は、他に見たことがないかも知れない。





 華厳渓谷歩道 中〜終盤


ものの本によれば、華厳滝というのはその誕生以来これまで数万年を経る間に、なんと800m近くも後退して現在の位置にあるのだという。
つまりは、現在見ることが出来る華厳渓谷の大半は、華厳滝がその鑿先となって谷を深くした結果ということになる。
たかだか数万年の間にこれだけ動いてきたらしいのだ。
現在の華厳滝から中禅寺湖までは残り300mほどに過ぎず、このまま放置していれば人類の歴史がおそらくは続いているであろう範囲内に、天然ダムである湖が決壊する恐れもあるという。

もっともそうならないための護岸工事などが行われ、近年は後退のペースが著しく鈍っているそうだ。
それでも、皆様の中にも記憶にある人もいると思うが、昭和62年に滝の落ち口が大きく崩れ、その景観が大きく変わったという事件があった。




そんな華厳滝の年輪を思い浮かべながら下る渓谷の道。

その序盤には階段や小さな橋が多く存在しており、険しい地形に無理矢理道を通した状況が窺える。
遊歩道時代の路盤が、そのまま管理歩道になっている。



角の取れすぎた遊歩道時代の階段に、滑り止め付きの木道が通されていた。
地図から消えた渓谷の道は今もこうして継ぎ接ぎを受けながら、発電所の職員達によって大切に使われ続けているのだった。
それは、恐れていたような廃道ではなかった。

正直、時間的な制約もあったので、ホッとした。




白雲荘から500mほど歩くと渓谷両岸の傾斜はいくらか緩くなり、歩道も平坦に近い道となった。
私はますますペースを上げて、歩きから走りに切り替えて進んだ。

振り返る谷は霧の中にあった。
一方、下流の視界は良好だった。
華厳渓谷はその地形に起因して、全国有数の霧の多発地帯であるという。
夜の闇もまた、霧の向こうから忍び寄ってきているような気がした。
せっかく安泰に下山できるルートを見出したというのに、今にまた戻らねばならないことが嫌だった。
私にそれを強要するチャリの存在が、恨めしく思われた。




人が通る幅は残されているが、落石が頻発する歩道の様子。

もし誰も管理をしなくなればものの数年で荒廃し、危険な廃道が誕生するだろう。




最後まで単調な風景になることはなかった。

2本目となる吊橋が前方に現れた。
今度は古そうな橋だった。




2号吊橋と呼んで間違いないと思うが、主塔は無く、アンカーは両岸の垂直に切り立った地山に深々と打ち込まれている。
いかにも山の吊橋である。




そして、長さの割によく揺れる橋である。
しかも、踏み板の間には隙間が目立ち、踏み抜かれでもしたのか、小さな穴さえあった。
橋全体が川下側に傾いてもいる。

現役の橋であるからと、そう言い聞かせて渡るのだが、余り気持ちの良い橋ではなかった。
さほど高くないことが救いである。


右写真は、道を急遽左岸へ移させた右岸の一大岩峰である。




一旦は左岸に移った道だが、100mも行かぬ内にまた右岸へ戻るのだった。
「1号吊橋」であろう。

今度もまたよく揺れる吊橋だ。





1号吊橋から見る右岸の岩盤。

特徴的な縦縞模様が美しい。
まるで、巨大な何物かが爪で引っ掻いたような痕である。
遊歩道時代には、何らかの名前を与えられていたのではなかったか。
「弘法の爪研ぎ岩」とか。 (←そんなのはイヤだ)




どうやらいまの岩場が華厳渓谷の出口であったらしい。
いよいよ両岸ともなだらかになり、緑多い普通の山容を示すようになった。
そして間もなく、そんな緑に映える白い大きな建物が見えてきた。
地形図にも発電所記号が記された「馬道発電所」であろう。

今回の探索の予定されていた最終目的地(折り返し地点)でもある。





 馬道発電所


華厳ダムから取水した水は地下水路を落とされ、この馬道発電所のタービンを回している。

さらにここには馬道ダムが併設されており、華厳ダムより下流で大谷川が得た水を、改めて横取りしている。



谷には見られぬ膨大な水量が、コンクリートの函の中を活き活きと走っていた。
方々から集められた水はここで量と流れを調節され、「細尾隧道」という地下水路に呑み込まれている。
そして、さらに下流に位置する背戸山・細尾・上の代の3発電所を順に巡って、その度に電力を発生させている。

水は高きから低きへ流れる。
この手懐け易い性質が、我々の快適な暮らしを支えてきた。
日光・華厳滝という国際的観光地の裏側にあったのは、自然の対極にある開発の光景であった。




余り知られていない事実だが、華厳滝はその水量の全てを上流の水門(中禅寺湖ダム)によって調整されている。
GW等観光客の多い時期は、敢えて水量を増やすなどということが行われている。
そして、滝を落ちた水は観光客の目の届かぬ場所で全て取水されていた(華厳ダム)。
幾万のときが刻んだ壮大な華厳渓谷に、ほとんど水はなかった。

哀れ、牙を奪われた虎のよう。
華厳渓谷は、人によるがんじがらめの支配下に置かれていた。




放水路に美しい曲線を見せる馬道ダム。

しかし、放流の機会は少ないらしく、苔が育っている。

これより下流の大谷川も、なお無水の河川である。


かつてハイカー達は、この華厳渓谷に自然な清流を見ていたのだろうか?

もしそうであるならば、

それもまた華厳滝同様、人によって調節された景観であったことになる。




17:03 《現在地》

これより下流は自動車も入る。
ただし、有刺鉄線に守られた高いバリケードが行く手を阻んだ。
この柵を乗り越えることが許されるならば、鵲橋への接近はさほど困難な事ではなかっただろうが。

遊歩道跡の車道はなお400mほど続くはずだが、私はここを折り返し地点とした。





次回最終回。

谷底からの、生還の道。