橋梁レポート 国道20号旧道 旧国界橋 後編

所在地 山梨県北杜市〜長野県富士見町
探索日 2010.10.02
公開日 2013.08.05

静かな“国境”に架する橋。


2010/10/2 11:27 《現在地》

早速渡っても良いのだが、その前にもう一度、橋の周囲をよく観察してみる。

すると橋頭のすぐ上流に見慣れたハニーボックスとは違う、百葉箱のようなものが置かれている事に気付いた。

電線らしきものも引き込まれているぞ。


百葉箱のようなものの正体は不明。
おそらくは前回見た「観測局」に関わる観測機器の一つであろうと思う。

しかしそれよりも重大な発見があった。

苔むした橋台があるじゃあないか!

これは明らかに、昭和4竣工旧国界橋のさらに旧橋(旧旧橋)の痕跡であろう。
事前情報は皆無であったが、ここは前述したとおり歴史深い甲州街道筋。
何代もの旧橋があることは不思議ではなかった。
(この橋の正体は本編文末で明かしている)

そしてもう一つ。
旧と旧旧橋の間に倒れている、1本の看板を見つけた。
錆びきっていて何が書かれていたのかは分からなかったが、大きさや位置から考えて、“白看”時代の案内標識であろう。
きっと「国界橋 KOKKAI.BR」と書かれていた。



旧旧橋の遺構と考えられる、石造橋台。

対岸の状況はまだ分からないが、旧旧橋も旧橋と同程度の長さを有する橋であったと思われる。
さすがに道幅は狭く、まさに見慣れた明治馬車道サイズといった感じだ。2間(3.6m)であろう。

興味深いのは、橋桁を収めるための橋台の凹みの深さである。
通常、この深さは床版の厚みに等しいわけで、そうであればこの旧旧橋の床版は50cm以上の厚みがあったことになる。
時代的に床版は木材であったろうから、太い材を2枚重ねて使ったのか。
いずれにせよ、かなり堅牢(かつ長径間)な木橋であったことが窺えるのである。

そしてその理由は、現存する旧橋の橋脚に現れていた(後述)。


旧旧橋についてもう一つ言えるのは、旧橋よりも1〜2m高い位置に架されていたということである。
旧旧橋台から旧橋を見ると、このようにやや見下ろす感じになる。

これも新旧世代の橋の一般的な関係性とは逆転している。
理由は定かではないが、釜無川の下刻作用によって河床が時代とともに下がっている可能性がある。

「角川日本地名大辞典 山梨県」の「釜無川」の解説文に、次の内容がある。
〜昭和57年8月の台風10号およびそれに続く大雨で、白州町国界橋から下流1800mの間が一夜にして、河床が侵蝕され、凹字型の渓谷が形成された。そのため糸魚川静岡構造線の実体がよく観察され〜ミニグランドキャニオンとして観光地となった。〜
これは現在の国界橋下流の話なので、旧国界橋付近の状況は異なるかも知れないが、釜無川の河床が大きく下降した実例として挙げておく。

そして次に着目したのは、旧橋主桁外側のウェブ。
写真で黄色く着色した辺りであった。 そこには…




まるで寄せ書きのよう沢山の「ラクガキ」が刻まれていたのである。

ラクガキは宜しくない行為でありやめて貰いたいが、遺構を手掛りに過去の道路風景を探ろうとする我々には、時として有用な存在となり得る。
現役当時に不法投棄されたゴミと同様、本来は道路上に残されることがない利用者の肉声のようなものが垣間見れる。
もっとも、「●●参上!」とか「全国統一」とか、全く個人的で時代や土地に根ざさないものはあらゆる意味で無価値だ。

何が書かれているのであろうか。
全てを書き出すのは面倒なので、目に付いた部分をいくつか拾ってみよう。

昭和四十二年八月二日午後5時50分
山梨県韮崎市旭町 (氏名は略)
レターをくださいね

…と言った具合である。

上の一文は全て同じ人物がいっときに書いたものと思われる。
昭和42年は、この橋が旧道になった翌年だ。
彼が敢えて旧道を選んだのは、オブローダーであったからではなく、サイクリスト(山チャリスト)だったのだろう。私も大いに憶えがある。
時刻は17:50というからだいぶ遅い。韮崎に帰る途中であったとしたら、もう一頑張り必要だ。中学生くらいだろうか。
「レターをくださいね」には時代を感じる。今ならメールだろうし、文通華やかなりし時代を彷彿とさせた。


ラクガキはまだまだ沢山あるぞ。

渡辺かずみ
中込ゆうこ
●●●● (←故意に消された形跡、ホラー?)
松本城より帰る
昭和四十年五月十九日

かずみさん大好き

かずみさん大人気である。(かずみさんの想像イラスト募集中です→こちら
そして、松本城はここからおおよそ70km離れている。
この距離感、やはりサイクリストの仕業と思われる。
昭和40年代初頭は、文通や自転車旅の全盛時代である。

このように、膨大なラクガキが刻まれている旧国界橋には昔時、若い旅人が思わず足跡を残したくなるような記念地的雰囲気があったのだろう。
そしてそれは橋自体の個性的な姿もさることながら、県をまたぐ長旅を強く印象づける「国界」という名…。
その魅力に因るところが大きかったに違いないと思うのだ。(言っては悪いが、今の国界橋にはそこまでのオーラが感じられない。)

…ちなみに、ラクガキの主は日本人だけではなく、誰もが知っているアノ超有名人も… 【画像】




さて、勿体ぶりもこのくらいにして、

渡ってみよう。

この橋には特別な渡り方はない。
普通に渡ることが出来る。

しかし、橋の上の風景は、一風変わっている。
何と言っても、欄干の低さが特徴的だ。
現在の「道路構造令」や「防護柵の設置基準」に定められた欄干の高さは60p以上1m以下、歩行者自転車用柵については1.1mが標準であるから、この低さだけでも十分古さを感じさせる“遺物”といえる。
しかもこの橋の両側にあるのは欄干ではなく、橋の主桁材そのものである。
つまり、万が一自動車がそこに接触して変形・破損でもすれば、それは橋そのものの破壊と言うことになる。
おそらくその事も、道路用中・上路PGがあまり多く作られなかったことの理由であろう。

そしてもう一つ気になったのは、この目測50mはあろうかという橋が、連続した一つの桁であることだ。
主桁にも路面にも、目に見えるような継ぎ手が存在しない。
これも特徴と言えるだろう。



驚くべき欄干の低さを、この写真から感じていただけるだろう。

下を流れる釜無川からの高さは8m前後で、水はあまり深くないが、とてもよく澄んでいる。
しかし両岸に広がる緑濃い氾濫源の広さが、その名だたる暴れ川ぶりを現わしている。
橋の長さも、水面の幅に較べれば3倍はありそうだ。

そして約400mを隔てた下流に、赤い上路のプレートガーダーが見えた。
昭和41年にこの橋の役目を引き継いだ、現在の国界橋である。
さらに橋の向こうには、小淵沢の町を乗せた大きな台地の斜面が控えている。

言い忘れていたが、この辺りの谷底の土地でさえ、標高700mを超えている。
空の青さの理由をその辺に求めようとするのは、視野が狭いだろうか。
この標高はまさに“日本の屋根”である中部地方の底力というわけだが、高い土地が少ない私のような東北人にとって、700mは「高山」と呼びたくなる標高なのである。
長野県は最もメジャーな入口でさえこの高さだというのも、地味に驚く。


挑発的とも取れる欄干の低さがいたく気に入った私は、その挑発に乗って身を乗り出してみた。

ちょっと高い階段を上るくらいの気軽さで、片足をその上に乗せることが出来る。
両足でそれをやると別の遊びになってしまうので、そこは自重。
ちゃんと架かっている橋で無駄に危険を冒すのは、上品ではない(笑)。

そして私は、この橋の途中にも橋脚が存在する事を知った。
後で下から全体像を見るのが楽しみだ。



これは反対の上流側の眺め。

橋の100mばかり上流に、川を堰き止めたダム状の施設が見えた。
石組みの精緻な放水路が、決して最近の建造物ではない事を物語っていた。

しかし正体は未確認であるため分からない。



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全体の8割ほど渡り終えた所で振り返って見たのが、この写真。

今まで長野県側の長閑な風景ばかりを見てもらったが、山梨側は…
いうならば “サルの住む山” である。
田舎というか、明らかに山岳の態を示している。

橋の前後の強烈なコントラストが面白い。



そして、いよいよ長野県富士見町への上陸を目前とする。

向かって右側(下流側)の橋端付近に、ご覧の橋銘板。
その内容は山梨県側で見たものと全く同じである。
本橋にはこの2枚しか銘板が無いが、1枚が2役を果している。



11:33

こっ、これは…?!

ここまで如何なる遮蔽物も無かった旧道だが、ここに来て突然、一張りのネットが邪魔をする。

しかもそれはただのネットではなかった。

ピカチュー10万ボルト電気牧柵!!

ここから痛い思いをせずに確かめる術は無いが、おそらく6000〜9000ボルトの電圧が架かっている。

法律により、人間の進入防止を目的として野外に設置することは出来ない。
電気牧柵はその名の通り、動物が農地へ進入することや、牧地から脱走することを防ぐ事にしか使えないはずである。



しかし設置者の言いたいことはよく分かる。

長野県民は、山梨県からモンキーという難民が侵入することを恐れているのだろう。
旧国界橋は、余りにもモンキーの移動路として出来すぎているといわねばならない。

そしてもしニンゲンであるならば、何も恥じることなく、黙って国道を通行せよという言い分だろう。国道には電気牧柵も検問所も国境警備隊もないに違いない。

私はニンゲンなので、電気牧柵如きに進路を塞がれる謂われはないが、しかしどうすることも出来ないのが現実だった。
対電気の耐性を持たない私には、肉弾で突破をチャレンジする意識さえ湧かなかった。これにはワルニャンもお手上げですよ。

国界は、エレクトリックフォースによって守られていた。
見事に架かったままの旧橋に、こんな決着が待ち受けていようとは。

無念だ。




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電気牧柵は道路の両側にも岸に沿って見渡す限り続いていて、どうにも出来なかった。

突破することは諦め、地形が山梨側よりも緩やかな岸辺を通って川原へ下りてみることにした。

国界橋の下からの眺めは、どんなであろうか?
胸がニョキニョキした。




このアングル、いいね〜。

遮るもののない形で橋の側景を見るのは、これが初めてである。

まさしく、プレートガーダー(PG)橋であると、それ以外のコメントが思い付かないシンプルな眺めだった。
側景だと道路橋の特徴である道幅も圧縮されて見えるから、ますます鉄道橋を彷彿とさせるのである。
そして橋上に残された自転車の見え方で、私がこれまで度々訴えてきた欄干の低さが追確認出来るう。

更に降りて見上げてみよう。




地面が見えないほどの雑草に覆われた斜面を適当に下ると、ざんざめく水辺に辿りついた。

そしてたちまちのうちに仰視される国界橋は、また新しい印象を私に与えた。

意外に足回りは華奢だった。

全長約50mの“鉄橋”を支える脚は、河中に2列降ろされているだけだった。
2本ではなく2“列”と表現したのは、見ての通り、橋脚が門型をしていたからだ。
橋脚の数え方の例にならえばこれでも2本だが、どうやっても4本の柱で支えているという表現の方がしっくり来るであろう。

そしてその門型橋脚は、それが戴いている鉄の桁の重量感に較べれば、いかにも華奢な印象を与えるものであった。




2列の橋脚は等間隔に配置されていたが、橋上の印象で述べた通り、桁ははじめから終わりまで1本の「連続桁」であった。
橋脚の不同沈下にはめっぽう弱い構造だが、桁そのものの強度には相当自信があるのだろう。
実際は不可能だろうが、「橋脚などに頼らずとも大丈夫」と言いたげな構造である。

そして本橋の橋脚は華奢に見えるだけでなく、数が少なく、さらに河心を避けて設置されている。
このことは、釜無川の類い稀なる激流河川、氾濫河川としての凶暴さに適応した構造と言えるだろう。
しかも各々の橋脚の断面は円形であり、水の抵抗に配慮している。

先に山梨側の橋頭で見つけた旧旧橋(耕作の結果かは知らないが長野側に痕跡無し)の橋桁が驚くほど厚かった理由もまた、多数の短い橋桁を架ける事が困難だったからではないだろうか。太く頑丈な橋桁を用いる事で出来るだけ径間を伸し、河中に設ける橋脚を減らしたのだと私は想像する。
旧橋も旧旧橋も、同じ条件を、それぞれの時代の工夫で乗り切ろうとした。




橋脚について、もう一つとても気になる事がある。

それは2列4本の橋脚が全て、水面から1.8mほどの位置に、深い侵蝕の痕跡を留めていることである。

左の写真は長野側の橋脚で、上の写真は山梨側のそれであるが、全て同じ高さに深い溝が刻まれているる。

原因として考えられるのは、度々この欠けた辺りまで水位が上がるということだ。
川の水の流れは表面付近ほど激しいので、増水時に決まってこの高さの水位になるのであれば、こうした選択的な侵蝕が起こる可能性もあるだろう。




桁の構造がよく分かる、裏側の眺め。

本橋は、両側の主桁(プレートガーダー)の間にI型鋼(Iビーム)を梯子状に渡して橋体を形成している。
そしてそこに鉄筋コンクリート製らしき厚い床版が収められている。
路盤が主桁の下や上ではなく、中間に収まっているので、確かに中路橋であると判断できる。

昭和4年の建造ながら、保存状態はさほど悪くなさそうである。
鉄筋コンクリートの床版に、内部鉄筋の腐食による膨らみが見られない。
もっとも、白化現象はそれなりに起きている。
道幅もぎりぎり2車線分あるので、交通量があまり多くない道ならば(欄干嵩上のうえ)現役で活躍出来たのではないだろうか。

ある意味、昭和4年という世情平穏な時期に建造されていたのも良かったのだろう。
鉄が貴重すぎた戦時中なら、この橋の設計は出来なかったかも知れない。




両岸とも1径間分は川原ないし氾濫原に架されていて、平時は水没していない。

写真は長野県側の橋台部分で、橋台そのものは単純なコンクリートであるが、外側から見える部分を石垣風に仕上げているのが目に付いた。

コンクリートの部分は後年の補修の結果である可能性も捨てきれないが、細やかなところにお洒落を施すのは戦前の土木構造物の特色でもあるし、長野県と山梨県どちらにとっても特別な位置を占める本橋に、この程度の意匠を施すのは当然かと思われる。


11:45

旧橋を一通り見て回ったので、最後に長野県側の旧道を確かめておこう。

現橋を快走して越境する。
明るく隠れる場所も無いから、とても欄干にラクガキしようという気にはならない。




旧橋側から眺めた“お返し”に、今度は現橋より旧橋を遠望する。

川の両岸で余りに地形がかけ離れているが、橋はその明と暗を白い絆で結んでいる。

これだけ離れて見るPGは、本当に鉄道橋のようだ。
中央本線の廃線跡だよ…なんて言われたら、うっかり信じかねないレベル。




長野県諏訪郡富士見町の人になると、まもなく巨大な青看が現れた。
この青看に表示されている右の道「県道11号」は、かつて甲州道中が釜無川の氾濫などにより途絶した場合に迂回路として使われた「原道」の後裔である。
国界橋を経由する現国道のルートは、これに対して「川道」とも呼ばれた。
この二つの甲州道中は韮崎宿で別れてから、しばらく別路を行き、この蔦木宿入口で再び一本に戻ったという。
しかし明治以降は、川道のみが甲州街道という「国道」として抜擢された。

山梨県側のホテル「国界」に対して、長野県側にはドライブイン「国界」が待ち受けていた。
coka-colaの看板の存在感にあやかって、「coka-ii」に改名したら、コカ・コーラがスポンサーになってくれたりはしないだろうか。



国界→コカ良い! みたいな下らないダジャレを考えていると、ズバドーンと目に飛び込んできた。

ナイスなブリッジが!!

一度制覇した橋だと思って少々油断していたが、こちら側から見るのは初めてであり、侮るべきではなかった。
見栄えとしては、この長野県側からの方が遙かに良い。

石積みの長い築堤から、その高さを保ったまま、真っ直ぐ対岸の深い緑へ白い橋桁が突き刺さっていく光景は、私に得体の分からぬ快感を覚えさせた。
石垣と鋼鉄の橋という由来の全く異なる素材を用いて、一連の道という機能を実現しているところが、面白いのかも知れない。
立体的なパズルがピタリと合致して、一つの上出来なものを生み出したような快感… だろうか。




11:50 《現在地》

ここが長野県側の旧道合流地点である。

ちょうど青看で予告されていた県道11号の分岐地点だ。
県道とは正反対の左側から国道に合わさってくる砂利道が、それである。

この線形からも、先ほど書いた「原道」と「川道」が一つになって蔦木宿へ進むという昔時の道路風景が納得されたのである。
微妙な交差点の形状も、由緒を辿ればちゃんと理由がある一例だった。




合流地点から旧国界橋までは50mほどの至近であり、ご覧のように一望される。

風通しの良い素晴らしい眺めだが、余りに見通しが快活すぎて、うっかり例の電気牧柵に自転車ごと突撃しかねない感じもある。
おかしい。
その場面を想像して、一人で笑ってしまった。
(実際には大いに笑えないことになるだろうが)
夜間など、無灯火で自転車を走らせていたら(←ダメゼッタイ!)、普通に突撃しそうである。

そんな具合に、旧国界橋との楽しい逢瀬は幕を閉じたのであった。



最後に、本橋の歴史について机上調査で判明した内容から簡単に補足する。

土木学会附属土木図書館の橋梁史年表を検索したところ、釜無川の国界橋が3件ヒットした。
開通日の新しいものから並べると、下の表の通りである。

橋名開通年月日橋長幅員形式
1 新国界橋1966(昭和41年)2月 127.3m 7.0m 連続PG
2 国界橋1929(昭和4年)11月 46.8m ― I型桁橋
3 国界橋1887(明治20年)3月 38.0m 4.5m 木橋

これにより、現地で「旧旧橋」と判断した橋台跡が、明治20年架設の木橋のものであった可能性が濃厚となった。
また、少なくとも明治20年の時点で「国界橋」という名前が登場していることも判明した。

では、国界橋の初架設は明治20年なのかというと、それは無さそうである。
「角川日本地名大辞典 山梨県」の「教来石宿」の項に、上教来石地内には釜無川が流れ、通常の川幅は10間ほどであったが、出水時には50〜120間になり、通常時は橋渡しで渡った。とあることから、近世には既に徒(かち)渡りでなく、架橋されていたことが窺える。
さらに同書の「上教来石村(近世)」の解説文中に、甲州街道の甲信国境に長さ7間、幅20尺の土橋が架かり(現国境橋)、普請などは諏訪藩領下蔦木村と半分ずつ負担した。とあって、土橋だった橋の規模が長さ約12.7m幅約6mと判明した。(ただし、当時の橋の名前は詳らかではない。)


なお、今回メインに採り上げた旧国界橋に関するエピソードも、「白州町史」等にもあたって探してみたが、これというものが発見出来なかったのは心残りだ。
せめて現役当時の写真でもあれば良いが、旧道化後の写真しか見あたらない。

橋は私の専門外のことであり、誤った認識であればご指摘いただきたいが、昭和初期由来の道路用中下路PGの現存例は、多く見積もっても各地方に数本程度というボリュームではないだろうか。
中でも地方部の谷川に、かつての幹線道路風景を留める砂利道状態で休眠している例は、かなり珍しいと思われる。
3径間という規模も申し分ないであろう。

そして、土木構造物としての希少性云々だけでなく、“ラクガキ”の件でも分かるとおり、かつて本橋はとても多くの人に利用されている。
今回私が見つけ出せなかった様々なエピソードが、たくさん眠っているに違いないのである。
あなたの体験談を教えていただければ幸いである。


続報あれば追記する。
以上、国界よりお伝えしました。



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