ミニレポ第181回  国道473号 中川橋

所在地 静岡県浜松市天竜区佐久間町
探索日 2013.03.15
公開日 2013.05.10

「新」「旧」橋の戦略的互恵関係。


2013/2/1 16:20 【所在地(マピオン)】

ここは国道473号の下川合交差点。
すぐ近くに飯田線の下川合駅があり、正面は下川合の集落である。
そして国道を真っ直ぐ進めば4kmほどで旧佐久間町の中心部である中部地区に辿りつくという、ここは川沿いの静かな集落だ。

今回のミニレポが紹介するのは、この下川合交差点の傍らに架かっている“1本の橋”である。

写真を見ても「橋なんてあるか?」と思うかも知れないが、よく見て!!

← 橋 あ る よ !




川は少しも見えぬども、対を成す2列の欄干が確かにある。

しかし、その左右の欄干のデザインは余りにも対照的ではないか。

方やコンクリートのごつい堅物、方や橋であることをまるで主張しないガードレール。

まるで2本の別々の橋のようであるが、その路面は連結されているので、1本の橋だよね!



1本の橋の両側の欄干が別年代の物となるケースは珍しいが、例えば1車線の橋の隣にもう1車線分の床版を腹付けし、新たに2車線へと改築するような場合に発生する。

この橋も原理としてはそれと変らないが、単純な拡幅を目的としているのではなく、橋上に新旧道の分岐地点を設けてしまおうとした点で、よりレアなケースとなっている。
もっとも、土地利用がシビアな都会にはこういう“架け増し”の橋が意外に多くありそうだが、多くは改築時点で両側の欄干を統一するなどして、後から見分けが付きづらくなっているものと思われる。
本橋のようにあからさまなケースは、やはりレアだろう。

さて、旧道側の欄干に目を向けると、西側には「なかかわはし」という“ひらがな”銘板が取り付けられていた。
旧道の橋の幅が、欄干に平行する路内の継ぎ目の位置から明らかである。
案の定の狭い橋だったし、その幅は奥の旧道ともぴたりと合致する。



そんな「なかかわはし」(中川橋)の東側の親柱(本橋の親柱は欄干の一部でしかなく、独立したパーツとはなっていないが、欄干両端の厚みがある部分を便宜的にそう呼ぶことにする)の表示内容は、竣工年だった。

昭和三十四年三月竣工

「うんうん」と、思わず頷きたくなるような記年がなされていた。
トンネルの坑門や橋の親柱などの道路構造物の“顔”には、意匠と呼べる個性が当然のように望まれた明治〜昭和戦前の時代から、戦時中の極端な質素倹約主義を経て、その延長線上にあった画一的で機能性に偏重したデザイン(と呼べるかも疑問)を尊んだ、そんな昭和30年代の橋だと思った。「質実剛健」という表現が最もしっくりくる。

そしてここから2車線分よりも遙か遠くに見える向いの欄干は、いかにも対照的な、まるで羽根のように軽薄な姿であった。
それは一繋がりの橋とは思えないくらい違っていて、まさしく旧道と新道の時代を表現しているのだった。




現国道の側の欄干は見ての通りのデザインで、これはもはや見慣れすぎて特にコメントも思い付かないくらいだが、旧橋の時代からさらに橋の量産が進み、橋がもはや道路上で全く珍しいものではなくなった…橋が有ることを誇ったり、アピールする意味が失われた時代のデザインである。
そしてそれと同時に意匠的な意味では、肉厚よりもスマートさが尊ばれた。
すなわちこちらが、現代の橋。
(一方で、モニュメント的な悪目立ちをする橋も多くなったが、このような小さな橋は車で通ると気がつかれないくらい地味に徹している。)

それでも、銘板を欄干に接着するのではなく、もはや親柱とも呼べないものではあるが、取り付ける用の柱を設けているのは嬉しかったりする。
そしてそんな銘板2枚の内容は、「新中川橋」と「昭和五十九年十月竣功」であった。

もうお気づきだと思うが、橋の名前も竣工年も、先ほどの物とは異なっていた。
これで(見た目からあからさまであったとは言え)、本橋が新旧橋のハイブリッド橋だったことが確実になった。



「中川橋」が誕生から25年後に「新中川橋」へ生まれ変わったことによって、得たものは多い。
何と言っても廃橋として打ち捨てられる危機を回避し、見事に現役を続けていくことが出来た。
新道の開通で通行量が激減する旧道ならば、古い橋でも当分は安泰だろう。

昭和34年の橋など、今はまだ珍しくも何ともないが、生き延びていればいずれは貴重な存在となる日が来る。
そういえば、代り映えしない灰色の姿も、やたらスマートな今の橋に較べれば随分と物語じみているじゃあないか。

一方で失ったものは少ないが、銘板を2枚失ったことは気の毒だ。
特に4枚で1セットとなる銘板の中で親柄といえる、「中川橋」と漢字で書かれた名板が失われたことは惜しい。
旧橋や新橋が開通した時期は、いずれもまだ国道昇格前であり、主要地方道「佐久間設楽線」の時代だったから、起点側から見て左側の親柱に取り付けられたであろう旧橋の親柄の銘板は、欄干もろとも真っ先に犠牲となった。
(あともう1枚は河川名だろうが、地図では無名の小川ゆえ、これも道路上では不明となってしまった。)

後補の「新中川橋」の方も、ある意味で犠牲は払っているといえる。
こちらは銘板を最初から2枚しか鋳造して貰えなかったのだから、お古を無理矢理あてがわれた弟の心境になっているかもしれない。
やはり橋というのは、完成された対称性に優美さが宿ると思うので、少しも対称性の無いこの橋は、なんかかわいそうだと思った。
面白いけれども。




 

最後に疑問。

この橋の正式な名前は、中川橋 と 新中川橋 のどっちなんだろう?

道路台帳上では、2本の橋としてカウントされているのだろうか…。 今はそれがとても気になる。

   以上、久々に登場の「ミニレポくん」の呟きでした。



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