ミニレポ第187回 三重県道715号館町通線のとある踏切道

所在地 三重県伊勢市鹿海町
探索日 2014.01.29
公開日 2014.02.04

激狭踏切に佇む、謎の物体


2014/1/29 16:52 【位置図(マピオン)】

ここは三重県伊勢市通町の県道102号伊勢二見線、汐合橋左岸袂である。
そして、ここにある信号も横断歩道も青看も無い交差点が、三重県道715号館町通線の終点である。

県道715号は、全線を通じて国道23号の東側に並行する、あまり目立たない狭隘な路線で、沿道集落の生活道路として使われている他、地元ドライバーが抜け道に使うこともあるが、今回紹介する踏切がネックとなり、誰にでもオススメ出来る道とはなっていない。

問題の踏切をこれから紹介しよう。
正確には、踏切そのものというよりも、そこで発見した“あるアイテム”こそが、本項の主役である。




無名の交差点を右折すると、まず出迎えてくれたのが2本の道路標識。
手前が「1.4mの最大幅」の規制標識で、1.4mという数字は穏やかではない。
一般に軽自動車と呼ばれている車の全幅が148cmなので、軽自動車でさえギリギリいっぱいいっぱいで、普通車は明らかにアウトである。

そして奥の標識は「規制予告」という指示標識で、内容は…

二輪の自動車以外の自動車通行止め
(ただし)軽・小特を除く この先450m (踏切)

というもの。
これら2枚の標識をあわせれば、この先に待ち受けている踏切がよほど狭隘であることが分かるだろう。




地図やカーナビで「抜け道だッ!」と勇んで入り込んだドライバーの多くは冒頭の2枚の標識を見て、すごすごと引き返すものと思われるが、自転車の私にとってはむしろ、「オラ、ワクワクしてきたぞ」であった。

最初少しだけ汐合川沿いを南下した県道は、すぐに川縁を離れ、その沖積地である広大な水田地帯に進路を取る。
遠くに見える山並みは、伊勢神宮の旁らにそびえる霊山として信仰篤い朝熊(あさま)山だ。
県道は、あの麓を目指して走る。




はい! 三重県の道路ファンの皆さま、お待たせ致しました〜。

地味に“山行が”三重県初レポートなので、三重県の道路を少し走ればすぐに目に付く、当県オリジナル道路アイテムを紹介せねばなりますまい。
それがこのシールです。

今回はガードレールに取り付けられているが、標識柱やカーブミラー柱や電柱などにも取り付けられていることがある、県管理の道路(国道・県道)であることを示すシールだ。
もっとも、最近は“おにぎり”や“ヘキサ”への置き換えが進んでいるようで、真新しいものは見ないし、このように色褪せたものを多く見る。
ここで見つけたシールも色褪せ方が半端無いが、上にうっすらと「館町通線」、下には「三重県」の文字が見えている。
各県オリジナル道路アイテム収集も趣味の一つである私にとっては、嬉しい発見だった。



人目を忍ぶには、この地味な県道はうってつけなのか、宮殿風の外見を持つホテル「Madonna」の裏門が路傍に口を開けていた。
正面に西日を浴びて輝く「Madonna」の裏口に、一足早い夜闇が忍び寄る。

そして、私をここへ誘った踏切は、もう間近に迫っていた。




16:55 《現在地》

見えてきた、問題の踏切。

確かに、この段階でも狭いと分かる。
路面のタイヤ痕が、まるで針穴に吸い込まれる糸のように収斂して、踏切へ向かっていた。
これは、私のワルクードでは立ち入らない方が良さそうだった。
入口の標識は、脅しでも、誇大広告でもなかったらしい。

だが、私の視線だけは、この“踏切の手前に立つもの”にこそ、吸い込まれた。




最初これを見た瞬間は、よくある道標石か、或いは神社の祭礼の時に幟を立てる石柱かと思った。

だが、細部の様子が見える位置まで近付くと、これが道標石とは全く違った意味合いでここに立つものである事を理解した。

やや傾いた石柱の頂部に取り付けられた、赤く塗られた石版には、こういう文字が読み取れた。




踏切前に立つ、「止レ(止まれ)」。


私の思考は、この「石柱」を、過去に私が見た全ての風景から検索したが、ヒットせず。

そして、一つの重大な推測に至った。




この石柱は、未知の「道路標識」ではないか。

実は私、廃道同様に旧道路標識にも目がない。
大正11年に制定された、わが国最初の全国共通道路標識体系である「道路警戒標及び道路方向標に関する件」以来、昭和17年制定の「旧道路標識令」、昭和25年の「新道路標識令」、昭和35年の現行令である「道路標識・区画線及び道路標示に関する命令」まで、過去に存在した様々な標識デザインに目を通し、そして現行でないものの現存例の捜索に努力してきた。

だが、戦前は全国共通ではない道路標識が大半で、各県警察や道路管理者ごとに独自のものを設置していたことが、『日本土木史 昭和16年〜昭和40年 (土木学会編)』に書かれており、以来、私の旧制道路標識探しは定型物の捜索だけでなく、おおよそ標識らしからぬものにまで触手(食指ではないよ)を伸ばすカオスな世界に変わっている。
だが、なかなか「これだ!」というようなものには出会えていないのが実情であった。

翻って、この伊勢市郊外の小さな踏切で発見された石柱の「止レ」こそ、ある時代にこの地で使われていた「一時停止」の道路標識ではないかという、大変興奮すべき推測に私は至った。
この物体が、ただ一本だけここに建てられたものではなく、この地方に広く使われた「道路標識」である事を疑うべき根拠は、妙に出来のよい「止レ」の文字だけではなかったのである。

右の写真は、支柱部分の前後に取り付けられていたトライフォース奇妙な紋様である。

おそらくこれは単なる飾りではなく、穴の部分に照明を反射する鋲が取り付けられていたのではないか思う。
また、これは頂部の赤い色もそうだが、これらの赤色は単なるペンキ塗りではなく、ガラス質の(未知の)反射物質を含む、いわゆる反射塗装なのである。

こうしたことから、この「止レ」は「道路標識」として、明らかに洗練されたものであるように見えた。



だが、

ここまで“鰻登り”に期待感を上昇させていた私であったが、道路とは反対側の柱面に刻まれていた石柱建立の由緒と思われる文字を目にしたことで、これが一帯で使われていた定型的な「道路標識」だったのではないかという当初の期待感は後退することに。

これは、単に「道路標識」と呼ぶべきものではなかったようだ。
以下に全文を書き出したので、ご覧頂きたい。

昭和十一年四月一日遭難
         横濱市神奈川區松本町二番地
                母     伊藤いち子
                三女    伊藤 久子

どうやら、この「止レ」の石柱は、昭和11年にこの踏切で事故に遭って命を落とした母子の関係者が建立したものであるようだ。
建立者の名前は見られないが、4月1日というハレの気が強い日付に、はるばる横浜から伊勢へ来ていた母子の背景を想像し、胸が締め付けられた。
オカルトといわれるかも知れないが、最初にこの石柱のシルエットを見た時に「こけし」のようだと思ったのも、この姿に女性的な部分を感じたからだったのだ。

無機質な道路標識発見という報を乱暴につかみ取って悦ぼうとしていた私は、その裏側に隠されていた無機質とは対極にある繊細なものに、そうと気づかずに爪を立ててしまった気がして、心の中で詫びた。



現時点での結論として、この石柱が昭和11年当時に伊勢で用いられていた道路標識の一種である可能性は、低いように思う。
踏切の反対側に同様のものが見られないばかりか、この日も翌日以降も、踏切を見る度に探したが、一度も同じものを見なかった。

それでもこの石柱が標識として妙に洗練された、前例のありそうなものである事は、見逃せない事実である。

そこで私は考えた。
この「止レ」は昭和11年当時、この石柱の建立者が住んでいた土地において実際に用いられていた道路標識をモチーフとしているのではないか。

オリジナルの材質は(おそらく)石ではないだろうが、反射材や蛍光塗装、それに「止レ」の形などは、類型がありそうに思われる。
更にもう一歩推測を押し進めるなら、石柱の建立者が遭難母子と同じ神奈川県横浜市神奈川区の人物であったとして、当時の神奈川区には横浜市電が通っており、こうした「止レ」の道路標識が大量に存在した可能性は高い。



果たしてこの標識的な石柱は、哀れな母子の跡を追って横浜から伊勢へと旅したものなのだろうか。



廃道をゆく3』より転載。

なお、参考までに昭和11年当時に行われていた道路標識として全国共通のものを挙げれば、右のわずか7種類だけである。
大正11年制定「道路警戒標及び道路方向標に関する件」による。ちなみに、現時点で現存例と思われるものが、少なくとも1本、四国で発見されている。

ここに「一時停止」は存在せず(踏切の予告はある)、一時停止の指示は各地のオリジナル標識によって行われていた可能性が高い。
「一時停止」が全国共通の道路標識で現時されるようになったのは、昭和25年の「新道路標識令」以降である。



『日本土木史 昭和16年〜昭和40年
(土木学会編)』より転載。

昭和11年当時のものではないが、オリジナル標識による「一時停止」の一例として、左図のようなものが存在した記録がある。

これは、戦後間もない時期に東京都内で用いられていた「一時停止標識」で、進駐軍を意識して英語併記であったり、一時停止標識の国際標準に合わせて八角形の盤面であったりしたが、盤面の塗色は赤で、かつ「止レ」という表記が今回発見されたものと一致する。
当時は、「止まれ」ではなく、「止レ」と表記することが一般的であったとは思うが、両者はだいぶ近いものという印象を持った。


――こうした、古い「一時停止」の道路標識について、何か情報をお持ちの方がいたらお助け下さい。
もしかしたら、横浜市内からは消えてしまった(と思われる)昭和戦前の「止レ」が、
遙かな伊勢の地で頑張っているのかも知れないのだ。
或いは、別の土地かも知れないし、完全なオリジナルである可能性も十分あるとは思うが……、

夢は大きい。




思いがけない発見のため、私の中では全く主役ではなくなってしまった、この地の主。
名前の分からぬ踏切だ。

予告されていたとおり、「二輪の自動車以外の自動車通行止め(ただし)軽・小特を除く」の規制標識があり、現に踏み板が軽自動車でないと通れない狭さだが、これに対して「意地悪するなよJR東海&三重県」なんて言ったら怒られるだろうな。
しかしともかく、地形的には容易に2車線にも拡幅出来そうなのに、そうはなっていない。
需要がないのだろう。そういうことにしておこう。
地元らしき軽自動車の女性ドライバーが、一時停止どころか減速もをせずに高速で突っ込んできたのには驚いた。慣れすぎワルすぎ。

なお、私によって勝手に悪者にされそうになった線路はJR参宮線で、明治44年にこの区間は開業している。
道路とどちらが先かは分からないが、おそらく道路の方が古かろう。




道はその狭さを保ったまま、朝熊山、そして伊勢神宮を目指して広大な美田を走る。

この先も興味深いが、かの軽自動車が短時間で体験してくれそうだったので、私は遠慮しておこう。
十分、成果はあったしな。 …それに私は一応、仕事の途中だったんだ…。


おわり。




読者さまの情報提供により、この地で亡くなった母子のエピソードが判明しました。
ブログ「浜参宮だより 〜 二見と伊勢とその近辺と 〜」の2007年1月14日の記事をご覧下さい。
伊勢神宮(内宮)参拝を終えた母娘が、この場所で列車にはねられて亡くなったとのことです。
また、「止レ」は慰霊碑として当時建立されたものであるようです。

2014.2.4 追記




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