その30栗子隧道工事用軌道  ―調査続行中2003.5撮影
福島県福島市 栗子山


 道路レポートに掲載した一枚の写真。

この写真が、今なお未解明な部分を数多く残す、万世大路最後の謎の始まりであった。


現地は、海抜850mを越える、万世大路のハイライト栗子隧道福島側坑門直前。
棄てられて30年以上を経た廃道の脇、もはやそこへ近付く方法すら分からないような谷間に、明らかに橋台と分かる一対の石組みの構造物があった。
道路レポートで記したとおり、私はこれを、明治にはじめて万世大路が拓かれた当時の痕跡と考えた。
余りにも風化が進んでおり、非常に古い時代の物と思えたからだ。
しかしレポート公開直後、当サイト掲示板に別の可能性が提示された。

サイト『山形の廃道』の作者にして、廃道界の権威 fuku氏 によるその書き込みの、本稿に関する部分をそのまま以下に転載した。
それは、驚くべき内容であった。


さて、詳細不明の橋台ですが、人道橋と云うよりもしかすると鉄道橋かもしれません。
というのは、昭和の改修時に資材運搬のために、道路とは無関係のルートから別の峰を通って強引に鉄道を引いたという記録があるからです。
この鉄道跡については未だ誰も現況を調べた人は無く、私も現地では写真にあった橋台に気づくことはありませんでした。
草木が繁茂すると埋もれてしまうような位置にあるのでしょうか。


 この場所がいかに険しく、また人里から離れた辺境の地であるかは、現地に立った物であれば誰しもが思い知ることだ。
なんと、このような場所に鉄道が通っていたというのか!
なんとエキサイティングな可能性だろうか!!

そして、この話題は反響を呼び、その後も幾人もの方から情報をご提供いただいた。
そのなかでも、 サイト『NICHT EILEN 「ニヒト・アイレン」』の作者である、廃鉄界の権威 TILL氏 には、決定的な情報をご教示いただいた。
以下に、TIIL氏より頂いた情報を要約し、掲載したい。
なお、これらの情報のソースとしてTILL氏は書籍『奥羽本線福島・米沢間概史(進藤義朗氏著 プレス・アイゼンバーン 2001)』及び『栗子峠にみる道づくりの歴史(社団法人東北建設協会 1999)』を挙げておられる。
また、小字で記した部分は、私の個人的な感想である。

工事用軌道の概略

昭和12年に竣工した万世大路改修工事に際し、メーンである栗子隧道の掘削工事の為、奥羽本線板谷駅から新明通までの軽便線を敷設し、そこに小型のディーゼル機関車を稼動させ、資材の運搬などを行った。新明通という地名は現在の1/25000地形図にもない。

工期

改修工事全体では、昭和8年4月8日着工。昭和12年3月31日竣工。
軌道の敷設の着工日は不明ながら、工事の着工と同時期。軌道の竣工は、昭和8年9月4日。僅か4ヶ月余りの急ごしらえである。

経路

1/50000の図上のみで決められた杜撰なものであった。
軌道を開設せず、坑門まで道路で運んだ方がよいという声もあったが、結局軌道が建設された。
両坑門は大変な山中であり、工期短縮の為に軌道が選ばれたのであろう。採算度外視である。

奥羽本線板谷駅が起点。
山を掘り割ってヘアピンカーブを作り、明通山に突き当たる。明通山という山は地形図にはないので場所は特定できない
当初は山の谷間を通れるものと考えられたが、谷間はなく、山頂に上り詰める17段ものヘアピンカーブと、長さ100m深さ6mもの堀割でこれを越えた。明通山と言う地名自体が、この掘割に由来する命名であるような気がするのだが…。
約50mもの沢の真上に到達し、ここを終点:新明通とした。
資材は、ここから逆落としをして、人力トロにて烏川橋上流部の倉庫に運搬した。なんとも乱暴である。また、烏川橋は現存する。

軌道敷設当初は人力トロのみの稼動であったが、昭和9年にカーブや勾配を改善し、板谷駅新明通間は機関車の運用に耐えた。


 ここまでの情報から、私が作成した地図を以下に示す。
なんといっても、現在の地形図には記載されていない地名が多く、推定に頼る部分が多かった。
しかし、まずはご覧いただきたい。

 残念ながら、ここまでの情報が正しいとすれば、烏川橋と私の発見した橋台との距離は離れており、同一の軌道由来とは考えにくい。
しかし、等高線をよく見ていただくと分かるが、県境は鎌沢という谷であり、この谷部を軌道が伸びていたとしたら、問題の橋台の南方1km余りの地点までは(もしかしたら)意外に容易に軌道を敷設できたかもしれない。その後はやはり山越えになるわけだが…。


現地は、稜線の標高は所々1000mを越える、アルピニストのみに許されたような山岳地帯である。
その山中に、既に放棄され70年を経た細い軌道の跡など認めるべくもないだろう。
しかし、万が一つの可能性を信じて、有志による今後の探索の成果を待ちたい。
私とて今すぐでも出かけたいが、余りにも遠いのだ!


最後になったが、こんなにも素晴らしい謎の糸口を与えてくださった、多くの同志への感謝を、述べさせていただきたい。



人知れず軌道跡が眠るという烏川上流部の山々。
この中のどれかが、“明通山”なのだろうか…。





2003.6.27作成
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