その79旧 祭畤橋 <後半>2005.6.19撮影
岩手県一関市祭畤(まつるべ)



 国道342号線祭畤大橋の下方に、珍しいランガー桁の旧橋を発見し、藪を掻き分け橋上に立った我々だが、本当の困難はこのあとに待ち受けていた。
橋を越え、現道へと戻るまでの旧道を、今回お伝えしよう。
写真が多いので、駆け足で紹介するぞ。





 旧祭畤橋を渡り終え、鬼越沢川左岸の旧道へと侵入する。
早速ものすごい激藪が、我々を歓迎してくれる。
時刻は午後5時半をまわっているが、なお蒸し暑さは日中と変わらず、ツナギの下にワイシャツ・ネクタイ着用の細田氏(本人曰く、これがオブローダーの正装だそうです。)は、バショウセンみたいな大きな葉っぱを仰いでいる。
自分を扇いでいたわけではなく、大量にある蜘蛛の巣を除去していたのかも知れないが。





 ランガー桁が目を惹く本橋であるが、親柱も残存している。
ただし、4基ともが無理矢理倒されたかのように、伏しているので、一基を除いては、扁額のあった場所を見ることさえ出来ない。
残る一基も、扁額は削り取られ、残存しない。
親柱は、基部の底辺が80cm四方、高さ1m程度の、かなり大きくどっしりとした大きさ。
しかし、墓石とよく似た形状のそれは、意匠と呼べるものは何もなく、コンクリート製のシンプルなデザインだ。
このことからは、本橋は意外に新しい、…少なくとも戦前の竣工ではなさそうだという予感がする。

 しかし、なぜ親柱が倒壊しているのかは謎である。
人間の力では数人が集まっても倒すことは出来ないと思われるが。




 現道の祭畤大橋の袂とは、直線距離で100mも離れておらず、すぐ傍なのだが、こちらは谷底、高低差が50mもある。
果たしてどのようにして、現国道と合流しているのかに、我々の興味と、行く末は委ねられた。

 腰まで生長した瑞々しい雑草を踏み分けつつ、幅6mほどの藪を現道方向へと登っていく。
(どなたか、一度山行がに同行して植物知識を植えてくださいませんか?未だにギンレイソウとマムシ草以外は殆ど植物を知らない私に、愛の手を!) 
のり面は、高さはないが、丁寧な石垣であった。
日陰故に、全体が苔に覆われ、余計に歴史を感じさせる。
林鉄でよく見る、玉石を積み上げた構造だ。




 おわっつ!

 歴史を感じさせる石垣の後に現れたのは、珍しくもない道路標識。
ただし、ここに現れるとは思っていなかったので、むしろ驚きは石垣以上だった。
支柱は妙に綺麗なままで、現役と言われれば、そうとしか見えないのだが、足元にあるはずの道は、周囲の藪と見分けが付きづらいほどに、失われている。
藪の中にぽつんと、標識だけが国道だった当時のまま取り残されているかのようだ。

 それにしても、なぜこれほどまでに綺麗なまま残っているんだろう…?
写真は、振り返って撮影。



 登りは急坂となり、一気に現道の高さを目指す。
しかし、案の定、現道の高さには及ばず、橋の下をくぐる事になる。
橋上から見下ろしたときには、この旧道の存在は全く気がつけなかった。
見る目がないと言われればそれまでだが、物凄く藪と同化しているのだとご理解いただきたい。

 この辺りで、パタリン氏に異変が発生。
突如、くしゃみを連発したかと思うと、目はウルウル、鼻はグズグズになっている。
彼が言うには、鼻炎が再発したのだという。かなり苦しそうだ。
藪を掻き分けるペースを速め、早急に脱出を計ることにする。





 現道の祭畤大橋直下の様子。振り返って撮影。

 橋の下特有の、乾いた土の地面が広がる。
旧道敷きのあった部分は、お椀のように窪んでいるが、路面には轍一つ無く、とてもとても、国道だったようには見えない。





 今度はすぐに、小さな橋の跡に渡された水道管を渡る。
実は、水道管は旧橋上からここまでずうっと旧道上に続いており、やはり旧道は祭畤地区のライフラインとして使われているようだ。
ここで渡る沢は、小川程度の流れで、幅・高さとも2mほど。
一応コンクリート製の橋台が両岸に残っているが、重機で強引に破壊されたかのように、欠けが見られた。
また、桁はすっかりと消滅し、代わりにパイプ三本が橋代わりに渡されている。

 ここを、素早く渡る。
写真は振り返り撮影。




 パイプ橋の上から谷側を見ると、足が竦むような谷口が口を開けている。
巨大な一枚岩を滑らかに削った小川は、磐井川と鬼越沢川の合流地点に、注ぎ落ちている。

 一方、パイプ橋から山側を見ると、そこには現国道の暗渠が四角い口を開けていた。
国道からは、ここで川を跨いでいることすら気がつけないような、小さな暗渠だ。



 パイプ橋の先には、ガードレールが路肩に続いていた。
写真の場所だけが、わずかにかつての路面と思われる砂利を、草むらから覗かせている。
現道との比高はいよいよ小さくなり、向かって左側の藪を10mも登れば、現役のガードレールがある。
旧道が合流するのもあとわずかだと思われたが、我々は最後を見届けるべく、なおも藪を掻き分けた。

 パタリン氏の鼻炎の発作(?)は、依然収まるどころか悪化しており、一足先に現道へと戻ることになった。
私と、細田氏の二人で、残りを進む。


 ガードレール越しに振り返ってみると、旧道がどのような場所を通っていたのかがよく分かる。
奥に写っている橋は、もちろん祭畤大橋で、その手前のスラブのような滑らかな崖に、水が流れているのが、ついさっき渡ったパイプ橋の沢である。
つまり、旧国道は崖の縁ぎりぎりを通っており、ガードレール一枚を隔てて、落差50mを磐井川の谷間に落としている。



 藪というか、もう森の一部となりつつある旧道敷き。
かつて路肩だった場所には、道路標識が取り残されていた。
さっき見つけた標識もそうだったが、この標識も保存状態は良く、支柱を含め、このまま移設して他の場所で使えそうである。
制限速度は国道の下限ギリギリの30km/h。
あまりの藪深さに、現役と同じデザインの道路標識が場違いにしか見えない。




 間髪入れずに、北国の定番、路肩ポールである。
積雪時に、路肩の位置を示すために存在するポールだが、これもまた、確認されたのは一本だけとはいえ、汚れもなく現役さながらであった。

 この辺りから、笹藪が濃くなる。
前方の方が明るい。
脱出なのか、はたまた?

五月蠅い藪を掻き分けて、汗くさい体を引きずって、光を目指す。





 またも小さな谷が道を阻んでいた。
やはり橋台の跡があるが、桁は無く、代わりに水道管だけが緑から緑へと渡っている。
谷は深さ2mほど。幅3m。
水量は皆無。
今度のパイプは、3本の組み合わせ方が立体的であるため、渡るにはバランスに難がある。
しかも、磐井川の大谷が右の写真フレームギリギリまで迫っていて、パイプから墜落しても即座に転落とはならないだろうが、心理的に圧迫感を感じる。
ここは、私だけが上を行き、細田氏は無難に下を渡ってきた。

藪から藪への細渡り、思いがけず内容の濃い廃道に、うれし恥ずかしグッタリ。




 二度目の小川を超えると、突然開けた草地に出た。
かつては草が刈られていたらしい広場の外周には、フェンスが取り外された後の支柱だけが点々とある。
車道だった名残では明らかにない。
その違和感に、なにやら旧道敷きではない、別の場所に出てきたことを予感した。

辺りを見回してみると…。



 奥の方には、バンガローのような建物がちらちらと見える。
現国道が、広場の反対側に通っているのが見えた。
今我々がいる磐井川の谷際は、古くは旧道敷きだったのだと思うが、その後、オートキャンプ場の敷地となってしまったようだ。

その先に、道の痕跡を見つけることは出来ず、現道へと進路を変更する。



 オートキャンプ場は、日曜だというのに営業している気配は全くない。
ただ、一台の自動販売機が国道に面して細々とライトを灯らせていた。
敷地はかなり広大で、林間キャンプ場とオートキャンプ場とが立地していたことが、大きな案内図から読み取れたが、殆どの敷地が草に覆われ、廃止されているように見えた。
当然、蛇口から水も出ず、汗を流したい欲求も叶わなかった。
(旧祭畤橋ではいくらでも水を浴びれるが…)

 写真は、無人とは分かっていながらも、つい衝動的にシャワー室を覗いてしまった細田氏の怪態。
廃道の果てに、無人のキャンプ場とは、寂しすぎる結末だ。
ジェンソンモびっくりだ。



 将来的には、石淵ダムまで山を越えて通じる予定の市道と、国道がぶつかる交差点に、我々は脱出した。
やはり、キャンプ場は現在使われていない様子。

 それにしても、全長1kmほどの短い旧道ではあったが、橋あり標識ありの、なかなか盛りだくさんな内容であった。
廃止されて久しいにもかかわらず、多くの標識が現役さながらに残っていたのが、印象的であった。
レポには登場しなかったが、支柱だけ残っている標識も多くあった。
そして、なんと言っても同区間の主役は、旧祭畤橋に他ならない。
緑に覆われた鉄橋の勇姿は、幽寂と言うに相応しい、廃なる美に満ちあふれていた。





 現祭畤橋から、旧道が通っている崖を撮影。
微かにガードレールの白が見えるが、普通は気がつけない。
私も、最初に橋上から見たときには、ここに旧道があることは全然分からなかったほどだ。

 もはや、全く道としては利用されていない旧国道を、駆け足ではあるが、一関市祭畤より、お伝えした。






 
2005.6.22作成
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