ミニレポート <第87回>   太平山旭又のインクライン
公開日 2005.12.22


 30万市民が通う巨大林鉄遺構 
 2005.8.23 正午頃


 秋田市市民の皆様、おまたせしました?!

もしあなたが秋田市に子供の頃から住んでいる方なら、まず一度は絶対に登っていると思われる、太平山は旭又口。
秋田市を見下ろす海抜1176mの太平山は、市民歌を始め、市域の学校校歌でも多くが謳っている。
そんな市民なじみの山である太平山の、最もメジャーな登り口である旭又口までは、秋田市中心部から約25km。
僅かに未舗装が残る林道の終点には、巨大な駐車場があり、学校登山の大型観光バスもよく停まっている。


 ここに、秋田県内はおろか、日本中を見ても最大級の、林鉄用のインクライン跡がある。

これを聞いて、「あっ アレね!」そう相づちを打つ方、 そう、アレである。
「登っているはずなのに分からないな〜」という方、安心して欲しい。
私も、つい最近まで そうだった。



 来るたびに少しずつだが変化のある、旭又登山口の様子。
橋を渡って正面の急な階段に進むのが、正規のルートである。
いまや最も手軽に登れるルートとして定着しているが、開設された当初は、秋田市側の登山口としては最も登山道入口までのアプローチに時間のかかる、奥地の登山道だった。
その当時は、旭川沿いの仁別森林鉄道だけが殆ど唯一の登山者の足であったのだ。

 そして、その森林鉄道の痕跡は、昭和43年の廃止から30年以上を経た現在も、一体の随所に形を留めている。
これから紹介するインクラインを始め、旭又登山道の登山口から1.3kmほどの道のりは、大半がその軌道跡を転用したものである。
その軌道跡も、現在の登山道の写真の橋のあたりで対岸に渡っていたが、その先の急な階段の代わりには、ヘアピンカーブを描いて向かって左側へ迂回していた。




 登山道と軌道跡との関係は、左の地図にまとめてみた。

この古ぼけた案内板は、昔から登山道の入口に掲げられているものだが、白い点線が登山道、赤い実線は私が書き加えた軌道跡だ。

この地図の通り、旭又登山口から先の登山道は、約1.3km先までほぼ軌道跡に副っている。
始めこそ、登山道の急な階段を軌道跡はヘアピンカーブで迂回しているが。

 また、今回(2005年7月)の小探索により、従来知られていた御滝神社より先にも、登山道化していない、軌道時代の末端部分が僅かに残っていることが判明したので、このレポートで合わせて紹介する。

 それでは、入山だ。



 最初の100mほどこそ、早速にして登山者が先を憂うような急坂だが、すぐに平坦な道にぶつかる。
この平坦な道というのが、ヘアピンカーブから戻ってきた軌道跡である。
2年ぶりに来てみて驚いたのだが、この軌道跡の平坦路の部分が、とてもよく整備されているのだ。
薄く砂利が敷かれ、自動車が通れそうな幅がある。

 その進歩に驚きながら進んでいくと、すぐにその原因が分かった。



 少し登ると、並行している旭又沢に真新しい砂防ダムが建設されていた。
美観に配慮してのことか、綺麗に緑化されている。
ちょうどこの地点まで、下の林道から重機を入れるための、林鉄跡を利用した登山道改良だったことが判明した。

 この先は、キャタピラの轍はなくなった。
しかし、それでも数年前に比べると砂利が敷き直され、歩きやすくはなっていた。





 登り始めから600mほどで、一度目に旭又沢を渡る。

林鉄時代のコンクリート橋が、私が中学生の頃には残っていたと記憶しているが、いつの間にか撤去され、歩道用の橋に差し替えられていた。
確か、林鉄の橋はもう少し高い位置で渡っていたはず。
もう、その痕跡はなかった。

 一抹の寂しさを感じつつも、ぐっと近づいたインクラインへ期待を繋ぐ。






 登山道が狭い場所の脇には、林鉄時代の桟橋の木の橋脚の残骸が残っていた。
足元を見ると、未だ枕木が敷かれたままになっている。
犬釘も大概が刺さったままだ。(犬釘は、レールを枕木に固定するために使われていた、打ちっ放しの釘)

 さて、何度も登っているから、見覚えのある景色。
次のカーブを曲がると、そこにインクラインがあったはずだ。
今回はもう、それがインクライン跡だったことを確信していたが、前回訪れた2年くらい前には、まだインクライン跡だという目では見ていなかった気がする。





  あったー!


変わらずにありました。

杉の林を割って真っ直ぐ見渡す限りに続く、大インクラインの姿が。


地形図によると、このインクラインは海抜330mから400mに至る高度差を詰めている。
そのための地図上の延長が、約450m。
計算すると、その斜度は16パーセントほどで、実際の延長は500mほどあることになる。

斜度はインクラインとしては緩めだが、この長さは私の知りうる限り、過去最長である。




 少し登って振り返ると、インクラインを下りきった軌道が、そのまま右へと大きくカーブしている様子が分かる。

インクラインの構造上、上下の起終点にはそれぞれ櫓があったはずだ。
木材積み替えのためのスペースや待避線なども付近にあったはずだが、藪が深く、その痕跡は判然としない。

では、登ってみよう。




 500mもあるインクラインは真っ直ぐで、中央付近には行き違い施設跡の広い部分がある。

これがインクラインであることは、整然と並ぶ犬釘の刺さったままの枕木を見れば、林鉄を知っている者にとっては余りにも明らかだが、知らない者には真っ直ぐな登りにしか見えないのだろう。
私も実際、枕木ではなく階段だと思っていた。
妙に緩い階段で歩きづらいなどと、今からもう10年以上も前、初めて『チャリ馬鹿トリオ』で登山したときにも思ったものだった。
思えば、この軌道跡は、それと知らずに歩いていたとはいえ、仁別森林鉄道跡を再利用した仁別サイクリングロードと共に、私の山チャリ活動と林鉄跡との最初の接点だった。





 所々は流出しかかっているが、それでも殆どの枕木が整然と並んでいる。

太平山の登山道としては最もメジャーで、市内の殆どの学校の行事として太平山登山があるなど、殆どの市民が通ったことがあると思われる、このインクライン跡は、きっと日本で一番踏み固められた、インクライン跡ではないだろうか。
敢えて歩きづらい枕木を残したままにしているのは、何かを伝えたいという、誰かの意図があるのだろうか。



 誰が見ても、登山道に似つかわしくない一風変わったこの登り。
しかし、太平山登山にはなくてはならない物に思える。

若人がしゃかりきに登るのを、ゆっくりとした足取りの年配の登山者が、「若いねー。」

そんな長閑な光景が、今も連綿と受け継がれている、見通しの良い上り坂。
私が十数年前に来たときも、そして、今回もまた、同じように声を掛けられた。




 行き違いの複線レールになっていた場所。
枕木もそれに合わせ蛇行している。
上下線の間には杉の木立があり、その太さから考えると、現役時代から生えていたと思われる。
残念ながら、もう一方の線路の枕木は藪の底に見つけることは出来なかった。




 また、数年前まではここに転轍機(“ダルマ”と呼ばれるタイプ→写真{仁別森林博物館保管})が存在していたことが、麓の仁別森林博物館の館長さんからの聞き取りで判明している。
残念ながら、これも今回の捜索では見つけられなかった。



 登り切って振り返る。

さすがに500m近い坂だけあって、見下ろすと何とも言えぬ迫力がある。

中間部から上は勾配がややきつく変化しており、林間のゲレンデのようなインパクトがある。

ここまでで、インクラインは終了。
駐車場からここまでなら、往復しても30分くらいで十分である。
早朝の森の空気を吸いながら、軽くハイキングするには絶好の場所と言える。

私は、この軌道の終点を目指し、もう少しだけ登山道を先に行くことにした。



 左に沢を見下ろしながら平坦な道を少し歩くと、今度は急な階段で沢底へと下っていく。
そして、沢底には木製の歩道橋が架かっており、対岸も此岸と同じように階段で元の高さまで上っている。
そして、橋をカーブの頂点にして、前後で進路が180度転換される。

 この場所も、元々の軌道は高い位置で沢を跨いでいた。
やはり十数年前にはここのコンクリの軌道橋がすでに通行止めにはなっていたが、傾いた姿で存在していた記憶がある。
その数年後にはそれは倒壊してしまい、現在の木橋のあたりに別の仮設?橋が架けられていた記憶がある。
橋から、「ばばばばーぶばーぶばーぶ」などと言いながら、ラムネのお菓子を沢水に落として遊ぶという、若気の至りをしたことが思い出される。

 今も軌道橋に続いていた道の痕跡はあるが、藪が深く踏み込めない。(一体はヤマビルの多発地帯であり、藪にはいるのは自殺行為だ。)




 弟子還(でしかが)沢に架かる木橋。

写真奥の草生した平場が、軌道跡である。
左で切れているが、ここにコンクリの橋が以前は架かっていた。



 対岸の様子。
写真は振り返って撮影。
右下に小さく木橋が写っている。

正面の案内標識の裏に軌道敷きがあるが、5mほどで失われた橋に行き当たり終了となる。
案内標識にも一応、正面を指して「通行止」の表示がある。


 弟子還沢を引き続き左に見ながら、先ほどまでとは進路は180度変わっている。
登りはやや厳しくなるが、ここも軌道跡だ。
小さな桟橋が、今も登山道として補強されながら、使われ続けていた。
かなり撓んでおり、今後が心配である。





 ここもまた色々な想い出のある場所、太平山登山道の1.3km地点、御滝(みたき)神社である。
この海抜は400mで、登山口からは100m登っている。
しかし山頂まで至るには、距離にして3.5kmほどで、さらに770mの高度を稼がねばならない。
太平山の最もメジャーな登山道は、実は健脚向きで、這い蹲るような勾配が続く難路でもあるのだ。
それだけに、市民に鮮烈な登山体験をもたらし、好き嫌いは別にして、印象深い山となるのだろう。
私も、かつて何度となく挑み、全身から湯気を出しながら山頂に達したことしきりである。




 さて、登山道はこの御滝神社で軌道跡と完全に決別し、あとはもう尾根に沿い延々と登っていく。

軌道跡が、間違って立ち入らないようにと立てられた立て札の裏にさらに続いていることを、今回初めて確認した。



 それでも間違って入る人が稀にいるのか、僅かな踏み跡が幅2mほどの、軌道跡と鮮明に分かる道の中に続いている。
枕木が所々に露出している。
左側の沢は、弟子還沢ではなく、登山道で2度目に渡った旭又沢である。
沢に沿って緩やかに登ろうとするが、沢は滝のような瀬を交えて急速に高度を上げてきて、どんどんと軌道敷きとの差を埋めてくる。



 少し進むと、ご覧のように踏み跡も完全に潰え、木製の桟橋も朽ちて落ちてしまっており、そのままでは辿れなくなる。
やむなく、山側に少しトラバースして前進した。



 神社から300mほどで南側斜面の広大な杉の植林地に突き当たり、そこで軌道跡はU字型にカーブし、最後は旭又沢に直角にぶつかる。
そして、終点となる。

仁別森林博物館館長さんの話では、やはりここが終点で、伐採した木を斜面に滑り落としたりしてこのU字のカーブで受け止めて、それから軌道で運び出していたという。
旭又沢を渡る橋は造られなかったとのとだ。




 突然沢にぶつかり消滅する軌道跡。
見下ろすと、滝の連続する旭又沢。
秋田市市街地を縦貫して流れ、川端(かわばた)歓楽街のネオンを川面に落とす旭川。
その源流である。
秋田駅の裏にあった貯木場からスタートした仁別森林鉄道の21.2kmの終点が、ここである。
(正確には、インクラインの下の辺りまでが本線で、そこから1.3kmは「旭又沢支線」である。)


 如何だっただろう。
私の住む秋田市のその源流の、巨大インクライン。
市民の誰もが知っている筈なのに、意外にその正体は知られていない。

2005.12.22 作成

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