ミニレポート <第88回>   小阿仁森林鉄道 天神貯木場〜増沢
公開日 2005.12.23


 身の危険を感じさせる●● 
 2004.4.21 午前中


 これまで、山行がでも何度も名前が出てきた小阿仁林鉄。
北秋田郡上小阿仁村を南北に縦貫し、太平山系の膨大な森林資源を開発するために敷設された、県下最大級の森林鉄道である。
能代市(旧二ツ井町)の天神貯木場から、小阿仁川に沿うてひたすらに南下し、終点は上小阿仁村最南端の萩形(はぎなり)の奥地で、本線だけでも全長43kmに達する。
これに、無数の支線網が沢ごとに伸びており、総延長は計り知れない。

 小阿仁林鉄は一般的な路線延伸のイメージとは異なり、起点から順次奥地へと伸ばされたのではなく、中央部から小阿仁川に沿って南北へそれぞれ延伸されてきた経緯を持つ。
上流へは新たな森林資源を求めて、下流方向へは、非効率的な舟運への依存を減らし、最大の集散地である二ツ井への直接の乗り入れを目指し、長い年月をかけて伸ばされた。

 その最終延伸区間が、小阿仁川の母流である阿仁川の積み出し港「増沢」から、一山隔てた二ツ井町天神の天神貯木場への約3kmで、昭和22年頃に実施されたと思われる。大正4年の最初の開通から三十余年をかけた、長い長い延伸の道のりの終点であった。
そして開通により、小阿仁林鉄の悲願であった、東洋最大級の貯木ターミナルへの連結が達成され、廃止となる昭和42年まで大いに活用された。

 今回紹介するのは、この天神貯木場から増沢にかけての区間である。



 小阿仁林鉄の起点にあたる天神貯木場は、
まだ死んではいない。


かつて幾筋ものレールが隅々まで行き渡り、所狭しと原木が積まれた天神貯木場。
広大な敷地の大半がススキの野原となってしまってはいるが、まだ貯木場としての機能は失われておらず、機関車の代わりに主役となったトラックが、ときおり出入りしている。

背後は風光明媚な七座山。
七座山に沿うて二ツ井駅まで続く七座林鉄は、日本最大の林鉄ターミナルの中枢線であった。
その遺構は、此方に紹介している。→ミニレポその56「七座林鉄」




 天神貯木場の傍にある麻生の集落。
主要地方道3号(二ツ井森吉)線の新旧道が町内を通り抜けているが、林鉄跡はそのどちらとも違う山際を通っていた。
しかし、あぜ道のようになっており判然とはしない。

 新旧の県道が山の方へと入っていくと、路傍の民家はすぐに途切れ、代わりに水田が現れる。
どこにでもある、田舎の景色だ。




 そのまま町道(現在の二ツ井町は、2006年3月に能代市に併合される)を進むと、真新しいバイパスが丘の縁を割りながら、真っ直ぐ綺麗な橋に続いている。
この道は阿仁川を渡り下平田集落に続く道で、数年前に代替わりしたばかりだ。
旧道はすでに橋が落とされてしまった。
軌道跡もこのバイパスにかき消され、全く分からない。




 下平田大橋の袂から阿仁川上流に向かって別れる小道がある。

これが、小阿仁林鉄跡だ。


 では参ろう。




 軌道跡は始めこそ立派な法面の守られているが、ほんの少し行くともう本来の廃道の姿となる。

この探索は4月中旬で、低地の林鉄歩きには最も適したシーズンではあるが、すでにチャリで踏み込もうという気にならないほどの藪だった。
夏場なら、それこそ身の置き場もない激藪だろう。



 ウサギニャー!  

まるで、マリモのような丸々と膨らんだ野ウサギが、うずくまっていた。
まさか人が来るなんて思っていなかったのだろう。
こんなに近くで撮影されるまで、逃げようともしなかった。
この直後、火のついたように川の方へと転がっていった。


これは野ウサギによく似た、ニャーですね。





 山側はかなり切り立っており、阿仁川の河岸段丘崖となっている。
その基部には気休め程度だが石垣があり、軌道跡の痕跡を留めている。
この自然石を谷積みにした石垣は、近くの七座仁鮒林鉄(ミニレポその70)でも発見されており、地域性のある施工と言える。
県内に問わず、林鉄の法面の施工で圧倒的に多いのは、玉石練り積みと呼ばれる、猫の頭大の玉石をモルタルをツナギにして組み上げた施工である。



 新芽の出始めた藪を掻き分け、鞭のように瑞々しい小枝にビンタを食らいながら、軌道跡を黙々と歩く。

さらに行くと、路肩に鉄塔が現れた。

架線柱だ!



 かなり規模の大きな架線柱であった。
高さは5mくらいはあるし、ブレーカーと思われる物が取り付けられたままになっていたり、絶縁体に覆われた黒い電線が巻き取られていたりと、当時を偲ばせる痕跡が豊富だ。


 ブレーカー(と思われる物)に付いている銘板の拡大写真。
画像をクリックすると拡大する。
その道に詳しい方の解読を待ちたい。




 橋があった。
しかし、落ちている。

段丘崖に苔の岩場を造りながらチョロチョロと水を落とす小さな沢(写真右)を、軌道跡は石造の橋台を持つ木造橋で跨いでいたようだが、その唯一の橋脚も無惨に破壊され、殆ど原形を留めていない。

やむなく、谷を上り下りして先と進んだ。



  
 わ
 |
 !
 
 




激しく埋もれた斜面の先で、軌道跡は突然消滅!


そんな筈は無い!
ここには確かに森林鉄道があったはず。




 左を見ると、滔々たる雪解けの大河。

阿仁川が迫っており、川側に逃げ道は、無い。

果たして、軌道はどこへ?!



も、
もしやこの崖の下に?!




 まさか
 そんな





  や
  り
  お
  っ
  た
  !


 そこには、隧道が存在した。

しかし、未だ崩壊が続いていることが明らかな坑口の天井は、この写真のようになっている。

正直言って、私が廃隧道で、探索中の生き埋めをリアルに恐怖したのは、この隧道ぐらいなものだ。

なにせ、触るだけでボロボロと落ちてくる岩塊が、天井と言わず側壁と言わず、空洞の全てを構成している。
しかも、私が坑口を発見するために、瓦礫の斜面に登っていた、たったそれだけの衝撃?で、ポロポロと何所かしら小石が落ち、坑口前の瓦礫山を滑り落ちていったではないか!

やばい。
ここはリアルに、ヤバイ。
せめてメット着用。 素頭(すあたま)でキター私は、完璧にヤバ気。


 内部の様子。
元々あった支保工など、ホールのようになった内部空洞の底に埋もれ僅かしか見えない。

結局入ったんかぃ!
などと言うツッコミが、山行がの前に無用なのは読者の皆様ならよく分かっておいでだろう。
そこに穴があればまず入る。
入った後に物を考える。

それが!山行がだ!



 隧道は短い。
全長20mほどだ。
そして、原形を全く留めてはいない。
貫通しているという意味では、隧道は現存すると言えるが、いやしかし、どうだろう。
元々の隧道の内壁などという物は、とうの昔に剥がれ落ち、膨大な崩土の底に埋もれているのだ。
これが人工的な隧道だった痕跡など、僅かに足元に見える支保工だけだ。
崩れるに任せ、いまや2車線の道路を通せるほどに空洞は肥大化している。
一方、両側の坑口はいずれも元々の天井よりも遙かに高い位置に移動しており、しかも瓦礫の隙間のように狭い。

 繰り返すが、
いまだかつて私が探索中に生き埋めをリアルで恐怖した隧道は、ここしかない。




 上の写真は、それぞれの坑口の様子。
左が麻生側。
右が増沢側だ。

 冷や汗とともに隧道を早々と脱出する。

 

 脱出しても、その先は再び激藪。

写真の視座が高いが、これはそれだけ坑口に積もった瓦礫が高いと言うことだ。

この藪に下っていくのは気が進まなかったが、仕方ないので行く。




 擂り鉢状になった藪。
元々は切り通しになった隧道前の軌道跡だったのだろう。
振り返るも、もはや隧道など見えない。
あるのは藪だけだ。




 路傍には、どうやって運び込んだのか謎の、巨大コンクリ桶。

直径1mくらいある。

なんだろう?

段丘の上の農地から転がってきた肥だめの桶だろうか?
それとも、元もとここにあった軌道関係の何か?
蒸気機関車の給水用の桶とか?




 隧道前に増して隧道の先は藪が濃かった。

だってここは「増沢」だもんなー。

とか、しょうもないことを考えながら、まだこれでも季節柄状況は良いはずの藪を、汗だくになって掻き分けすすむ。

途中、またも落ちた木橋の跡があったが、全体像を写真に納められるような状況では無かったのでパス。




 架線柱が再び現れると、藪は一段落。
右の崖の上には、県道の旧道の路肩のコンクリートの壁が近づいてくる。
不法投棄された雑多な物が軌道跡との間の斜面に散乱し、美観を大いに損ねている。




 藪が切れたところで、阿仁側上流に増沢の集落を小さく確認。
増沢から天神貯木場まで、今辿った軌道が開通する前までは、この辺りに河港があって、筏流しで下流の二ツ井や河口の能代港に運材していた。
筏流しは、林鉄によって滅びた秋田伝統的な運材方法だったが、その林鉄もとうに滅んで久しい。


 ごめん。

ちょっと探索の手を抜きましたです。 はい。

増沢側の軌道跡と県道との合流地点は、あともう200mほど先に目視できた。
その段階で引き返しましたです。 はい。

写真は、藪と田畑を通し望遠で覗いた増沢の林鉄橋梁。
県道とは並走してあの橋はある。



 2003年8月に県道3号線から撮影された増沢橋梁。

見ての通り、立派な橋が残っている。
コンクリートとガーダーの2スパンで、増沢川と農道とを一挙に跨ぐ。
対岸は築堤となっており、そのまま今まで紹介してきた軌道跡に続いている。

 一つ、私は告白することがある。

 以前私は、「このガーダー橋が“梁渡り”の公式練習場だ」などと発言したが、実際にはこの橋を渡ったことは未だ無かったりする。
おそらく、あの森吉の橋を渡れたのだから、これも渡れるだろうが…。
目の前に県道や大きな工場があったりして、ちょっと人の目が ねぇ。


 私、人前では へたれ なんです。







2005.12.23 作成

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