16:43 《現在地》
リベンジ果たす初代隧道の発見はとても嬉しいし、それが開口していたことも、喜ぶべきことだろう。遺構の現存度という意味で。
しかし、悩ましくもあった。
正直、もっと遙かに開口部が狭かったり、明らかに水没していたりしていたら、「入らない」ではなく、「入れない」という表現を使えるので、残念ではあっても悩ましいということはない。だがこれは、物理的に入ろうと思えば入れちゃうぎりぎりのラインである。だから悩ましい。
とにかく、ひたすら気持ち悪い坑口だ。
まだ外にいるというのに薄暗いし、穴に風が感じられないし、狭いし、土だし、濡れているし、狭いし、全身汚れるだろうし、狭い。
狐狸の棲家そのもので、人の居るような空間ではない。廃道には美しかったり爽快だったりするところもあるが、ここはひたすら地味で土まみれだ。
絶対に人気の探索スポットにはならないだろう。
まずは穴の前に這いつくばって、両手で掲げたカメラで穴の中を覗いてみた。
この行為をした時点で、一線は越えた。
もう着衣の腹側は濡れた土まみれである。
そうまでして(←でも入口に立ったに過ぎない)覗いた穴の内部は、この手の埋もれかけた坑口のご多分に漏れず、下り坂だった。
しかし、普通の坂道は立って歩くものだが、ここは屋根のある滑り台だ。 …ビルのダストシュートにはもっと似ているが。人間が入ってはいけない匂いがプンプンする点も。
それでも、奥の方には立ち上がれそうなくらいの広い空間の存在が感じ取れた。
中が広いと分かると、俄然、探索の意欲は刺激された。
人間ボッシュートされてきます。
さすがに頭から潜り込んでクマでも潜んでいたらシャレにならないので、セオリー通りに足からいく。
まさに滑り台のようだ。これで腹も背中も全面的に土まみれ。夕方の僅かな探索だけで、こんなに汚れることができるというのが、廃道の凄さ。オブローダーの洗濯場は土の匂いが絶えないのである。
チェンジ後の画像は、胸まで穴にくわえ込まれた状況で撮影した、名残りの空だ。地上だというのに、まるで地底のように薄暗い場所だというのが、よく分かると思う。そのうえ、耳元でさっきからヤブ蚊がうるさいことこの上なかった。この点でだけは、早く穴の中に入りたいと思ったほどだ。
こうして私は、念願の(?)初代隧道の内部へ侵入を果たしたのであった。
これが、明治25年の初代隧道!
廃止は、おそらく明治44(1911)年で、このほぼ真下に掘られた隧道へ道を譲った。
今のところ、「隧道之碑」に書かれていることが、この隧道について私が知る全てである。
そして上記した開削年と廃止年の他にもう一つ、碑文によって知りうる初代隧道の情報があったのを、憶えているだろうか。
「従経年所修繕費漸如行人危険亦伴之」
(経年ニ従リ修繕スル所ノ費漸加シ行人ノ危険モ亦之ヲ伴フ )
廃止前には、通行に危険を感じるほど老朽化が進んでいたというのだ。
そしてその“恐ろしい”情報は、決して誇張ではなかったようだ。目の前の様子がそれを物語っている。
これは完成からわずか20年足らずで通行に危険を生じた隧道の、120年あまりを経た姿なのである。
大量の崩土が洞床を埋め尽くしていて足の踏が場もなく、自然洞窟さながらだったが、
こうして人が立ち入れるだけの空洞が残っていただけでも、奇跡的だったかもしれない。
そのうえ、貫通しているようだ!
これは驚いた。状況からしておそらく駄目なのだろうと思っていたのだが、
向こうの瓦礫の山に、私のライトではない別の光が微かに反射しているのが見えたのだ。
その光の頼りなさからして、人が出入りできる大きさかはまだ分からないが、貫通している。
直下にある牛渕隧道が50m足らずだから、この隧道はおそらく20〜30mの長さしかない。
その短さゆえに、確率的な観点から致命的閉塞を免れたのだろう。
見た感じの洞内の荒れ方は、よくある閉塞隧道と変わらないように見えるのだ。
しかし、東口がどこかに口を開けているとなると……、私がこれまで二度挑んで見つけなかった
【この景色のどこに隧道があるのか】が、俄然気になりだした。
外へ出て自分の場所を知るのが、いつも以上に楽しみだ。
振り返ると、そこにはいま潜り抜けたばかりのスキマが口を開けていた。
すぐそこに外があるが、外も薄暗いから、写真だとなおのこと外っぽくない。
ここから日光が入り込むような時間帯が、はたしてあるのかどうか。
こちらは洞奥方向。
もともと狭い洞内が、崩土の山で余計窮屈になっている。
果たしていまの洞内に、現役当時の面影がどれほど残っているだろう。
それを知りたい気持ちから、崩れ方を冷静に観察してみると、隧道の全長にわたって天井が大きく崩れていることがわかった。
特に隧道の右側半分の天井が大きく崩れており、左側は割合に軽傷だ。
もしかしたら、この左側の壁の一部は昔からのものかもしれない。
しかし本来の洞床は完全に崩土に隠されているし、古の面影はほとんど失われているものと思う。
この隧道内部の崩壊は、そもそも崩れやすい地質に原因がありそうだ。脆弱な地質と、それが作る地層の走行方向が、隧道の崩壊を容易にしている。
完成から20年足らずで危険になったというのは、失敗作といわれても仕方がないくらいだと思うが、対する2代目の牛渕隧道では、どんな強度向上の工夫が凝らされたのだろう。
コンクリートブロックで強固な巻き立てを行ったことは、最も有効な対処法であるが、それは「隧道之碑」の建立よりだいぶ後の昭和6(1931)年の完成だから、明治44年の開通当初はなかったはず。むしろ断面を大きくしたことで崩壊の危険度は増しただろうが、よほど頑丈な支保工で支えでもしていたのだろうか。あるいは、再度無策であったために、20年ほど経過した昭和初期には再び危険になり、そのため巻き立てを施したという可能性もある。
入口をして狐狸の棲家のようだと評した隧道の内部は、もっと小さきものたちの住居であった。
カマドウマ(←)にコウモリ(→)。
どちらも廃隧道のありふれたメンバーだ。
コウモリについては僅かな数しか見られなかったし、糞の山もなかったので、群集地ではなさそうだ。
カマドウマは結構いたが、それでも踏破に不快を憶えるほどではなかった。
全長の中間を少し越えた辺りに天井の低い場所があり、そこまで来ると出口が鮮明になった。
やはり埋没しかけているが、西口よりは遙かに大きく開口しており、見知った景色のどこに顔を出すことになるのか楽しみだ。
洞内の地面は全体的に柔らかい瓦礫の山で安定しておらず、天井も低いため、前屈みの原始人姿勢で行動している。
姿勢的な意味でも、現代人には長居のキツい隧道だ。
また、全体的に崩れすぎているために、本来の断面の大きさ(道幅や高さ)を測定することができないが、崩れても断面のサイズはあまり変わらない(徐々に小さくはなる)ことを考えれば、この隧道の断面は高さ1.8m(1間)〜2.4m(1間半)幅2.4m程度の矩形に近いものであったと想像している。
三角屋根のようにも見えるが、これだけ崩れていると本来の形を継承しているとは思われないし、三角形になったのは、斜行している地層に沿って崩壊したせいだろう。
いずれにしても、人道用としてはサイズに余裕があり、大人が並んで歩くのはもちろん、荷車くらいなら通られそうだ。
自然の崩土なのか、人為的な埋め戻しの跡なのか、
よく分からない感じに瓦礫が小山をなしている東口に到着。
西口に比べれば遙かに人心地のつけるマシな状況だ。光が入ってきているだけで、こんなにもホッとする。
思えば、西口を見つけるだいぶ前から薄暗いところばかり歩いていたので、この明るさが新鮮だった。
まだ夜にはなっていなかったのだと、再確認させられた。
さて、どこに出る?
16:46
どこだここ〜?
とりあえず、 [*やぶのなかにいる*] のは確定。
そして、前方の少し離れた低い位置に、見覚えのある舗装道路が見える。
牛渕隧道のコンクリート坑門は、見えない。近いはずだが、どこにあるんだろう?
なにはともあれ、私は明治25年の穴を潜り抜けることに成功した。
振り返ると穴があって、地中を貫通してきたことの実感を与えてくれた。
西口に比べれば、この東口は遙かに大きな開口部である。
坑口上部の壁が穴に向って漏斗のようにカーブしており、それが度重なる崩壊の結果であることは明らか。もはや坑口の原形は失われているのだろう。
それでも、道路トンネルとしての誇りが微かに灯っていると思える大きさだ。狐狸の家よりは上等である。
しかし数歩離れると、もうそこに開口があることは胡乱になってしまう。
恐ろしく目立っていない。何度も私の目を欺いただけはある。
これ以上離れたら、もう見つけられそうにない。
とはいえ、明治以来ずっと人の目から遠ざけられてきたわけではないようだ。
坑口前の崩土の山に生い茂る竹が、どれも根元から1mくらいの高さでカットされており、人の手が加わっていた。
この刈り払いの目的が、隧道を人目にさらすことにあったかは分からないが、一時はもっと遠くからも見える状態にあっただろう。
刈り払いをしたら、刈った後の枯れ木はどこかへ片付けて欲しいのである。
道でもない山林に勝手に立ち入った私にこんな不満を表明する資格はないが、それを棚上げしていいたい。
枯れ木が山と積まれたところを歩くのは、辛い。
たぶん、刈り払い当時には作業者のための穏便な通路があったのだろうが、藪が濃くなりすぎて判別できないため、隧道の進行方向をなぞりながら前に見えている舗装道路を目指した。
その結果、腰よりも高くまで枯れ木の山に埋もれるという大難行になった。
東口を目指す人がいたら、ここは迂回した方が楽だと思う。どうしたら迂回できるかは分からないが、距離はないからどうとでもなるだろう。
そんなわけで結局、東口の坑口でも道形らしいものを見ないまま……
17:00 《現在地》
ちぎれたツタで下半身をぐるぐる巻きにした私は、市道の擁壁上に辿り着いた。
市道は意外に交通量が多いので、車の過ぎ去ったタイミングを見計らって擁壁から路面に飛び降りた。おかしげなタイミングで下りたら驚かれること請け合いだが、危ないので止めましょう。
初代隧道は確かに牛渕隧道の近くに現存していて、通り抜けも可能であることが身を以て確かめられた。
しかし、小粒なくせにピリ辛すぎて、まだヒリヒリする(主に下半身)。
「容易く収穫できる割には充実感のある廃隧道」と副題して紹介した牛渕隧道とは、あまりにも状況が違っていた。市道からの距離はほぼ変わらないのに。
放棄されてからの時間が約百年違うことの意味を、実感させられた。
最後まで謎だった東口の所在地を確認して、現地レポートを終えよう。
わからん!
場所が分かってから見ても、分からんぞこれ。
世の中にはこんな風に、目に見える道路から完全に切り離されてしまって、ぽつねんと孤立している廃隧道がどのくらいあるのだろう?
この手の廃隧道を見つけ出すことは、とても難しい。今回はたまたま「隧道之碑」があったから、その存在に着想するまでは行けたが、
それでも一旦は自力で発見できず、地元オブローダーmasaki氏の探索記録のお陰で再調査に至ったのである。
なんとか隧道を見つけられたことで、『遠州廃ものねだり』にある探索記録も解禁して拝読したが、
masaki氏は自らの足で得た古老の証言をきっかけに、初代隧道へ辿り着いたことを知った。
つまり、私も彼も現地地形の観察だけでは、旧隧道に辿り着かなかった。
この手の廃隧道を見つけ出すことは、とても難しい。
石碑や古老の伝えることが、我々の活動の達成にどれほど大切であるかが身に沁みた。
成果のまとめと、追加の机上調査
今回確認された初代隧道(旧々道)と牛渕隧道(旧道)および市道(現道)の位置関係は右図の通りである。
測量して確かめたわけではないからある程度の誤差はあるだろうが、初代隧道のほぼ直下、5〜10mしか違わない高さに2代目隧道が掘られていることが、最大の特徴である。
両方を同時に使うつもりがなかったからだろうか、新旧道分岐のようなものも結局見当たらなかった。
しかし、地質条件がよほど良くないことが初代隧道で確かめられただろうに、ほぼ同じ位置に再び隧道を掘ったこと(しかも当初はおそらく素掘り)は不自然な決定のようにも思える。当時は脆弱な木橋が一般的に使われており、壊される度に直すことは当然であったから、隧道についても同じような感覚だったことも考えられるが。通行中に天井から落ちてきた石に頭をぶたれて「痛てっ!」くらいは、事故ではなく笑い話になる、そんな大らかな時代だったようにも想像する。
初代隧道の断面サイズは本文で述べたとおり、高さ1.8〜2.4m幅2.4m程度のいわゆる軽車道で、全長25mくらいだろう。
明治25年の完成とされており、明治隧道が数多く存在する掛川・菊川のエリアにおいても初期の建設といえる。
しかし規模は小さく、煉瓦や石による巻き立てや坑門のない、原始的な隧道だったようだ。
前回の探索では机上調査をほとんど行わなかったので、今回初めて調べてみた。
まずは、古い話は古い本に聞けということで、大正4(1915)年に小笠郡役所が刊行した『静岡県小笠郡誌』(昭和48年の名著出版による復刻版)にあたってみた。
だが残念ながら、牛渕隧道に関する情報は得られなかった。
大正4年当時の小笠郡内には、全額県費で整備されるか一部補助を受ける道路(県費支弁道路)が20路線あったといい、全路線が列記されていたが、それらはほぼ現在の県道を踏襲しており、牛渕隧道は含まれていなかった。
また、小笠郡の郡費で補助を受ける道路(郡費支弁道路)が22路線あったとも書かれているが、こちらは路線の表記がなく所在不明であった。
次に、昭和40(1965)年に小笠郡菊川町が発行した『菊川町史』にあたったところ、やはり牛渕隧道に直接関わる記述は見つけられなかったが、外濠を埋める情報をいくつか得ることができた。
その具体的な内容に触れる前に、牛渕隧道の在処の“意味”について少し考えてみたい。
平成17(2005)年に菊川町が小笠町と合併して現在の菊川市が誕生したが、菊川町自体も昭和29年に5町村が合併して誕生している。元となった村の一つが六郷(ろくごう)村で、明治22(1889)年の町村制施行時より半世紀以上にわたって存続した。(明治22年の立村当時は城東(きとう)郡、明治29年以降は小笠郡に所属)
右図は明治28(1895)年の地形図で、赤い線で囲んだエリアが六郷村だ。
おおよそ16平方キロの広さを持つ農村で、地形は全体的に西端の菊川低地と東端の牧之原台地の間にあって西低東高であるが、中央部を牛渕川が南流しており、牛渕をはじめとするいくつかの集落が流域の山間地にあった。
六郷村を一つの地域単位としてみると、牛渕隧道は村の中央部を東西に連絡する峠にある。
また、西部に偏在していた村役場へ東部の集落から行くにも、牛渕隧道は最短ルートであった。
このことから、牛渕隧道は県道のように広い地域を益する道ではなかったが、こと六郷村にとっては、最重要といえる幹線だったと想像できる。
右図は明治22(1889)年、すなわち六郷村誕生の年に測量された2万分の1地形図である。
六郷村はこの年、周辺6村の合併によって誕生したが、これにより東部山間部にある旧牛渕村や旧小沢村の住人は、西部の開けた土地にある旧本所村や旧半済(はんせい)村との間に従来以上の結びつきを持つことになった。
当初の村役場は半済地区に設置されたそうだが、牛渕隧道が誕生する前に描かれたこの地形図には、牛渕から村役場のある半済へ抜ける、明治28年版では消去された山越えの道(青線)が描かれている。
これは初代牛渕隧道よりさらに古い、現在の市道から見たら“旧々々道”にあたるルートといえる。
明治25年に初代牛渕隧道が完成したという(碑による)。
なぜこの年なのかという謎があったが、六郷村の成立と密接な関わりを持っていたのではないかと推測する。
加えて明治22年には、六郷村の北西に隣接する西方村の堀之内に官設鉄道の堀之内駅(現在の東海道線菊川駅)が設置され、堀之内は地域交通の中心地として発展を始めるので、六郷村東部から同駅への連絡利便を考えての隧道開削でもあったと思う。
以上は、村の東部から西部へ向かう交通に関する話題だが、同じ明治20年代には反対方向の需要も発生し始めたことが、『菊川町史』に述べられていた。
住民の移動は、維新前も維新後も、その原因するところは経済にある。本村
(六郷村のこと)から他へ出稼ぎする者もあるが、製茶期など他から出稼ぎに来る者もある。恒久的移動の経過を尋ねると、半済の一部(通称五丁目)は堀之内が商工業地となったためその延長で戸数が増加し、又
牧之原に戸口の移動を見たのは、牧之原が茶業の適地と知れた明治22年頃にはじまり、人々が各地から殊に河城、六郷、勝間田、萩間、平田、南山、川野村辺から続々参集して士族の失敗した開墾のあとを受けて茶園を増加させた。以前は戸数も極めて少なかったのだが、明治42年に至っては、小学校創立を見るまでに増加した。(最近では児童数300余)この傾向は大体大正7、8年頃、飽和状態に達したため、その後あまり変化を見ないようになった。
『菊川町史』より引用。
村の東端からその奥に広がる牧之原台地一帯が、日本有数の茶産地として発展を迎えるのは、鉄道の敷設によって輸送の手段が整った明治20年代以降である。
牧之原が茶業地として栄え始めた時期に、初代牛渕隧道は完成しており、小学校成立を見るほど住人が増加した時期に、2代目隧道が完成しているのである。
前回のレポートでも、茶葉輸送がこの地方に多くの道路や隧道を産み、中には近代化遺産として評価される隧道もあったことを書いているが、やはり牛渕隧道と茶業は無関係でなさそうである。
発起者
後藤平作 内田金作 内田良平
内田久七 後藤治作 近江虎蔵
内田牛松 後藤梅吉 加藤儀平
後藤傳次郎 後藤善作 後藤勇八
隧道之碑の碑文より
2代目隧道の完成を記念して大正元年に建立された『隧道之碑』には、上記した12名の名前が、発起人として列記されていた。
彼らがどのような人物であったかを調べることも、隧道の素性を知る手掛かりになると思ったが、町史に幾人かの名前を見つけることができた。
この12人の順序にどのような意味があるのかは分からないが(貢献度順?)、筆頭に記される後藤平作氏をはじめとする3名が、六郷村の歴代三役(村長・助役・収入役)の経験者であったことが分かった。
後藤平作氏
助役(明治30.3〜38.1) → 村長(明治38.1〜38.12)
内田久七氏
収入役(明治22.5〜29.3) → 助役(明治39.2〜43.1) → 村長(明治43.2〜44.3)
内田良平氏
収入役(大正3.11〜8.8) → 助役(大正8.8〜12.8) → 村長(大正15.6〜昭和10.4)
また、後藤傳次郎氏の名は、帝国在郷軍人会六郷村分会の会長(任期不明)として記載があった。
残り8名を町史に見つけることはできなかったが、12人中3人までが村長経験者であった事実は、この隧道がいかに村にとって重要な意味を持っていたかを示しているように思う。
中でも内田久七氏は2代目隧道建設当時の村長であり、内田良平氏は2代目隧道のコンクリートによる巻き立てが完成した時期の村長である。
右図は大正5年と昭和27年の六郷村だ。
これらに描かれているのは2代目の牛渕隧道であるはずだが、地図上では初代隧道との違いが分からない。
しかし、牛渕隧道の六郷村における“中央道路”的な重要性は依然高かったようで、地図上での表記は片破線から二重線へ進歩しているし、村役場の位置も隧道の近くへ移動している。この役場の移転は大正10年に行われたそうだ。
実際、この間の昭和6年に2代目牛渕隧道はコンクリートブロックによる覆工や坑門の築造を完成させ、現在までほとんど綻びなく形を留めることに成功している。
地味ではあるかもしれないが、村とともに歩んだ牛渕隧道の確かな足跡の誇らしさが、目に浮かぶようだ。
結局、私が短時間で探した資料からは、牛渕隧道についての新たな記録を見つけることはできなかった。
だが、ここでも『遠州廃ものねだり』が、すばらしい資料を明かしてくれた。
菊川市の小学校教材として使われる副読本『わたしたちの菊川』(菊川市立図書館の蔵書検索によると、「わたしたちの菊川町」と「私たちの菊川市」があるようだが、どちらかは不明。菊川に住んだことがあり、これら副読本を持っている人がいたら、確認して教えて欲しい)に、次のような核心的記述が発見されたそうだ!
牛渕トンネルをつくり変えた 内田良平さん(1878〜1962)
「昔の穴は、狭くて、いつも岩肌から、ぽとぽとと水滴が落ちていたし、歩いているときに、大きな岩が落ちてきたこともあったよ。中は昼でも暗くて、行き来にはいつも苦労したんだよ。」
これは昔の牛渕トンネルの様子です。
この頃、六郷村の村長の内田良平さんは、山に囲まれた牛渕地区の発展のためには「どうしても広いトンネルが欲しい」という人々の願いを叶えたいと考えました。
そこで当時の最高の技術を使い、幅4.3メートルで、荷物を積んだ車も通ることができるコンクリートの新しいトンネルにつくり変えたのです。
また、この工事で働いた村人たちは、お金が入り、苦しい生活の助けにもなったので、大変喜びました。
『わたしたちの菊川』から『遠州廃ものねだり』著者が抜粋したものを引用。
内田良平さん!!
「隧道之碑」の発起者に名前があった、2代目牛渕隧道覆工完成当時の村長じゃないか!
その彼が、地域の交通を発展させた偉人として、地元の子供たちの教材に今なお取り上げられているのである。
これまで副読本を机上調査の材料として考慮したことがなかったが、すばらしい成果があった。感動した!
内田良平氏は明治11(1878)年の生まれというから、少年の時代に初代隧道の完成を目の当たりにしている。
そんな彼の初代(?)隧道の記憶は、「歩いているときに、大きな岩が落ちてきたこともあったよ」…って、やべぇ!
彼が30代働き盛りの頃に2代目隧道は誕生し、それを祝して建てられた「隧道之碑」に、発起人として名を連ねている。
そしてその2年後、おそらく36歳になった大正3(1914)年に、収入役として村政中枢に参画。大正時代の終わりには遂に村長に上り詰め、以後10年の長期にわたって村を牽引した。
山に囲まれた牛渕地区の人々を思い、牛渕隧道に再度にして最高の改良を行ったのも彼だった。
昭和6年といえば、全国の農村に失業の嵐が吹き荒れていた大不況時代である。各地で時局匡救を名目にした失業者を雇用しての人海戦術的土木事業が営まれたが、本工事もその一環だったのだろう。
つくづく、地域に尽くした人たちの手による、地域に尽くした隧道だったのだと思う。
汚れるとか言って、ごめんね。