帰宅後、本橋について机上調査を行った結果、探索のきっかけとなった静岡新聞」の記事からは分からなかったいくつかの事実を知ることができた。
裾野市公式サイト内「認定道路情報(市道検索)」より転載
まず、本橋を有する道の名前は、すぐに調べが付いた。
右図は、裾野市が公開している「認定道路情報(市道検索)」に見る、本橋付近の様子である。
図中に青い実線で描かれているのは、すべて裾野市が認定している市道(裾野市道)であり、千福橋を通る道が市道に認定されていることがはっきり分かる。
一緒に注記されている路線名は、「市道2062号線」というもので、探索中に通過した【この地点】が起点、そこから千福橋で東名高速を渡ってU字型に折り返し終点へ至るという、約300mの路線である。
チェンジ後の画像は、地理院地図に重ねて描いた今回の私の探索ルートであるが、市道2062号線とは、千福橋以外では全く重なっていなかったのである。
実際のところ、現地では私が探索したルートだけが分明であって、市道ルートのほとんどは地形や植生と同化して判別困難であったし、起点などは私有地と見分けが付かなかった。
しかし、地理院地図もこの市道を実在のもののように描いていた。
市道2062号線の実態は、法的には供用中の道路であるものの、実際には利用できる状況になかったといえる。騙されたみたいだが、現実である。
記事にあった「橋へのアクセス道がなく」というのは、このような惨憺たる市道の状況を念頭に置いていたのであろう。
裾野市公式サイト内「認定道路情報(市道検索)」より転載
なお、「認定道路情報(市道検索)」では、道路法上の道路に必ず付属する詳細な図面である道路台帳を見ることもできた(右図)。
そこには千福橋の緒元(長さ51.5m、幅3.7m)も載っていたし、実際には道らしいものが見受けられない橋前後の区間にも、幅1.3m(車道幅0.3m)〜2.0m(1.0m)ほどの道路が存在することになっていた。未舗装との表示もあり、この程度の道幅では、刈り払われなければ植生に隠されてまったく分明でなくなるのは当然のことだろう。
このような道でも、法的には「ある」とするのが道路行政の常套であって、道路台帳を見る度に、こういう道が我々の周囲に多数存在していることに驚かされるのである。
橋が市道の一部であったことは判明したが、おそらく本橋について多くの方が最も疑問に感じるのは、次の点ではないかと思う。
なぜ、このような利用実績の少ない跨道橋が架設されるに至ったのか。
本橋の前後には自動車が走れるような車道が現状で通じていないことは明らかだが、未成に終わったそうした車道計画があったという証拠も得られなかった。
「見つからなかった=無かった」とするのは無理があるが、橋の構造からして明確なのは、本橋が“大掛かりな未成道の一員”ではないということだろう。
この点においては、過去に紹介した高速跨道橋の廃橋である青葉山橋と大きくストーリーが違っているように思われた。
青葉山橋は本橋のような1車線幅の狭隘な橋ではなく、2車線道路を想定した大型橋であった。そして調査の結果、青葉山橋の架設当初には将来の利用計画である都市計画が存在していたことが判明し、その計画の頓挫によって、利用がされないまま時間を経過したものであったということが分かった。
対して、この千福橋にはいかなる架橋の動機が認められようか。
残念ながら、この謎の完全な解答は得られていない。
しかし、「おそらくそうだろう」という答えは得ている。
それは本橋に限った事情ではなく、極めて多くの高速跨道橋に共通している、とても一般的な動機であった。
東名千福橋は、“公共補償”の名目で架設されたと推測される。
公共補償とは、公共事業の施行によって機能が損なわれる起業地内の公共施設に対する補償のことである。
例えば、ダム建設(←公共事業)によって道路や役場(←これらは公共施設)を代替地に移転する事業がこれにあたる。
(マンション建設のために家屋を移転するようなものは公共補償にはあたらない。また、公共事業であるダム建設の例でも、住居を移転するようなものは公共補償にあたらない)
今日の公共補償は、昭和42(1967)年に閣議決定された「公共事業の施行に伴う公共補償基準要綱(pdf)」が基準とされている(参考:公共補償)。
先ほど例を挙げたのはダム建設による公共補償であったが、道路建設もまた公共事業である。その工事の過程で別の道路(道路の大半は「公道」ともいわれるように公共施設であり、例外は私道のみ)の機能が損なわれる場合にも、機能の補償が原則として求められるわけである。
これはまさしく、高速道路の新設によって既存の道が寸断されるような場合が該当する。
一般的な道路建設であれば、それが従前の道を寸断したとしても、そこに交差点を設けて接続することで比較的容易に機能の維持が可能だが、高速道路のように平面交差が許されない道路では、立体交差化する必要が生じるのは自明である。
一般に補償というと、道路建設とは切っても切り離せない「立ち退き補償」のように、金銭によって行われるイメージが強いのだが、公共補償の場合は金銭ではなく機能を補償することが原則となる。小学校の公共補償であれば適宜の地点に小学校を建設する必要があるし、役場や水路や道路も同様である。
このように、公共補償によって公共施設の機能を維持することを、機能回復(または機能補償)と称する。
『日本道路公団二十年史』より転載
制度的な裏付けの話はさておき、実態についても見てみよう。
『日本道路公団二十年史』によると、わが国で最初に完成した高速道路である名神高速道路(全長約190km、昭和40(1965)年全線開通)には、平均して本線の1.7kmに1本の割合で「オーバーブリッジ」(高速跨道橋)が施行されたという。これは計算上、本線上だけでも110本余りが架設されていたことになる。
そこに公共補償という言葉は出ていないものの、当初から高速道路には非常に多くの跨道橋が建設されたことが分かる。加えて高速道路の下を潜る「アンダーブリッジ」も相当数が施行されている。
このような数の膨大さから、その大部分がいわゆる幹線道路ではない小規模な道路の機能回復に必要とされたと推測されるのである。
なお余談だが、名神高速に施行されたオーバーブリッジの90%ほどが、右写真に示した「PC斜π橋」型式(正式名は「PC斜材付π型ラーメン橋」)であったという。これは、「ドライバーの目に直接触れるものだけに、広々とした感じを与えるスレンダーな構造」とすることや、経済性から選択された型式であったが、その後の高速跨道橋でも事実上の標準形式になったとされている。千福橋も同型式である。
もう一つ余談だが、高速道路のオーバーブリッジは原則的に自動車の通行に耐えられる規格で建設されるようだ。
このことは、実際上に歩道橋として簡易に作られたオーバーブリッジを目撃していないことからも推理される。
だからこそ、千福橋のように前後に自動車の通行するような道路が開通していない場合や、将来にわたって車道化の計画がない場合であっても、千福橋程度の最低限の車道の規格で建設されていると思われる。
これは無駄なことにも思えるが、耐久性の問題などがあるのかもしれない。
@ 地理院地図(現在) | |
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A 昭和51(1976)年 | |
B 昭和18(1943)年 | |
C 明治29(1896)年 |
千福橋架設の理由は、東名高速の建設以前からそこにあった公道の公共補償であったとする私の仮説を裏付けるべく、現在から明治時代までに作成された4枚の地形図を比較してみた。
@とAは東名高速開通以降の地形図であり、BとCが以前である。
後者2枚の地形図により、高速ができる以前の地形や道路の状況が推測できる。
千福橋が架設された位置には、かつて北西―南東方向に細長く伸びる小高い丘があったことが分かる。
その丘は現在においても御宿と千福の大字境になっていて、明治22年の町村制施行以前は村境にあたっていたと思われる。
高速はこの丘の最も高いあたりを南北に貫いて建設されており、稜線が寸断されている。千福橋の架設位置もそこである。
だがこの稜線上に、寸断されるような古い道の姿は描かれていない。
したがって、私の仮説を裏付ける証拠にはならない。
しかし、現地探索によって、千福橋から北西に通じる稜線上には、(現在認定されている市道よりも遙かに)【明確な道の跡】や【裾野市章のある境界標】が発見されている。
そこに地形図には描かれなかった公道が、かつて存在していた可能性は十分にあるだろう。
公図の確認を行い、稜線上に赤道(法定外公共物)を見つければ有力な証拠になるが、確認はしていない。
このように決め手には欠けたものの、新旧地形図調査によっても公共補償による跨道橋架設の可能性は高まったと思う。
高度経済成長期におけるモータリゼーション隆盛により、高速道路等の高規格道路の速成が国民の極めて強い賛意を背景としていた時期において、高速道路事業者である旧日本道路公団は、相当に機械的かつ盲目的と思えるような頻度で、高速跨道橋による小規模道路の機能回復を実施していたようである。
なにせ、機能回復の対象とされた道路は、道路法上の道路である国道・都道府県道・市町村道や、林道・農道のように監督官庁が明確な道路法外の道路に留まらず、いわゆる法定外公共物(赤道)と呼ばれるような、道路管理者が明瞭ではない旧道路法時代の遺物までをも含んでいたのである。
補償に万全を期すことで、用地の買収を円滑化し、建設反対の運動を封じて、道路を速成させようという目的があったとみられる。
その結果、今日の高速道路の車窓には、ところによって過剰と思われるほどの跨道橋の連続を見るようになったし、当然のことながら、利用実態の極めて乏しい橋を大量に生じさせることになった。
国土交通省道路局が平成27(2015)年2月と5月にそれぞれ公表した「高速道路跨道橋の点検状況について(pdf)」(以下「点検状況について」)「同 その2(pdf)」というプレスリリースは、膨大に増えた高速跨道橋が巻き起こしている“ある現代の問題”について報告しているのである。
上記のように定義される高速跨道橋が巻き起こしている“現代の問題”とは、その老朽化が高速道路の安全を脅かし始めていることだ。
平成26年10月1日時点における全国の高速跨道橋の総数は、5798橋あるという。
道路の種類別の内訳も公開されており、例えば裾野市が管理する千福橋のように市区町村が管理する橋は2549橋あって種類別の最大多数であることや、法定外公共物である橋が608橋もあることが分かる。
これらの膨大な高速跨道橋の一部は、永年にわたって点検が行われないのだという。
この問題が明るみになったきっかけは、平成25年10月に会計監査院が高速道路6社に対して行った次のような処置要求である。
曰く、全国の高速跨道橋のうち635橋は完成後一度も点検がなされておらず、548橋では点検の実施状況が不明であるから、会社は早急に対策せよ。
この要求の前年にあたる平成24(2012)年12月2日、中央自動車道の上り線笹子トンネルで天井板のコンクリート板が約130mの区間にわたって落下して、走行中の車複数台が巻き込まれ9名が死亡するという大事故が起きている。事故原因となった天井板は、昭和52(1977)年の開通以来、老朽化対策がなされていなかったことが明らかになり、道路の老朽化に伴う安全性の問題が世に問われる大きなきっかけとなった。
その中で高速跨道橋の問題もクローズアップされた。
高速跨道橋の問題の難しさは、こうした橋の管理者の8割以上が、高速道路会社や国以外の地方公共団体などであることだった。そのため、高速道路会社のみで点検・補修・撤去等の決定・実施ができず、複雑な協議を要する状況にあった。
国はこの問題の対策として、平成25年から26年にかけて全国の全ての都道府県で跨道橋連絡協議会と道路メンテナンス会議を開催したほか、26年7月に道路法施行規則を改正して、全ての高速跨道橋について5年に1度の近接目視による全数監視(点検)が行われるように義務づけた。
これにより、平成31年現在においては全ての高速跨道橋が点検を受けたとみられるが、将来にわたるメンテナンスコストが増大することを懸念した地方公共団体によって、後述する補助金制度を利用したうえで、橋の撤去を選択するケースが急増しているようである。
補助金とは、国の「社会資本整備総合交付金の効果促進事業」として高速跨道橋の単純撤去を行う場合に、通常45%の地方負担率が30%に低減されるというものである。
「点検状況について」でも、旧日本道路公団が中央自動車道建設に伴う機能補償のために整備して西桂町へ移管した2本の高速跨道橋(昭和44年完成)について、平成28年に町が撤去工事を行ったという事例を紹介している。
千福橋もこの交付金を受けて行われる撤去であり(裾野市のフェイスブックにその旨記載あり)、東名高速道路では初のケースであるという。
机上調査の結果見えてきたのは、率直に言って、千福橋の存在感を高めるどころか、逆に「たくさんあるものの一例」でしかないという、悲しい現実だった。
これでは撤去される橋も浮かばれないような気がするが、唯一の救いと思えることは、千福橋がわが国の道路中における最大功労賞を受けるべき東名高速道路の円満な開通に、何らかの貢献をしたと想像できることだろう。
ここで東名高速の整備が躓いていたら、当時どれだけの渋滞が救われなかったか分からない。
東名高速に感謝の念を持つ人ならば、間もなく消えゆくこの橋にも、同じ気持ちを向けて良いだろう。
私としても今回の探索は、今まで深く考えることがなかった高速跨道橋の背景について知見を得る良い機会であったと思う。
ありがとう、千福橋。
完結。